やわらかに風が[お知らせ]

11月のブハラ

11月中旬から3週間、ウズベキスタンのブハラに滞在していた。

これが3度目の訪問。過去2回はいずれも5月で耐えられない暑さだったが、この時期のブハラは東京の真冬より寒い。ときどき風が強く吹き雨も降る。
たまにしか観光客を見かけないため開いている土産屋は少なく、オフシーズンのブハラは寂しさも感じる。しかし、地元民が冬の装いで歩く古い街なみには趣がある。

<11月下旬のブハラ旧市街 タキ・サラファン>

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前回世話になった家族の次女が結婚するというので披露宴の参加が目的だった。

披露宴を11月20日ごろに行うが、前後にいろいろと祝い事があるので1ヶ月は居て欲しいと言われたが、それはあまりにも長すぎると交渉の末3週間の滞在とした。
11月中旬、ブハラに到着すると日取りがまだ決まっていなかった。それだけでなく、海外で働く結婚相手がまだ帰国していないことを知り唖然とする。
長男は海外から、そして長女や家族、叔父や叔母たちは車で7時間のテルミズから既に来ていてその家で結婚式を待っていた。しかし、結婚後に入る新居の改装工事が終わらず、新郎の仕事の都合もあり式の日取りが決まらないようだ。
ブハラ滞在をしばらく延ばすよう何度も頼まれたが、FIXの格安航空券なので無理だと断る。ブハラに着いて1週間以上経ち、私の帰国日にぎりぎり間に合わせる形で日取りが確定した。
10日前に披露宴会場のレストランを決め、急遽作成された招待状のカードを配り、遠隔地の親戚に連絡していた。
すると、4日前からテルミズの親戚が集団で押し寄せ始め、2日前には百人以上となる。食器の数や室内のスペースが十分でないので、食事は十数人ずつが順番に取る。十畳二間に三畳の台所だけの家に4~50人が泊まり、溢れた人々は改築中の新居や近くの親戚の家に散らばっていく。そして、披露宴は300人以上が集まる盛大なパーティーとなった。

ウズベキスタン人のflexiblityの高さに感心する。

<前日の催しクリックでyoutubeへ

<シャボン玉が舞う披露宴/手前でお辞儀する花嫁(2枚組)

私の滞在日程に合わせて凝縮したと言っているが、結婚式前後の3日間、以下のような催しが行なわれた。

披露宴前日の昼、楽隊とともにお祝いを抱えた人たちが通りを練り歩き、パーティー会場となる近所の大きな屋敷に入っていく。会場では200人ぐらいが集まり食事をした後、大音響のなか踊りながらお祝いをする。しかし新婦はこのパーティーには顔を出さない。
新郎の家では、夜に楽隊がやって来て中庭で演奏とダンスを行なった後、通りを大騒ぎしながら行進して新婦の家に向かう。(youtubeへ
新婦の家では、室内のスペースが儀礼用のカーテンで仕切られ、伝統的衣装の花嫁がみんなに見守られながらその中に収められる。その後、伝統的衣装の花婿が宗教的吟誦や祝福の声のなか、花嫁が待つカーテン内のスペースにゆっくりと入っていく。この儀式により2人の結婚が認められたという。

披露宴当日朝7時、宴会場となるレストランに200人ぐらいが集まり、プロフが振る舞われる。そのプロフは親族の男性だけが調理して提供する習わしになっていて、2メートルぐらいの大鍋で調理されていたが、すこぶる美味かった。
夕方6時からレストランに300人ぐらいが集まり披露宴が行なわれる。花嫁花婿は洋風の衣装で来賓のスピーチやケーキカットがあったりと日本とあまり変わりがない。ただ、ひな壇の2人が食事もせず花嫁が何度もお辞儀をし続けているのが気になった。

披露宴の翌朝、新婦の家で簡単な儀式が行なわれ、嫁入り道具とともに新郎の家に向かう。新郎の家では、女性たちがお祝いの品を新婦に捧げ、祝福のキスをする。その後、その場で絞められた羊肉が振る舞われ、花嫁は5種類の衣装を披露して、参列者の前で黙してただお辞儀だけをしている。

花嫁はこの3日間、室内に身を潜め、姿を現してもうつむいて笑顔を見せず、ときどきお辞儀を繰り返しているだけだった。陽気でおしゃべりな彼女が人形のように口をつぐみお辞儀し続ける姿があわれに感じた。
彼女とは別れのあいさつもせず、披露宴2日後の朝、私はブハラを離れた。

<足は治ったのか?>

2010年3月から続いている踵の慢性痛について。
この踵痛でまともに歩くことができず、ずっと旅に出ていなかったのだが、治る前に出かけることにした。ペインクリニック医に海外に行って大丈夫なものなのかと相談すると「ぜひ行くべきです」と強く勧められたからだ。

自分では全く自信がなかったが、なんとかブハラまでたどり着くことができた。しかし、フラフラしながらゆっくり歩くことしかできず、見知らぬ街の子に酔っ払っているのかとからかわれるほどだった。観光客が非常に少ないため、街の人みんなから見られているような気がして、痛みを我慢して普通に歩くよう努力していた。
また、床に座るとどのような体勢を取っても踵に痛みが走るので日本では椅子以外に座っていなかったが、ブハラの家庭における食事は薄手の座布団に座り絨毯の上に置かれた食器から食べるのが基本。この時期は熱いスープが出ることが多く、薄い食器は熱くて持てないため、あぐらをかいたまま上半身を前屈して口を近づけなければならない。踵に体重がかかり、顔を歪めながらスープを飲んでいた。
ここで生活しているうちに踵痛は間違いなく悪化するだろうと思っていた。しかし、滞在中に結婚式は開かれるのだろうかとやきもきした後、次々と現れる親戚たちとロシア語の会話に悪戦苦闘し、うじゃうじゃいる子どもたちと戯れたりしているうちに踵痛をあまり考えないようになった。

結果として、ブハラ滞在3週間で痛みの度合いが1段階(5段階の3から2へ)改善した感じ。
「あともう少しで良くなりそうなんですけど、これから何をしていけばいいですか」
帰国後、担当の医師に尋ねた。
「簡単ですよ。もう1度旅に出ればいいんです」
医者らしからぬアドバイスに一瞬固まってしまったが、確かに自分でもそういう気がする。

荷物を背負って移動する旅はさすがに無理なので、また誰か海外の結婚式に呼んでくれないかな。

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