国別アーカイブ:ウズベキスタン ( 13件の日記 、ページ 1/2 )

11月のブハラ

11月中旬から3週間、ウズベキスタンのブハラに滞在していた。

これが3度目の訪問。過去2回はいずれも5月で耐えられない暑さだったが、この時期のブハラは東京の真冬より寒い。ときどき風が強く吹き雨も降る。
たまにしか観光客を見かけないため開いている土産屋は少なく、オフシーズンのブハラは寂しさも感じる。しかし、地元民が冬の装いで歩く古い街なみには趣がある。

<11月下旬のブハラ旧市街 タキ・サラファン>

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前回世話になった家族の次女が結婚するというので披露宴の参加が目的だった。

披露宴を11月20日ごろに行うが、前後にいろいろと祝い事があるので1ヶ月は居て欲しいと言われたが、それはあまりにも長すぎると交渉の末3週間の滞在とした。
11月中旬、ブハラに到着すると日取りがまだ決まっていなかった。それだけでなく、海外で働く結婚相手がまだ帰国していないことを知り唖然とする。
長男は海外から、そして長女や家族、叔父や叔母たちは車で7時間のテルミズから既に来ていてその家で結婚式を待っていた。しかし、結婚後に入る新居の改装工事が終わらず、新郎の仕事の都合もあり式の日取りが決まらないようだ。
ブハラ滞在をしばらく延ばすよう何度も頼まれたが、FIXの格安航空券なので無理だと断る。ブハラに着いて1週間以上経ち、私の帰国日にぎりぎり間に合わせる形で日取りが確定した。
10日前に披露宴会場のレストランを決め、急遽作成された招待状のカードを配り、遠隔地の親戚に連絡していた。
すると、4日前からテルミズの親戚が集団で押し寄せ始め、2日前には百人以上となる。食器の数や室内のスペースが十分でないので、食事は十数人ずつが順番に取る。十畳二間に三畳の台所だけの家に4~50人が泊まり、溢れた人々は改築中の新居や近くの親戚の家に散らばっていく。そして、披露宴は300人以上が集まる盛大なパーティーとなった。

ウズベキスタン人のflexiblityの高さに感心する。

<前日の催しクリックでyoutubeへ

<シャボン玉が舞う披露宴/手前でお辞儀する花嫁(2枚組)

私の滞在日程に合わせて凝縮したと言っているが、結婚式前後の3日間、以下のような催しが行なわれた。

披露宴前日の昼、楽隊とともにお祝いを抱えた人たちが通りを練り歩き、パーティー会場となる近所の大きな屋敷に入っていく。会場では200人ぐらいが集まり食事をした後、大音響のなか踊りながらお祝いをする。しかし新婦はこのパーティーには顔を出さない。
新郎の家では、夜に楽隊がやって来て中庭で演奏とダンスを行なった後、通りを大騒ぎしながら行進して新婦の家に向かう。(youtubeへ
新婦の家では、室内のスペースが儀礼用のカーテンで仕切られ、伝統的衣装の花嫁がみんなに見守られながらその中に収められる。その後、伝統的衣装の花婿が宗教的吟誦や祝福の声のなか、花嫁が待つカーテン内のスペースにゆっくりと入っていく。この儀式により2人の結婚が認められたという。

披露宴当日朝7時、宴会場となるレストランに200人ぐらいが集まり、プロフが振る舞われる。そのプロフは親族の男性だけが調理して提供する習わしになっていて、2メートルぐらいの大鍋で調理されていたが、すこぶる美味かった。
夕方6時からレストランに300人ぐらいが集まり披露宴が行なわれる。花嫁花婿は洋風の衣装で来賓のスピーチやケーキカットがあったりと日本とあまり変わりがない。ただ、ひな壇の2人が食事もせず花嫁が何度もお辞儀をし続けているのが気になった。

披露宴の翌朝、新婦の家で簡単な儀式が行なわれ、嫁入り道具とともに新郎の家に向かう。新郎の家では、女性たちがお祝いの品を新婦に捧げ、祝福のキスをする。その後、その場で絞められた羊肉が振る舞われ、花嫁は5種類の衣装を披露して、参列者の前で黙してただお辞儀だけをしている。

花嫁はこの3日間、室内に身を潜め、姿を現してもうつむいて笑顔を見せず、ときどきお辞儀を繰り返しているだけだった。陽気でおしゃべりな彼女が人形のように口をつぐみお辞儀し続ける姿があわれに感じた。
彼女とは別れのあいさつもせず、披露宴2日後の朝、私はブハラを離れた。

<足は治ったのか?>

2010年3月から続いている踵の慢性痛について。
この踵痛でまともに歩くことができず、ずっと旅に出ていなかったのだが、治る前に出かけることにした。ペインクリニック医に海外に行って大丈夫なものなのかと相談すると「ぜひ行くべきです」と強く勧められたからだ。

自分では全く自信がなかったが、なんとかブハラまでたどり着くことができた。しかし、フラフラしながらゆっくり歩くことしかできず、見知らぬ街の子に酔っ払っているのかとからかわれるほどだった。観光客が非常に少ないため、街の人みんなから見られているような気がして、痛みを我慢して普通に歩くよう努力していた。
また、床に座るとどのような体勢を取っても踵に痛みが走るので日本では椅子以外に座っていなかったが、ブハラの家庭における食事は薄手の座布団に座り絨毯の上に置かれた食器から食べるのが基本。この時期は熱いスープが出ることが多く、薄い食器は熱くて持てないため、あぐらをかいたまま上半身を前屈して口を近づけなければならない。踵に体重がかかり、顔を歪めながらスープを飲んでいた。
ここで生活しているうちに踵痛は間違いなく悪化するだろうと思っていた。しかし、滞在中に結婚式は開かれるのだろうかとやきもきした後、次々と現れる親戚たちとロシア語の会話に悪戦苦闘し、うじゃうじゃいる子どもたちと戯れたりしているうちに踵痛をあまり考えないようになった。

結果として、ブハラ滞在3週間で痛みの度合いが1段階(5段階の3から2へ)改善した感じ。
「あともう少しで良くなりそうなんですけど、これから何をしていけばいいですか」
帰国後、担当の医師に尋ねた。
「簡単ですよ。もう1度旅に出ればいいんです」
医者らしからぬアドバイスに一瞬固まってしまったが、確かに自分でもそういう気がする。

荷物を背負って移動する旅はさすがに無理なので、また誰か海外の結婚式に呼んでくれないかな。

[ウズベキスタン]ブハラ(2)

<早朝のミナレット>

ママと3人の娘たちは、食事をする居間でもある中庭の絨毯に毎晩布団を敷き、川の字になって寝ている。室内より涼しいからと勧められ、私も中庭で寝ることにした。
夜中は寒いくらい涼しく、気持ちよく眠れるのだが、早い日の出と共に日光がまぶしく、とても眠れるものではない。6時前に完全に目が覚めてしまい撮影にでかけた。

朝食の済む8時半ごろからは、中庭ではじっとしていられないほどの暑さになる。

10時ごろ、ママがバザールに連れて行ってあげるというので付いて行くと、何のことはない、買出しした重い食料を持って連れ回されることになり、猛暑による疲労も相俟って、帰ってから気分が悪くなる。

そのまま下痢と高熱が発症して寝込んでしまった。

<6月2日>

夜中まで30度以上になる酷暑の部屋で、この家にひとつしかない扇風機を独占して水だけで耐える。クーラーのあるホテルに移るよう勧める旅行者もいたが、なんとかこの家で治したい。
ママが自分の家で出した食事にあたったのではないかと心配してくれているが、テルミズであれだけ引き回され飲食し続けていたのだから、私としては良く今まで持ちこたえたと思っている。

<6月3日>

昨日は高熱にうなされ重症かと思ったが、今日は大分楽になった。横になっていれば耐えられる。24時間絶食で治すことにしよう。

<6月4日>

昨晩は再び中庭で寝た。すると、夜中に風が強く吹き込んできた後、雨がパラパラと降ってきた。乾燥地帯だから、外で寝ていても雨に濡れることはないのかと思っていたのだが、そういう訳ではないようだ。女性たちがふとんを抱えて部屋に入ったので、私も別の部屋に移ったが、中庭内の一角で寝ていた男3人は雨に濡れながら折り重なるように固まって眠り続けていた。

体はフラフラしているが、下痢と熱が完全に治まったので今日の夜行列車でタシケントへ向かうことにする。
10日間もこの家族と寝食を共にしていたことになる。私は日本で1人で生活しているので、別れは非常に辛かったが、皆が明るくあっけなく送り出してくれた。
テレビの海外滞在モノで、タレントだけでなく現地人までがお決まりのように涙しているのは、過剰演出なのでは。

[ウズベキスタン]テルメズ(4)

昨日のパーティが行なわれたお宅の中庭、客人が談笑する中、女性は厨房内で男性たちは中庭で料理をする。(写真)

私にとって、長かったテルミズ(テルメズ)の滞在が終わり、手配した車でブハラに向かう。車にはママと次女の他に、テルミズの人たちとの別れ際あわてて乗せられた親戚の男の子がいた。いったいどこまで一緒に行くのだろうと不思議に思っていると、彼はそのまま車で7時間のブハラまで同乗した。
夏休み中(5月~7月)なので、しばらくブハラの家に滞在するということで手ぶらで車に乗せられていた。この国の人たちの行動は理解できない。

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テルミズでは結局、初日にお湯のチョロ流しをしただけで、それ以降、水浴びすらしていない。ブハラの次男と一緒にハンマームに出かけることにした。観光客用のハンマームにはサウナと垢すりマッサージがあるようだが、我々が向かったのは住民用の大衆浴場。日本の銭湯ほどの広さの浴室に大量の水を放出し続けるシャワーがひとつあるだけ。裸の男達が入れ替わり立ったままシャワーを浴びて体を洗っていた。日本のように大風呂に見知らぬ人たちと一緒に入ることもなく、椅子に肌を触れる必要もないので清潔でいいんじゃない。
次男はパンツをはいたままシャワーを浴び、帰ってから中庭に張られたロープに絞っただけのそのパンツを干す。彼は週に1度しかハンマームに行かないようだが、パンツもその中身も洗われていないのが気になった。

[ウズベキスタン]テルメズ(3)

食事中に裏庭でヤギを絞めるから見に来いと呼び出される。

そんなのに興味がない振りをして重い腰を上げたが、初めてだったのでかなりの興奮と共に見届けてしまう。(写真:ここだけクリックでカラー)

こんな光景を間近で見ている子供たちは、我々と異なる感覚を持って育つんだろうな。

タレントがテレビ番組の撮影で来ているかのように次から次へと親戚の家に連れて行かれる。訪れると、どの家もテーブルが豪華な家庭料理で埋め尽くされていた。ウズベキスタン人は2時間おきに食事すると冗談まじりに言っていたが、そういう状況は珍しくないようだ。

ウズベキスタンの家庭では酒が飲まれていないと思っていたが、全ての家で酒が供される。2回目の昼食が出された警官夫婦は酒が強く、明るいうちから制服姿の主人とビール、ワイン、ウォッカと準備した全ての種類の酒を飲まされる。短い時間に大量の酒を飲まされ、今日はこれで終わりかなと油断して食事もたらふくとってしまう。すると、休みなく次の家に連れて行かれ、今度は90度のウオッカを一気飲みするつわものが待ち構えていた。
ここはイスラムの国というよりも旧ソ連の国と思っていた方が良さそうだ。

<5月30日>

ウェディングだというパーティに出席した。
式は楽団による演奏がだらだらと続けられ、1時間も経つと女性たちが席を立ち陽気に踊り出す。私は席にいるとあちこちのグループから酒を勧められるので、撮影で忙しそうなフリをしていた。しかし、2時間も経つとオバさんたちに引き込まれ、一緒に踊らされてしまう。1度踊ってしまうとこっちでも、私たちと一緒にとあちこちから引っ張りダコ。
宴会は4時間ぐらい続き、もうヘトヘトだ。

[ウズベキスタン]テルメズ(2)

車が全く走っていない悪路を進み、ママの父が生まれたという村に着いた。牧畜で生計を立てる小さな山村だ。
ママの知人宅で、緑に囲まれた河原に絨毯を敷き、自家製ヨーグルトや近くで採れた果物などが並べられる。気分的にとても豪華な昼食だった。(写真裏)

その家の若者が道案内をしてくれ、プール状の滝壺があるというユートピアに向けてハイキングに出かける。途中から完全な沢登りになり、女性たちはサンダルやパンプスを脱ぎ、裸足で登っていく。2時間近く登ったが、途中脱落者が出たうえ、最後の関門の滝が増水して越えるのは危険だということで、目的地の手前で引き返すことになった。
これぞ絶景という場所があるわけではないが、地元の人以外は立ち入ることのなさそうな切り立った山々に囲まれた自然の中を歩く。贅沢な旅だ。

[ウズベキスタン]テルメズ(1)

私はブハラで3日ぐらい滞在して立ち去るつもりだった。

それがなぜかアフガニスタンとの国境の町テルメズ(現地人の発音ではテルミズ[ウズベク語: Termiz / Термиз])まで連れて来られた。

テルミズに行って山に登らないかとママから誘いを受け、私が軽く興味を示したのがきっかけのようだ。考えておくとしか返事していなかったのだが。
昨晩の話では3日後にテルミズに向かい、1泊2日で帰ってくるということだったが、朝食後、テルミズのおばの家に連絡して車も予約済なので昼過ぎに発つと言われる。断るべきか迷っていたところ、10時半に車が来て、もう出ると告げられ、文句や主張をする間もなくママと次女と3人で車に乗り込むことになった。
所要時間3時間と聞いていたのだがウズベキスタン南端にあるテルミズの家に着いたのは18時ごろ。そのお宅で昨晩のブハラなみの食事が出てディナーかと思っていたらそれは昼食で、市内観光後に他の親戚たちと共にまた食事をするという予測不能な展開が続く。

テルミズのおばの家は4階建てアパートの一室だった。ブハラの家のトイレが床板に穴を開けただけのものでシャワールームもないのだが、こちらはトイレが洋式の水洗でバスルームまであると言われ期待していた。しかし、水が出ている時間が限られ、お湯はでない。
トイレが済んだ後は台所に溜めている水を洗面器で運び流さなければならないし、シャワーはあたためてもらった洗面器1杯分の水をちょろちょろと体に流して洗った気になるだけだった。

[ウズベキスタン]ブハラ

訪ねた娘(三女)の家族に迎えられ、そのままお宅に泊まることに。8畳間ほどの部屋が2つだけの平屋だが、広々とした中庭がある。朝晩はその中庭の一角に敷かれた絨毯の上で食事する。
暑さがやっと和らぎ、涼しさが感じられる中庭で、家族と食卓を囲む。なんとも言えぬ幸せを感じる。

ピラフ(プロフと言うらしい)の上に肉を載せるというメインにスープ、サラダ、ヨーグルト、パン、お茶、そして私が買ってきたビールとファンタがテーブル代わりのビニールクロスに載せられる。取り皿がなく、みんながスプーンで大皿から掬って口に運ぶため戸惑いがあったが、まあこの家族と一緒ならば良いか。

ウズベキスタン旅行のルート(2004年4月~5月)

1日目
成田(前日21:00)- タシケント(4:00) ウズベキスタン航空
タシケント(7:00)- ウルゲンチ(8:40) ウズベキスタン航空
ウルゲンチ-ヒヴァ  タクシー($5)
ヒヴァ-ウルゲンチ  バス($0.15)
ウルゲンチ(20:20)- タシケント(21:50) ウズベキスタン航空
タシケント泊 TASHKENT PALACE HOTEL($60)
2日目
タシケント(9:25)- ブハラ(11:10) ウズベキスタン航空
ブハラ泊  ($25)
3日目
ブハラ - サマルカンド  チャーター車($24)
サマルカンド泊  ($23)
4日目
サマルカンド - キターブ  乗り合いタクシー(2人分$4)
キターブ - シャフリサーブス  タクシー($3)
シャフリサーブス - キターブ  乗り合いミニバス($0.1)
キターブ - サマルカンド  乗り合いミニバス($0.2)
サマルカンド泊  ($23)
5日目
サマルカンド泊  ($23)
6日目
サマルカンド(7:00)- タシケント(8:10) ウズベキスタン航空
タシケント泊 ORZU HOTEL($25)
7日目
タシケント(8:05)- 成田(19:55) ウズベキスタン航空

ヒヴァに1日は滞在したいと考え国内線フル活用のプランを立てたが、ヒヴァの観光が3時間程度で終了したため、1日目の午後にチャーター車でブハラ(約6時間)に向かった方が、結果として効率的かつ経済的だった。国内線はタシケントからウルゲンチまでの片道のみを利用して、車でブハラ、サマルカンドを経由してタシケントに戻るのが一般的のようだ。
自分が旅程を立て直すのであればシャフリサーブスをはずしサマルカンド滞在を1日にして、カザフスタン、キルギス、タジキスタンなど近隣諸国いずれかのちょい訪問を組み込む。

タシケント

<強い日差しが照りつけるオールド・バザール>

首都タシケントに戻る。サマルカンドからの機内でも、ホテルのロビーでも、見覚えのある日本人たちがいる。明朝のウズベキスタン航空で日本に帰る旅行者がみな集まってきたようだ。今回の旅行は団体ツアーに参加したようなものだと諦めるしかないのだが、私は海外旅行中にはできる限り日本人と接触せず異国を味わいたいと思っている。
空港から最初に向かったホテルが日本人だらけだったので、2つめのホテルでチェックインして、路面電車で街中に出る。途中で目的と異なる路線を進み出したため、電車を降りて車掌が指し示す乗り換え駅に向かう。すると、その駅で日本人男性2人に会ってしまう。会話をすると、彼らも私と同じホテルに泊まり、同じように行き先の違う電車に乗って降りたところだった。ウズベキスタン内の旅程もほぼ一緒。ゴールデンウィークのまっただ中にこの国を訪れる個人旅行者は、経験、レベル、嗜好が似通っている。つい車内で話し込んでしまったが、これでは熊本の路面電車に乗っているのと同じではないか。

彼らと別れてから、日本のガイドブックに載っていない面白そうな場所を求めて歩き始めた。
昼食は、羊肉とナンばかりの料理に飽き飽きしていたので、ロシアの香りのする中級レストランに入った。しかし、英語が全く通じない店内で苦労することになる。ボルシチは注文できたが、ロシア料理としてもう一つ私が知っていたロールキャベツが通じない。英語風に発音して、手で巻く動作まですれば、店内の誰かが気づいてくれそうなものなのに、一向に理解されない。表現に疲れた私は、もうそれでいいと、視線に入ったピザの写真を指差した。
大きく食べきれなかったピザは、値段が5ドル以上もすることが清算時にわかる。スム紙幣が1ドル分足りないので、1ドル紙幣を合わせて支払おうとすると、とんでもない受け取れないと店員が慌てる。
『スム紙幣を持ってないんだから、しかたないじゃない。じゃあ負けてくれる。誰か両替してくれる人はいないの』
この程度の内容を英語では通じないので、ジェスチャーを交えて伝える。地方ではほとんど問題なかったドル紙幣のやり取りだが、タシケントでは厳しく罰せられると店員が言っているようだ。
1ドル分の支払だけでずいぶん時間を使った。口髭をたくわえた店員は、他に解決方法がないと悟ったようだ。彼は私を隅に連れて行き、店内に背を向けながらスム紙幣と共に1ドル紙幣をさっと受け取った。そして、ドル紙幣を胸のところで隠しスム紙幣の一番下に入れ、数枚の札を両手で包み込み一息つくと、そうっと後ろを振り返り怯えた目で店内を見渡す。そんなにドルを受け取ることが恐ろしいことなのか。喜劇役者のような滑稽な彼の動きに思わず吹き出してしまった。

異国ならではの楽しい出来事だったが、その後の私にはスム紙幣が両替できないという悲劇が待っていた。食事をした場所はホテルからかなり離れ、観光客を見かけない地域だった。スムがないため買い物ができなければ乗り物も利用できない。炎天下の中、銀行をたらい回しにされ両替所を探して延々と歩き続けることになった。

サマルカンド

<夕暮れ迫るレギスタン広場(1枚目)/シャーヒズィンダ廟(2枚目)

ウズベキスタン第2の都市サマルカンドは青の都とも呼ばれ、シルクロードの要所として紀元前から様々な時代に名を残してきた。
この国の観光の目玉として期待していたが、レギスタン広場以外には魅力的なポイントがなかった。ロシア時代に整備された街並が無機質さを与え、広大な街の中で観光施設と生活空間が分離されているのが、私の好みに合わないのかもしれない。

日中、街中を歩くと汗が止まらないほどの暑さなのだが、こちらの人々は飲み物を冷やす習慣がない。店にはアイスクリームを入れる冷凍庫はあっても、飲み物用の冷蔵庫がない。冷たいジュースや水を頼んでも、店の奥からまだあたたまっていない物を持ってくるだけだ。
地元の人が多く利用するレストランで夕食をとることにした。テラスのテーブルに座り、冷えたビールがあるならば持ってきてくれと注文すると、まかせておけと言った店員は、少し時間が経ってからビンの周りが濡れたビールを運んでくる。あまり冷えていないような気がしたがビールを目の前にすると我慢できなくなり、飲むことにする。グラスが来ないので催促すると、ガラスのコップがなくチャイ用の湯のみ茶碗を持ってきた。しかも、暖められているではないか。おいこら、湯のみ茶碗までは我慢できるが、こんな熱い茶碗でビールが飲めるか。
自分たちがビールを飲まないのでわからないのだろう。明らかにふてくされた態度をする店員は、湯のみ茶碗を持って店先に出て、路地に水を打つ少年からホースを奪い茶碗を濡らすと、ほらよと持ってきた。
うう、こんなところでビールを頼んだ自分が愚かだった。悔やみながら私は生暖かいビールをすすった。