パキスタンのたび

まぶしい遺跡(モヘンジョダロ)

<世界遺産 モヘンジョダロ遺跡(2枚組)

パキスタンは有名な観光地が多い。しかも、大都市、高山、モスク、仏跡、古代遺跡とバラエティに富んでいる。今回もいつものように全体をさらりと見る予定だが、国内線の飛行機が順調に飛べばの話しである。
バンコクからカラチに深夜入り、翌日早朝の便でモヘンジョ・ダロから130kmのサッカルへ飛ぶ。海岸沿いにある1千万人以上の大都市カラチを少しは歩きたかったが時間がない。朝、空港に向かうタクシーの車窓を目に焼き付けるが、カラチは白っぽく四角いビルが多いなあ、という印象だけになった。

世界四大文明のモヘンジョ・ダロは押さえておきたかった。猛暑と周辺の治安上の問題から旅行者は少ないと聞いていたが、広い敷地内で出会うのは国内旅行者か地元民程度。案内や説明がほとんどなく迷っていると、怪しい人間につきまとわれる。日陰がなく、40度を超す猛烈な暑さで、遺跡の雰囲気やイメージを感じ取れず、ただただ疲弊する。強い陽射しが白っぽいレンガに反射して、サングラスを通してもかなりまぶしい。どこに何があるのかわからないまま歩き回っていた。
モヘンジョ・ダロは暑い、まぶしい、それだけで終わってしまった。

山輝き水豊かな里(フンザ)

<カリマバードからウルタル山を仰ぐ>

パキスタン北部に桃源郷と呼ばれるところがある。そこフンザは長寿の里であり、旅行者憧れの地でもある。いつか訪れてみたいが、1週間程度の旅行では無理だと思っていた。フンザ中心のカリマバードまでイスラマバードからバスで2日要し、途中、土砂崩れで何日も足止めされることも少なくないからだ。
しかし、イスラマバードからフンザの玄関となるギルギットまで空路があることを知り、今回の旅程に組み入れることにした。ただし、その路線は有視界飛行で8,000m級の山々を越えるため、欠航が多く何日も待つ覚悟が必要だという。

前夜遅くイスラマバードに入り、早朝ホテルを発ち空港に向かう。特に問題もなくプロペラ機はギルギットに向けて飛び立った。飛ぶことが少なくキャンセル待ちの客で満席になると言われていたが機内の席には余裕がある。リスクを認識させるため仕方ないが、ガイドブックは大げさに書きすぎる嫌いがある。(翌日、ガイドブックの正しさを知る)

ヒマラヤ山脈のピーク間近を小さな機体がよたよたと越えていく。機内の汚れた窓から望む宝石のようにきらめく白い峰々、この景観を堪能できただけでもパキスタンに来た甲斐があったと感じた。

ギルギット空港に到着するやいなやバスで3時間のフンザ中心カリマバードへ移動。標高2,500mの桃源郷は急峻な山に囲まれる谷あいの村だ。機内から観賞した万年雪をいただく鋭鋒の山々がフンザ周辺に見られると思っていたがそうでもなかった。これぞフンザという景色はどこだろう。滞在時間の短い私は景観を求めて歩き回り、谷へ下る道の途中で山の合間からウルタル山(7,388m)が姿を見せる地点で写真を撮った。デジカメのディスプレイで確認して写真としてはイマイチだなあと思っていると、隣の集落から歩いてきた老人が唐突に話しはじめる。
「どうだ、この山の美しさは。すばらしいだろう。世界一だぞ。見ろ、あの水の流れを。あんなに激しく流れている。見ろ、この緑を。我々に恵みを与えてくれるこの緑を」
芝居がかった声で、顔を皺だらけにしながら話した男はそのまま立ち去った。
得体の知れぬ長老のおかげで、私のフンザを見る目が変わった。ここにはフォトジェニックな景色がないかもしれないが、すばらしい自然に囲まれている。山輝き水豊かなことが、緑を育み、人々にどれだけ幸福を与えていることだろう。

辺境の地にたどり着いておきながら、日帰りでこの村を去る旅程を組んだ自分がうらめしく感じた。

夜のカラコルムハイウェイ(ギルギット)

<カリマバードからアルティット・フォートを望む(1枚目)/フンザの陽気な子(2枚目)

イスラマバードに戻るため翌朝8時に空港に向かうと、何か様子がおかしい。まだイスラマバードから飛行機が着いていないのに人々が外に出てくる。私がカウンターでチケットを差し出した時、それはスタッフから告げられた。
「本日のフライトは天候不順のためキャンセルです。明日の便に振り替えて下さい。」
好天ではないが天気は悪くなかった。問題なく飛ぶものと思っていた私は頭が真っ白になった。一昨日、昨日と休む間もなく動き、調子よく旅を進め、今日はイスラマバード市内と周辺の遺跡観光をしてペシャワールに夜入るという過密プランで気を張りつめていたのだが。
空港からホテルに戻り休ませてもらうと、緊張の糸が切れ、疲れがまわってきたのか下痢を伴った腹痛に襲われる。部屋で横になり考える。明日の朝もう一度フライトにかけるか、今日から少しずつバスで移動するか。しかし、今日の天気で飛ばないのであれば、よほどの晴天でなければ無理なのだろう。
少しずつ雲が厚くなると共に気が重く、腹痛もひどくなる。この調子では今日中にバスに乗るのは無理と思われる。そうすると車のチャーターしかない。明日もフライトがなかった場合、車をチャーターして戻ることで考えがまとまった。
夕方になり、車の値段と時間を確認するためにふらふらと街に出て、旅行代理店で尋ねる。
「イスラマバードまでとばせば12時間ぐらいかな。」
おお、直行バス20時間と比べてはるかに早い。それではペシャワールまでダイレクトに行くこともできるのでは。ペシャワールまでは14時間だという。料金はペシャワールまでの飛行機代プラス100ドル。そこまで金を出すなら夜行で走り、当初の予定を取り戻すか。気合が入り、俄然、元気になる。
「すぐペシャワールに向けて出られる?じゃあ6時。今晩6時出発。」
急遽思い立った強行策に挑むこととした。

薄暮のカラコルムハイウェイをカローラが飛ばす。ディルバールという名の運転手は、軽快に右へ左へとハンドルを切っていた。峡谷沿いを走る道は、陽が落ちてもヘッドライトで浮かび上がる景色が幻想的だ。
時々休憩するドライブインは夜通し走るバスやトラックで溢れ、真夜中にもかかわらず不気味な活気に満ちている。お茶や食事の他に仮眠をとる施設もあり、疲労がみえてきた細身のディルバールは、もうここで泊まってから行こうとか、せめてひと眠りだけさせてくれと哀願する。弱音を吐く運転手に私が活を入れると、彼は窪んだ眼を見開き、薄暗いライトで照らしだされたワインディングロードを疾走する。

朝7時すぎ、予定より早くペシャワールの街に入った。ディルバールくん、やるじゃないか。朝陽に照らされた彼の頬がげっそりとこけて見えた。まあ、気のせいだろう。

悪徳運転手(ペシャワール)

<アフガニスタンに向かう(1枚目)/カイバル峠の落石渋滞(2枚目)

ギルギットからペシャワールまでの徹夜の移動後、私はホテルで朝食を済ませ部屋にチェックインして街に出た。下痢が治まり体調は良く、車内で熟睡できたわけではないがなぜか眠くもない。ペシャワールで最も訪れたい場所は、アフガニスタン紛争時にテレビで有名になったカイバル峠(ハイバル峠)。しかし、外国人がハイバル峠に行くためには前日までに許可を取り、護衛とガイドをつけた車を旅行会社で用意してもらうことが必要とのこと。明日の昼ペシャワールを発つ私には困難かと思っていた。
インフォメーションセンターで問合せようと中心街を歩いていると、すぐに男に声をかけられた。彼はタクシーの運転手だというのでカイバル峠に行けるか尋ねると、少し考えて答えた。
「千ルピー(約2千円)でどうだ」
えっ、今すぐ行けるの?彼は何とかする、と言う。近くに停めてあった彼の車は新しく、ガイドブックにある2千5百ルピーという正規の料金と比べて安い。私は舞い上がり、他に確認もせずにその男の車に乗った。途中で物静かなガイドを同乗させた後、警察関連のオフィスで許可を取り、そこで制服姿の若い護衛警官を助手席に乗せ、私を含めて4人が乗った車はハイバル峠に向かった。
草木が少なく傾斜のきつい山肌に無理やり造られたような道なのだが、国境を越えるトラックの通行が多い。落石のため、ところどころで長い渋滞が発生する。
パキスタン側の眺めのよい地点で車を停め、運転手がダッシュボードから拳銃を取り出した。本物なの?もちろんさ。パーン、パーン、パーン、男は山の峰に向けて拳銃を放った。

身構えていても心臓が止まりそうな音に衝撃を受けた。助手席に座る護衛警官は常にライフル銃を抱えている。国境付近のこの無法地帯ではゲリラより彼らの方が危険ではないか。

峠からアフガニスタンを遠望したあと周辺の観光を済ませ、我々の車は峠道を下って街に近づいていた。今までいかつい顔ながら笑みをたたえていた運転手の顔つきが変わっていた。
「今日の料金はこれだけになる。払ってくれ」
停車中に書いた彼のメモ用紙には、護衛警官に2千ルピー、他の費用で運転手の取り分が8千ルピー、合わせて1万ルピー(約2万円)の請求額になっている。
「冗談じゃない。千ルピーの約束だ。1万ルピーも払えるか」
「その請求書をよく見ろ。千ルピーは峠までの片道の料金だ。峠での観光代、帰りの車代、ガイド代はみんな別だ。これだけの人間を乗せて、これだけの距離走って千ルピーってこたぁないだろう」
運転手、護衛警官、ガイドの3人がグルになっているのは明白だった。特に若造の護衛警官は悪徳運転手の言いなりだ。どうみても危険と思われるペシャワールで素性のわからぬ男の車に乗った自分に落ち度がある。しかし、銃口を向けて脅されているわけではない。まだ、強気でいこう。請求書の細かい内容を確認せず、「こんなの無効だ」とメモ用紙を運転席に投げつけた。憤怒するドライバーの目がバックミラーに映る。やばい、どこかに連れ込まれるか。しばらく沈黙のまま車が走る。
「わかった。特別に安くしてやるから俺に4千ルピー払え」
急に半額になった。大丈夫、こいつはそれほどのワルではない。
「千ルピーしか払わないよ。警察のオフィスであんたと護衛警官に支払う」
警察のオフィスに行っても運転手の仲間がでてきて金を巻き上げられるのではないかという恐れがあったが、身の危険にさらされることはないだろう。

警察のオフィスに着くと運転手は居合わせたスタッフたちにまるで私が悪者かのようにわめきちらす。制服を着た下っ端の男たちは運転手の言い分を一方的に聞き、5千ルピーを彼に払えといい、こちらが冗談じゃないというと、では4千ルピーをと埒があかない。お前ではだめだと言うと別の人間が現れ同じことを言う。だめだ、もっと偉いやつを呼んで来い。
眉間に皺が寄った年配者が奥から現れた。見るからに風格があり、彼の前では運転手が静かにしている。その偉そうな人物は私の言い分にもじっと耳を傾けた。
「カイバル峠まで片道で行くやつがあるか。最初に千ルピーと言ったならそれは往復代だ」
高位を示す紋章を付けた男は、そう言って運転手を怒鳴りつけた。やった、ついにまともな人が現れた。裁きが下される前に運転手が執念で食らいついたため、経費分300ルピーの追加が認められ、私は従った。

制服姿の若い男が近くでずっともじもじしていた。私は彼にいくら払うべきか上官に尋ねた。
「100ルピー(約2百円)でいい」
護衛警官は不満そうに私の100ルピーを受け取った。

気弱な運転手(ペシャワール)

<夕暮れに走る乗り合いバス>

ペシャワールでハイバル峠の次に目指すのは、世界遺産の仏教遺跡タフティ・バーイだ。市街から80kmにあるという仏跡に向かう車をみつけるため、私はタクシー・スタンドを探した。
タクシードライバーは気弱で虚弱な体躯がいい。黄色い小型車の溜まり場で、これはという男をみつけ、遺跡の名前を言うが、彼は知らないと言う。おい、世界遺産だぞ、誰かに聞いて来いよ。4、5人の仲間に尋ねてようやくわかったようだ。
彼は大丈夫、問題ないと言って出発した。車が郊外に出ると陽が傾き始めているのが強く感じられる。私は助手席の窓から身を乗り出し、夕陽を浴びながら走るバスを撮影していた。ドライバーはなかなかそのバスを追い抜かず、バスが停車すると、タクシーも後方に停止させた。
「おい、なぜ停まるんだ。」
「フォト、フォト、バス、フォト。」
「バスの撮影は終わったんだよ。日が暮れる、急げ。急いで遺跡に向かえ。」

1時間半たってもまだ着かない。運転手はだいたいの方向を聞いて走りだしただけで、遺跡の場所は全く知らない。彼がその場所を知ってそうな警官や街の人に尋ねてもバラバラの方向を指差しているようだ。運転手が延々と街はずれの道を走り、2時間以上経ちもうあきらめかけた時、ここだ、と言って車を停めた。
外に出ると、完全な暗闇だと思っていたがまだなんとか見える。小高い山に向けて歩行者用の道をみつけ、私は1人で懐中電灯を照らして登った。こんな暗い山の中で襲われたら終わりだ、この周辺はゲリラも多そうだし、そう考えながら歩いていると、突然頭上からハローと声をかけられ、私は固まった。
しかし、その男はここのスタッフだった。ここは間違いなくタフティ・バーイの遺跡で、スタッフが帰ろうとしているところに出会ったのだ。
彼は暗い遺跡内をガイドした。仏像を保管する一部の場所以外に灯りはないので、星明りと私の小さな懐中電燈で雰囲気を味わった。山に囲まれた断崖上にあり、僧院などが広範囲に点在する見ごたえある遺跡のようだ。ガイドがこちらの上の方にはと真っ暗な山上へ連れていこうとしたが断った。もう、私には何も見えていない。もう少し早く着いていればと悔やまれる。

帰り道、喉が渇いていたので商店の前で停車させてコーラを頼む。だいぶ叱りつけた運転手にもごちそうしよう。2人分を支払おうとしたが、店主がつり銭がないというので運転手に立て替えてもらう。
ホテルに着き、タクシー代800ルピーと2人分のコーラ代20ルピーの支払として900ルピーを渡し、つり銭を要求した。すると、運転手がこんな金額は受け取れませんと手を出さない。目的地が遠かったため2,000ルピーになると言う。確かに彼が想定していた場所より遠かったようだが、私が目的地を変更した訳ではない。彼が目的地を知らず、彼の推定で金額を決めたのだ。こちらとしては、彼が道を知らなかったおかげで到着が遅れほとんど観光できなかったのだから、半額にでもしてもらいたいところだ。
私は再度説明の上、900ルピーを差し出し、80ルピーおつりをくれと言ったが、彼はだだをこねた子供のように下を向いて首を振る。頭にきて800ルピーを小柄な運転手に投げつけると、ルピー紙幣が狭い車内をひらひら舞った。私はホテルのフロントに向かって歩き出し、彼が追いかけてくるだろうから、フロントのスタッフに調停してもらおうと考えていた。確かに距離にしては安いかなと思われるのと、おごったつもりのコーラ代分が足りないのが気になっていた。

ホテルの入口前で私が振り返った時、黄色い小型タクシーはUターンして立ち去っていった。おい運転手、気弱すぎじゃないか。

夜店で食事(ペシャワール)

<ペシャワールの夜店(2枚組)

夜8時を過ぎていたので、パンか何かを買い夕食としようと思い、ホテルの外に出た。私はすぐ食べ物にあたる性質なので、旅先では食事を楽しむことは考えない。安全そうで食べられる物があればそれで十分と考えている。ホテル周辺には満足できるものが売っていなかったので近くのジンナー公園まで歩くと、数百メートルにわたり夜店がでていた。夜の治安が悪そうなので遠くまで出歩くつもりはなかったが、ついつい華やかな屋台街が途切れるまで歩いてしまう。
店の男たちはカメラを向けると喜び、あちこちから写真を撮ってくれという要請を受けてカメラマンの私は忙しい。途中、撮影のお礼にと果物屋のおやじからもらったりんごを調子に乗ってそのまま食べてしまった。雑菌だらけの果物や生野菜はそのまま食べないという主義だったのに何たることだ。
もうこうなれば路上屋台で食事してしまおうかと思いながら最も安全そうな食べ物を探し、羊肉をサイコロステーキ風に焼く店で立ち止まる。注文してから気がついたが、客用の低い椅子があるがテーブルがない。しかたなく隣の人に倣い、皿を路上に直に置いて食べる。食事をする私のすぐ背後を大勢の歩行者と噴煙をあげるバイクが通っていた。
ああ、皿の上がバイ菌だらけになる。

ブルカ(ペシャワール)

<ペシャワール旧市街(中央がブルカの後ろ姿)

古い建築物が並ぶペシャワール旧市街には曲がりくねった道が広がり、狭い路地に連なる店に大勢の地元客が訪れる。
パキスタンの中でも特にペシャワールでは女性の写真に対する抵抗感が大きく、無断撮影による傷害事件も発生していると聞いていたため、可能な限り目立たないようにカメラを構える。ファインダー越しに顔色や視線を気にしていたが、意外にも明るく穏やかな街の人々はカメラをあまり気にしていなかった。

国境の街ペシャワールでは、ブルカを来た女性をよく見かける。ブルカ(またはチャードリー)はタリバン政権が女性に着用を強要した衣服で、全身を頭から足下まで大きな布で覆い隠し、顔の部分も網目状のベールで隠されているものだ。布の首下から全体にギャザーが入っており、てるてる坊主が向かってくるような姿は異様に感じる。
表情が全くわからぬブルカの女性に対しては、正面からカメラを向けることができなかった。

ラホール市街の喧騒(ラホール)

<ラホール市街地(2枚組)

ペシャワールを昼過ぎに発ち、1時間半のフライトでパキスタン第2の都市ラホールに入る。16世紀ムガール帝国の時代から芸術・文化の中心として栄えたラホールには世界遺産のフォート(王城)をはじめとして、庭園、モスク、博物館と見どころが多い。特にラホール博物館にある『断食するシッダールタ』の仏像は、極限までの苦行に打ち勝つブッダを、目が窪みあばらと血管が浮き出る姿で表現しており、私にとって今回最大の目玉である。しかし、翌日のパキスタン最終日が休館日だということを現地で知り、終了15分前に博物館に入ると愛想のないスタッフたちに追い立てられ、ガンダーラ芸術の最高傑作をゆっくり鑑賞することができなかった。

ラホール市街の喧騒は想像を絶するものだった。手押し車、二輪車、馬車、三輪車、バス、トラックと車輪がついた全種類の乗り物を世界中から集め、路上にほおり投げ競わせているようだ。発狂しそうなほどの音の洪水が襲いかかり、空気は白濁して路上の砂塵が舞い上がる。(帰国後談:ラホールやペシャワールの粉塵を吸いすぎ中耳炎にかかり手術まですることになった。耳鼻咽喉や肺など粘膜系が弱い人はマスクやスカーフで顔を覆うなどの防御策を取るべき)
特にラホールで多く見かける馬車が道の真ん中を悠々と通るため、道路はすぐに渋滞してクラクションによる騒音が発生する。人々が望んでこの混沌と喧騒を作り出しているとしか思えないのだ。

狂気の雑踏(ラホール)

<ラホール バザールの隘路>

ラホール市街の喧騒に驚いたが、バザールの雑踏も尋常ではない。旧市街ではイスラムの国でよく見られる迷路状の道が広がるが、路地裏の密集度は世界一ではないかと思われるほどのすさまじさだ。通りに対して飽和状態にある歩行者が双方向に動くため、常にお互いがぶつかり押し合いながら前に進む。屋根付きのバザールにもバイクや三輪車が入り込み、少しでも隙間があれば猛スピードで走り抜け、人で塞がれていようと押しのけて進もうとする。
曲がりくねるバザールの路地裏にはいくつかの隘路がある。隊列となった人々の押し合いは強烈で、中心部の密着度は東京の満員電車なみだ。そんな中でもバイクは何とか前に進もうとエンジンを吹かし、もうもうと濁った煙が立ちのぼる。

この隘路でも両方向から同じ圧力がかかり、流れが完全に停滞していた。誰かが何かをしないと動き出さない。この場所で商売する店主が手を水平に差し出し大声で指示する。乗っていた自転車を頭上にかかげスペースを作る者がいたため、流れが少しずつ動き出した(写真参照)。毎日こんなことを繰り返しているのかと思うとあきれ返る。
隘路の群集の興奮状態と比べ、少し離れた果物屋の店先は穏やかだ。私は密集の圧力に疲れ果て、店番の子供の横に座らせてもらい狂気の雑踏をただ眺めていた。

やすらぎのモスク(ラホール)

<ラホール最大のバード・シャーヒー・モスク>

<バード・シャーヒー・モスクの回廊>

パキスタン最終日はラホール市内の主要な観光地を訪ねる。短期間でめまぐるしく巡る旅だったので、最後はゆっくりと歩きたかった。
しかし、ラホールには気を抜いて歩ける道がない。狂気の雑踏のバザール内、障害物に閉ざされる歩道、トラックや馬車に追われる車道、どこも難易度が高すぎて素人の私は音をあげる。

ラホール旧市街のバードシャーヒー・モスクには、回廊で囲まれた160m四方の巨大な広場がある。モスクでは入口で靴を脱ぐため、日中の広場は足の裏が熱くて歩けない。地元の人々もほとんどが入口から回廊を通って礼拝堂へと向かう。私は冷たい石の廊下でしばらく体を休めた。
密集と混沌のラホールでは、ただモスクだけがゆとりある空間を有し、我々異教徒の心をも癒す、やすらぎの場所なのであった。

パキスタン旅行のルート(2004年9月)

1日目
バンコク(19:15)- カラチ(22:15) タイ国際航空
カラチ泊
2日目
カラチ(8:00)- サッカル(9:25) パキスタン航空($40)
サッカル - モヘンジョダロ - サッカル チャーター車
サッカル(17:10)- カラチ(18:05) パキスタン航空($40)
カラチ(19:15)- イスラマバード(21:10) パキスタン航空($180)
ラワールピンディ泊(イスラマバード隣)
3日目
イスラマバード(6:15)- ギルギット(7:25) パキスタン航空($40)
ギルギット - カリマバード - ギルギット 乗り合いバス(片道:3時間、70Rps)
ギルギット泊(400Rps)
4日目
ギルギット - イスラマバード便フライトキャンセルのため、
ギルギット(18時)- ペシャワール(翌朝7時半) チャーター車($180)
5日目
ペシャワール泊
6日目
ペシャワール(13:50)- ラホール(15:25) パキスタン航空($45)
ラホール泊(1,000Rps)
7日目
ラホール(23:50)- バンコク(翌日6:20) タイ国際航空

1週間程度のパキスタン旅行でフンザ(カリマバード)を訪れるのであれば、モヘンジョダロは外すべき。
空路でのギルギット入りを予定してフライトがキャンセルになれば、夜行で車を走らせないかぎり最低1日はつぶれるが、昼の陸路移動はカラコルムハイウェイの景色を十分堪能できるであろう。
パキスタン航空の国内線は日本で購入しても現地と同一料金のため、イスラマバード-ギルギット間を日本で予約して、往きの便が飛べばフンザ周辺滞在を1日伸ばし、帰りのフライトがあればイスラマバード周辺の遺跡探索に1日費やすという、代替の陸路移動を考慮したプランが現実的と思われる。

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