[ブルガリア]ソフィア(盗られる)
その日の始まりは、冷たい表情の子どもたちとの食事だった。
女の子6人と椅子を詰めながらテーブルを囲む。日本でいう小学高学年の子どもたちは何の目的でこのホステルに泊まっているのだろう。朝食を準備するスタッフは英語を話さず分からない。直接子どもたちに尋ねればよいのだが、彼女らは意図的に無視するように私を見ない。昨日彼女たちと最初に視線が合った時、露骨にいやな顔をされている。
皆、自分の体にぴったり合った服を着て、身なりは良い。修学旅行のたぐいか、何かの試験なのか。気になる。
ホームに待ち客がなく空いていたはずなのに、私がそのトラム(路面電車)に乗り込むと後ろからどかどかと人が押してきた。私が乗ったドア付近だけ混雑している。
ホステルをチェックアウトする時、女性マネージャーにトラムでの駅への行き方を尋ねた。トラムに乗ったらすぐチケットにスタンプを押すこと、それから、ジプシーによるスリが多いのでショルダーバッグは自分の体の前で常に手でガードしておくことと入念に彼女から注意された。
私はカバンに若干の注意を払いながら、押されている体を手すりで支え、右手にチケットを持ったまま、どこでスタンプを押すのかだけに気が集中していた。
横腹をバッグで押された気がした。しかし、その時もスタンプの機器を見つけ、乗客が面倒そうに押している姿をじっと観察していた。
次の停留所で乗客が少し降り、強く押されて弓なりになった体を元に戻し、少しずつスタンプの位置まで移動しようとした。ちょっと待てよ、さっきポケットに嫌な感覚があったな。右手のポケットに手をあてる。あれ財布がない、どうしたんだろう。さっきチケットを買った時に財布を出してどこにしまったかな。左側のポケットに張りを感じるから大丈夫か。まだ、人が多く手すりから左手を離せなかったので確認しないでいた。
次の停留所で多くの乗客が降りた。手すりから左手を離し、左側のポケットを探る。ポケットから出てきたのはマネージャーが無理矢理渡したホステルのパンフレットじゃないか。急に心臓の鼓動が激しくなってきた。体のあちこちを探る。ない、ない。後ろを振り向くと老齢の男と若い女が立っていた。女は黒いハンドバッグを男は白っぽい大きなショルダーバッグを提げている。このどちらかのバッグに押された時に盗られたのだ。
『おい、財布、サイフ、盗られたんだよ。知らないか』
まだ盗られたという確証がなかったが、慇懃な態度で男に迫った。知らないよ。そんなことしたらこれだもんな。老人はおどけて両手を揃えて前に突き出してみせる。黒っぽい服装の女は、私のしつこい攻撃に怒りもせず冷ややかな視線を向ける。あやしい。2人ともあやしい。このような時どう対処すれば良いのか。周りの乗客に空のポケットを引き出し盗まれたんだと訴えたのだが、老人と婦人だけの乗客はただかわいそうにという表情をしてみせるだけだった。黒い服の女は3つ目の停留所で降りた。私は老人を再度せめたが、自分のカバンやポケットの中をちらりと見せ、落としたんじゃないのという仕草をする。
冷静になろう。財布を持っているやつがずっと近くにいる訳ないじゃないか。この怪しい老人が仲間の可能性はあるが何の証拠もない。財布に一体何が入っていたか考えよう。
イスラエル出国時に財布の隠しポケットから全て現金を抜かれていたので、キャッシュはせいぜい60ユーロ程度しか入っていない。しかし、シティバンクのキャッシュカードが入っていた。まず、これを停止させなければ。私は、老人の追求をあきらめ、4つ目の停留所である鉄道駅でトラムを降りた。
その後、駅で拾ったタクシーで『シティバンクに連れて行くというから乗ったのに知らないなら金はこれしか払わん』と300円程度をめぐり掴み合いのけんかをする。
街の警官に盗難に遭ったことを訴えると離れた場所にあるオフィスまで歩かされ、そこでも別のオフィスに行けとたらい回しにされる。(この後で連絡の取れたシティバンクで、警察に届けるかどうかはカード停止や再発行には関係ないと言われ、現金は盗難保険の対象にもならないことから、警察への届け出は労多くして益少なしと判断して断念)
警察では誰もシティバンクの場所を知らないし調べようともしてくれない、など苦難の連続だった。
アジア、アフリカ、南米で周りの人々に注意されながらも無防備に都会を歩いてきて、1度も盗難や危険な目に遭遇していない。自分はこれでもプロの目から見るとスキのない旅人なのだろうという根拠のない自信が、最初のヨーロッパの街でもろくも崩れた。
恐るべしヨーロッパ。これより厳戒態勢に入る。
(ソフィアに悪い人や不親切な人ばかりいるわけではない。親切に道を教えてくれる人がたまにいて、シティバンクだと言われやっとたどり着いたオフィスは法人業務のみ取り扱うシティコープだったが、複数の社員に懸命に対応してもらい大変感謝している)
この事件のため早々にブルガリアを離れることにして、鉄道でギリシャに向かった。
なだらかな緑の大地が線路沿いに続き、列車の進む国境方向には雪を頂いた高峰が望める。
時折現れる集落はベージュの瓦屋根が落ち着きある佇まいをみせ、単調ながらも見飽きぬ景色が車窓に流れていた。