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[イスラエル]出国(強制ディレイドバゲージ)

<エルサレム 岩のドーム>

<エルサレム旧市街ムスリム地区のお嬢さん>

エルサレム旧市街近くから駅までの移動のため、発車しそうなバスに駆け寄った時、警備のためバス車内にいた軍服姿の男女2人にライフルを向けられ静止を命じられた。自爆テロ防止のためバスに走って近づいてはいけないようだが、なんとも物騒な国だ。銃口を向けていたのは20歳前後にみえる若者。経験不足から判断を誤り撃ってしまう、なんてことはないのだろうか。

エルサレムからテルアビブに列車で移動して、着いた駅から5分ぐらい歩くと偶然にもトラベルエージェンシーをみつけた。エルサレムのエージェンシーではアテネまで300ドルぐらいと言われていて決めかねていたが、ここではイスタンブールまで175ドルだという。今日の便でエラル(EL AL)だがいいかと確認された。聞いたことのない航空会社だが安ければ何でもいい。じゃあ今すぐ空港に向かって、3時間前到着が必須だから、と送り出され、テルアビブはほとんど何も見ずに出国することにした。

空港でEL ALのカウンターを探すと、それは元国営のイスラエル航空だということがわかった。搭乗手続き前の長い列に並んでいると、途中に係官がいて『どこへ行く、1人か、荷物はこれだけか』と尋ねてきた。そして、この3つの質問だけで私は列から外され特別扱いを受けることになる。怪しい人間を出国させずに引き留めておくということはしないだろうから、長い列に並ぶ代わりにまた延々と質問を受けるのだろうぐらいに思っていた。
バッグの中身をチェックされるコーナーに連れて行かれた。コの字型のカウンターで荷物のX線チェックで引っかかった人たちが不満そうな顔をしながら係官のチェックを受けている。まあ、このぐらいのことは想定していたことだ。早めに済ませてもらおうと思い、指示される前にバッグを開けようとするとバッグに触るなと制止される。
そして、次々と立場が上の人間が現れ、4人目の男が同じ質問を繰り返した後でこう続けた。
『なぜ1人なのだ。なぜグループじゃないのだ』
『・・・なぜって、1人が好きだから』
『なぜ鞄がそんなに小さいんだ。なぜ、その大きさで3ヶ月旅行できるんだ』
『・・・そんな(愚かな)質問には答えようがない』
今回は堪えようと思っていいたが、いいかげんいらついてきた。すると、そこへ新たな2人のセキュリティが現れ、私のバッグを台車に乗せ、彼らに前後挟まれた状態で別室へ連れていかれる。バッグが小さすぎたのがいけなかったのだろうか。いや、そんなことでも質問に答える態度が悪かったからでもなく、始めから予定されていたこととしか考えられない。入国時に面倒を起こした者が二度と来る気が起きないよう(としか思えない)執拗な嫌がらせをこのあと受けることになる。

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裏手にあるセキュリティーロックのかかったドアを開けると、ひとけのない寒々とした空間が広がっていた。細いベッドほどのアルミの台が数本横たわり、棺桶かリンチ台が並んでいるような不気味さだ。バッグは奥の部屋に運ばれ、私と監視の男2人だけで部屋で待っていると、2人の若い男が入ってきた。この国の男たちは、徴兵制かハゲやすい頭のせいかわからないが、坊主頭が多く不気味さを助長させる。その5分刈りの男たちが部屋に入るなり薄手のビニール袋を手にはめだした。私は靴を脱がされ、大きなフィッティングルームのごとき部屋に入れられて、カーテンが閉められた。さすがに恐怖を感じた。拷問を受けることはないだろうが裸にされるのだろうか。あの手袋は尻の穴を検査するものではないのか。
2人の男に気持ち悪いほど体を触りまくられ服も脱がされたが、パンツ一丁になったところで終了した。
次にバッグが置かれた奥のスペースに移動させられる。5人の男に取り囲まれバッグのチャックを開ける。その後、私をバッグから引き離し、4人の男が可能な限り中身を細かく分解しながら、手で良く触り、金属探知器で確認し、液体や電化製品は奥の部屋に運んでいく。別の人間が検査するのだろうか。
他に搭乗客はいないと思っていたが、所持品チェックエリアにはうなだれて涙を流す褐色の婦人が隅のベンチに座っていて、女性係官がなだめていた。なぜこんな目に合わされるのかと思うと、私も泣きたくなる。

彼らはアフリカの係官と違って現金には興味がない。私がいろいろなところに分散させた現金を見つけると、その度にベンチで待たされている私の所に運んでくる。最後にはバッグの奥からでてきたと言って見覚えのない硬貨を持ってきた。何年も前に旅行したブラジルの硬貨じゃないか。よく見つけたな。
30分ほどの時間をかけ所持品チェックは終了したようだ。しかし、ノートパソコンと充電器、シャンプー、コンタクトレンズ保存液、そして中身を全て抜いた布製財布は別便で送るという。ロストバゲージ扱い(ディレイドバゲージ)で翌日の夕方着くと言う。
『なぜ機内預入荷物でなく別便で送る必要があるんだ』
『我々は説明できません。セキュリティの手続き上そうなっているのです』
リーダー格の男が答えた。プーチン大統領の顔から神経質さを取り除いた柔和な顔つきをしている。さすがユダヤ人、役者が揃っている。
『だから、その手続きにどういう意味があるんだ。あんたらが説明できないなら説明できるやつを連れて来い』
私のような人間が二度と入国する気が起きないよう、意地悪をしているとしか考えられない。怒り心頭に発していた。
『理由はない。しかし手続き上のルールには従ってもらう。それだけだ』
『ノー!!あんたらのルールには従わない!』
断固拒否した。私はイスタンブールに滞在の予定がない。長くて1日、できれば今晩中に夜行で隣国に移動しようと考えていた。そのことを伝えても彼らは聞く耳を持たない。翌日の夕方にはホテルに送られるから全く問題ない。そう言うだけだ。
別便用の箱が持ち込まれ、私の拒否を無視して箱に積み込まれる。ああ、こんな事が分かっていれば多少高くてもアテネ行きにすれば良かった。アテネなら2、3日滞在しても問題なかったのだ。あるいは陸路での国境越えに変更しようか。イスタンブール便チケットのキャンセルを考えていたが、そうすれば最低この国にもう1泊はする必要があるだろう。イスラエルはもう懲り懲りだ。
完全にふてくされ、拒否をしながらも彼らの指示にゆっくりと従い、スタッフの1人と共にチェックインカウンターに向かった。そこで、航空会社の女性スタッフに尋ねる。
『明日のイスタンブール行きは何時に着きますか』
『すみません。明日はフライトがありません』
『何だと。どういうことだ』
私は、同行してきた若いセキュリティに食ってかかった。
『大丈夫です。接続便がありますので、ロストバゲッジは問題なく明日の夕方着きます。必ず24時間以内に受け取れますのでご安心下さい』
女性スタッフが愛想の良い笑みと共に答える。そうそう問題ないですよ。5分刈りのセキュリティもにこにこする。
英語で会話している時は頭の回転がすこぶるにぶくなる。私は納得してしまいイミグレーションへ進んだが、機内に入ってからふと思った。こんな短い距離で接続便なんてある訳ないじゃないか。

結局、ロストバゲジは次のフライトである翌々日の深夜着便に乗せられ、PCのため空港からホテルにも送られず(イスタンブール空港のローカルルールによる)、私はイスタンブール4日目の午前中に空港に出向き、やっとロストバゲージ扱いとなったパソコンを受け取ることができた。

自分たちで作ったルールを守ることに専念して相手の痛みを理解しようとしない。優秀だとされるユダヤ人が誕生して幾千年、多くの民族から憎しみを買い続ける理由はそこにもあるのではないだろうか。

<後日記>

必ず24時間以内でPCは到着すると何人ものセキュリティ及びチェックインカウンターの航空会社スタッフが約束したにも関わらず、3日後受け取りとなったことに強く抗議するため、ロストバッゲージ遅延(ディレイドバゲージ)による費用請求を行うこととした。ロストバゲージが発生すると1日何ドルか負担したりするので航空会社に要求すべきとガイドブックに記載されているので、イスタンブールでの宿泊費用の一部あるいは全部をイスラエル航空は支払うものと考えていた。
クレームは空港のロストバゲージカウンターが窓口となって受け付けるものだと思っていたが、それは誤りで航空会社に対して直接行う必要があるという。ノートパソコンを受け取った日は日曜日でオフィスは休み。イスタンブール滞在をこれ以上延ばしたくなかったので、別の都市でイスラエル航空とコンタクトを取ることにした。(何らかの請求を行うのであれば、ロストバゲージが発覚した時点で航空会社とコンタクトを取る必要があるとのこと)
アテネではマネージャー不在を理由に断られ、ローマではテルアビブに直接電話して交渉しろ、と取り合ってもらえない。それぞれの支店のスタッフと何とか言葉は通じているようだが、全くコミュニケーションできていないことに苛立ちあきらめかけた。しかし、東京にも航空会社の支店があることを知り、帰国後クレームすることとした。

日本はいいところだ。小さなオフィスのマネージャーは私のクレームに対して航空会社(実際は関連会社)の社員として深く謝罪した。日本では当然のことだが、帰国直後のため予想していなかった行為に感動した。そして、彼は詳しく説明してくれた。
・ロストバゲージの到着が遅れるようであれば、同じ場所で待っているのではなく、次々と移動先(今回のケースではソフィアかアテネのホテルや空港など)を航空会社に連絡して転送してもらうことが可能。どれだけ転送されても乗客に確実に荷物を渡すところまでが航空会社の責任範囲。
・荷物が損傷なく乗客に渡した時点で航空会社の責務は果たされている。規定上は遅延に対して補償の義務はない。
・イスラエル航空では、以前、ロストバゲージとなった乗客に対して1日15ドル支払っていたが、現在は中止している。申し出た乗客に歯ブラシなどのお泊まりセットを渡しているだけ。今はどこの航空会社でも現金を支払うことはないのでは。
・何らかクレームする際、ロストバッゲージ発生時点から21日以内に航空会社に対して意志表示することが必要だとIATAの規定で定められている。
・ロストバゲージを24時間以内に受け取れると偽りの説明を行ったことに対してクレームするのであれば、いつ何時にどこで誰がという情報が最低限必要となる。

ということを説明した上で、書面でクレーム内容を提示すれば本社に取り次ぐと言われた。しかし、補償額は最大で45ドル(1日15ドルの3日分)で、支払いに応じる可能性はゼロに近いということを理解して、これ以上無駄な労力をかけることを断念した。

代わりにこのマネージャーに質問しながらいろいろと話を伺い以下のような内容が印象に残った。
・イスラエル人はホテルも予約せず一人で観光する個人旅行者というものを未だ理解できていない。
・イスラエルのセキュリティには米国の友人である日本に好意的な人が多い反面、連合赤軍の印象が抜けず日本人に対して敵意的な態度を取る年配者が少なくない。
・ツアーコンダクターから転身したこのマネージャーは、イスラム圏入国スタンプのあるパスポートを所有しているため、イスラエルに出張の際、イスラエル航空の社員証を提示してもセキュリティによるしつこい尋問に悩まされた。パスポートの内容だけでセキュリティのルールに沿った対応をされることが多いので、情勢によってはイスラム圏渡航歴のある旅行者は入国拒否される。

私の場合、2006年6月ガザ侵攻以降の緊迫した時期に訪れていれば入国できなかった可能性が高いとのこと。
今後、イスラエルを旅行される方は、できるだけきれいなパスポートで(そのパスポートでイスラム圏に入国する場合はノースタンプの主張が必要)、可能な限りツアーで入国することをお勧めします。

(後日記は2006年7月11日)

[エジプト]カイロ(2)

カイロはアラブやアフリカというよりもアジアだ。人や街を見ていて、日本人の感覚からからかけ離れたところがない。多くの人々がマイルドで、言葉が通じなくてもコミュニケーションでき、街も人々の行動も理解しやすい。

走行する車の凶暴性はアジアの都会と比較しても高いものがあるが、車さえよけられればカイロの街歩きは難しくない。
体調は回復したようだ。昨晩、一等車ながら夜行でルクソールからカイロに入り疲れがあるはずだが、広いカイロ市内を自分でも驚くほどの距離を歩き回った。

過剰なチェック(アルジェ)

<カスバの明るい子どもたち(2枚組)

明るい空き地で戯れる子どもたちの笑顔をみていると、この国は平和に戻ったかのように感じる。しかし、テロ組織が完全に鎮圧されたわけではないという。そのためか、飛行機搭乗時のテロに対する警戒ぶりは尋常ではなかった。

在日大使館でビザ取得時、国内の移動は陸路を使わないよう忠告されていたため、距離のあるコンスタンティーヌには空路を使った。アルジェのホテルで出会った旅行者が、必ず3時間遅れる飛行機はやめた方がいいと言っていたが、私の場合も行き帰りともきっちり3時間遅れた。今すぐにでも出発しそうなアナウンスをしておきながら、ロビーで1時間、出発待合室で1時間、搭乗バスに乗せて立たせたまま30分と待たせるので、たちが悪い。これはテロ対策で、十分すぎるほどに時間をかけて荷物や人物、機内のチェックを行なっていることが主因のようなのだ。

アルジェからパリへ向かう国際線もどうせ遅れるだろうと思い、空港に1時間半前に着けば十分かと思っていた。空港バスの遅れで1時間20分前に空港に着いたが、全くあせっていなかった。
チェックインカウンターが閉じていたため早すぎたのかと思ったが、しばらく待っても始まる気配がなく搭乗客も集まらない。おかしいと気づいたのは出発1時間前で、航空会社のオフィスで尋ねると、国際線は1時間半前で締め切る決まりになっているので、搭乗できないと言われる。
なんたることだ、決定的な失態である。代替のチケット購入に十万円以上払わされるのだろうか。私はどのような言い訳あるいは言いがかりをつけようか考え始めていたが、その必要はなかった。
「大丈夫、直行便はないですがマルセイユ経由でパリに入れます。日本便の乗継も間に合いますね」
「えっ、替えてもらえるんですか」
すんなりと代替便に変更してもらえた。格安チケットで乗り遅れたのに、寛大な航空会社だ。

余裕を持ってマルセイユ便のチェックインを始めた私は、1時間半前に完全に締め切られる訳を理解した。パスポート、ボーディングパスなどのチェックポイントが数多くあり、その度に列に並ばされ時間がかかる。機内安全のためにあらゆる項目を厳重にチェックするのであれば理解できるが、同じ項目を何度も重複して確認しているのである。
やっと、機内へ向かうバスに乗ったが、搭乗機の手前でバスを降ろされ、機体の近くに停車する別のバスに1人ずつ乗せられる。そして、バスの入口でチェック、バス車内で3回目となる荷物チェック、そのバスを降りる際にもまたチェック。機内搭乗時にボーディングパスとパスポートを確認されたのが実に16番目のチェックポイントだった。これでは1時間半でも時間が足りない。

ぐったりと疲れ、アルジェリアはやはりアフリカだと思った。

垢抜けた子どもたち(アルジェ)

<カスバの姉弟(2枚組)

カスバで一眼レフカメラをぶら下げていると、危ないから隠すよう街の人々に注意される。出会う人々を見ている限りそんな危険性は全く感じないが、犯罪者が潜むというカスバで地元住民が忠告しているので従うこととする。但し、代わりにコンパクトデジカメを手に持って歩いた。
カスバの道はほとんどが海へ向かう下り坂で、石畳であったり階段が延々と続いていたりする。坂道を登っていると、写真を撮ってと声をかけてくる子どもたちに出会う。下町で子どもたちが近寄ってくることは他の国でも珍しくないが、ここは路上が汚れていても、子どもたちの身なりが良く清潔である点が異なる。

周辺のビルが崩れて陽のあたる階段でも、密集する建物の下をくぐる暗い坂道でも、垢抜けた女の子が小さな弟をいたわる姿が印象的だった。

子どもを叱る(サナア)

<夜のサナアの子どもたち>

夕方になると子どもたちが増えてくる。サナア旧市街の広場で3人の姉妹を見つけカメラを向ける。すると、近くにいた男の子たちがすごい勢いで駆け寄ってきた。しかたなく男の子を含めた集合写真を撮り、その後で女の子だけを撮ろうとしたが、女の子たちが押されて大騒ぎになる。更にその様子を見た周りの子どもたちが大勢集まり、カメラを持った私がもみくちゃにされる。その時、近くにいた大人が子どもたちに大きな声を出した。
『何やってんだ。みっともない。』
たぶんそんなことを言ったのだろう。興奮していた子どもたちを私から引き離すと、その男は私を向いてニヤリとした。彼は口髭を触りながら私のカメラに興味の視線を向けていたが、その衝動を押さえるように手をあげて去っていった。

サナアでは他人の子どもを叱る大人の姿をよくみかける。イエメン人あるいはアラブ人のプライドを教えているような気がする。

不意に現れた子どもたち(サナア)

<狭い路地から現れた裸足の子どもたち>

車の通らない静かな路地で、ファインダーを覗きながら撮影ポイントを探していると、突然、2人の女の子が目の前に現れた。そして、年長の子が無言でカメラを指差す。写真を撮って欲しいのかと私が尋ねると、彼女が頷き、2人は緊張した面持ちで身構えた。カメラの準備ができていなかったが慌てて1枚撮影すると、そのまま2人は立ち去ろうとする。
『ちょっと待って。スーラ、ワン、スーラ、ワン』
覚えたばかりの言葉が通じた。裸足のこの子たちは、髪はボサボサで服は汚れている。先ほどの子と違い、旧市街で平均的な暮らしをする子どもたちのようだ。
『こわい顔しないで、リラックスして。ほら笑って』
すぐにでも逃げ出したそうな子どもたちを立たせ、カメラを向けながら話しかける。通じているのか引きつった笑みを浮かべる。
『まだ、かたいなあ。ちょっと待って、もう1枚・・・。』
3枚目の準備をしようとした時、2人はこらえ切れなかったように駆け出し、私の背後の狭い路地へと去っていった。
不意に現れた子どもたちは唐突に目の前から姿を消した。

スーラ、スーラ(サナア)

<ポーズをとるサナアのお嬢さん/サナアの子と黒装束(2枚組)

『もっと、子供っぽくできないの?』
彼女にいくら言っても通じない。私はおすましした子の写真など撮りたくない。かわらしい表情を写したいのだ。
「スーラ、スーラ」
英語の全く通じない女の子は、アラビア語で写真の意味と思われるスーラだけを連呼する。

海外では貴重品を隠して歩けと言われるが、私は敢えてカメラをみせびらかすように手に持って歩く。そうすると、写真に撮られたがる子どもが近づいてくる。その時も一人の子が私を見つけるやすぐに駆け寄りカメラを指して、スーラと叫んだ。人通りの少ない路地で彼女にカメラを向けると、なぜか壁にもたれこんだり、髪を手でかきあげたりして子どもらしいしぐさをしない。そして、お決まりのように首を傾けて目を虚ろにする。女性雑誌の写真を意識しているとしか思えない。ねえ、手にボンボンを持ったままじゃ、アンバランスだよ。
デジカメで撮った写真を見せると、その子は飛び跳ねて喜び、もう一枚お願いというように、スーラ、スーラと言いながら私の腕を引っ張る。それは見たままの10歳過ぎの子どものしぐさだが、カメラを向けると、すぐに身構え、すましたポーズをとる。
彼女はよほど写真が好きなのか、場所を変えながら何枚も何枚も撮影させた。家の玄関、車のボンネット、トラックの荷台、周辺で見つけた様々な場所でポーズを作り、シャッターを切ると、走って結果を見に来る。
『ねえ、名前なんていうの?住所はわかる?写真送ってあげようか』
言葉がわからなくてもジェスチャーで通じるはずだが、彼女は反応することなく、スーラ、スーラを繰り返す。広い路地で撮影した時、黒装束の女性3人が通りかかった。写した瞬間に女性たちが近くにいたことに気づいた女の子は、まずかったというように口に手をあて、おどけた顔をした。
イスラムの女性は基本的に体のラインや肌の露出を禁じられているが、この国ではそれが厳格に守られている。だいたい12歳からヘジャブ(スカーフ)で髪の毛を覆うが顔は出している。しかし、16歳ぐらいから黒い布で顔も含めた全身を覆い隠され、男性はそのような女性に話しかけられず、見つめることも許されない。写真を撮るなど論外である。
それを考えると、このような天真爛漫な娘が大人びたポーズを取ることに哀れみを感じてくる。女性らしい姿を見せられるのは初潮前の子どものうちだけなのだ。

私は、彼女のしつこいスーラ、スーラにつきあい続けた。髪の毛をかきあげるポーズはいつまでできるのだろう。全身を撮影してもらえるチャンスはあとどれだけあるのだろう。
腕を引かれながら、言葉の通じない彼女に話しかける。
『ねえ、撮った写真欲しくない?』
『ねえ、どうしたら渡すことができる・・・』
『ねえ・・・』

ファランジ、ファランジ (ハラル)

<ハラルの路地の子供たち(2枚組)

エチオピアでは、どの街でも子供たちから大きな声をかけられるが、その言葉が街によって異なる。アジスアベバでは「ミスター」、ゴンダールでは「ユー、ユー」、アクスムとラリベラでは「ハロー、ハロー」。
そしてハラルでは、路地や店先、家の窓、庭の茂みなど、子供たちがどこにいようと私をみつけさえすれば、大きな声で「ファランジ、ファランジ(外国人)」と叫んでくる。
中には外国人からなんとか小銭を手にしようと迫る子供もいるが、たいていは私が振り向いて手をあげると大いに盛り上がり、カメラを向けると喜んで群がってくる。
埃やハエが多い、食べ物がまずい、ホテルの水がでない、旅におけるそんな些細な不満も、けれんみのない子供たちの笑顔が吹き飛ばしてくれた。

それにしてもハラルの子供たちの声は強烈であった。今でも、写真の明るい顔を見ていると、ファランジ、ファランジという甲高い声が耳の奥から聞こえてくる。

ベールの中 (ハラル)

<幼児を背負う女の子> (写真にマウスを乗せると変わります)

ハラル旧市街の夜道を歩いていると、幼児を背負う女の子がやってきた。
エチオピアでは、陽射しや埃を避けるためなのか、背負っている子どもの全身を布で覆っていることが多い。幼児たちは背中でじっとしており、息苦しくないのかと心配してしまう。
彼女も白っぽい大きな布を幼児に被せていたため、子どもの様子がわからない。カメラを向けると彼女が微笑んだので、フラッシュを焚いて撮影した。

帰国後、現像したスライドを見て驚いた。フラッシュで布が透け、幼児のかわいらしい表情が写っていたからだ。ベールで守られた幼児は背中の上からしっかりと世間を見ていた。

通行人の感謝 (ハラル)

<強い朝陽を浴びる少女>

ハラルは海外からも信者が訪れるイスラムの聖地。百近くモスクがあると言われ、古くからの街並や博物館など観光スポットがいくつかある。外国人旅行者はそれほど見かけないが観光客ずれした人が多いようで、行き交う人から英語でしつこく勧誘を受ける。そうかと思うと異教者の入場が許されないモスクを入口から覗いていただけで、中からすさまじい剣幕で関係者が現れ、私が慌てて立ち去ると後ろから石が飛んできたりする。
とんでもない国に来てしまったなと思っていた。

迷路状になった旧市街を歩いているとガイドを強要する少年が何人も現れる。開館前の博物館にカメラを向けていると、10歳ぐらいの少年と6歳程度にみえる女の子の兄妹が現れた。妹も学校に通っているのか、本とノートを抱えている。濃い褐色の肌は滑らかで、手足が細く背筋を伸ばして立つ。小さな鼻と口に比べ瞳が大きく、子どもらしいくりくりとした目をしているのだが、片目が赤く充血している。兄はガイドの申し出を断られると、妹を撮影させてお金を取ろうとする。女の子は目に違和感があるだけでなく、強い陽射しを嫌がり、この場を早く去りたがっていた。
私は、しつこい少年を無視して博物館の外観を撮影した。ファインダーの隅に女の子が入った。
「今、妹を撮っただろう」
「撮っていない。博物館を写しただけだ」
「いや、撮ったよ。絶対撮った。撮影代5ブルだ」
兄と言い合っている間に妹が充血した目を気にして汚れた手で擦り始めていた。
「だめだ。(手で目を擦ったら)だめだ」
私は女の子に叫びながら、ザックをあさった。自分が使ったこともない目薬など持っていない。代わりとなるものといったら、ミネラルウォーターしかない。ペットボトルを取り出し彼女の手を洗った後、充血した瞳を水で洗おうとボトルの口から目に流し込もうとしたが、彼女がじっとしていないこともありうまくいかない。
そこへ通行人が駆け寄ってきた。彼は私が行なおうとしていることを理解して、女の子に話しかけ、ペットボトルのふたに水を満たすと、ふたから充血した眼に水を何度か注いだ。彼女は目をぱちぱちさせながら、まだ赤いつぶらな瞳を開いていた。

「ありがとう。感謝する」
機転の利いた行動を取った男性が私に言った。
「いいえ、こちらこそ、ありがとう」
私は助けてもらった彼になぜ礼を言われるのか理解できず、あわてて感謝の意を表した。
「いいや、ありがとう。本当にありがとう」
再び彼に言われた時、この通行人の気持ちが少し伝わってきた。

たとえ1人でも良い人に出会えたら、そこは私にとって良い国である。