[メキシコ]チチェンイツァー

<チチェン・イツァーのエルカスティージョ航空写真

チチェンイツァーは遺跡の敷地内が良く清掃され、有名なピラミッドは少し小振りだが見ごたえがあり悪くない。しかし、ピラミッドの階段を登れないのは残念だ。この頂上部からの眺めをテレビで何度か見ていてずっと楽しみにしていたのだが、数年前から登頂禁止になっているということを日本を出る直前に知った。
ピラミッド以外も遺跡に上がる階段や入口には立ち入り禁止のロープがあちこちに張られているが、監視員らしき制服姿はない。
白人のグループが女性をピラミッドの階段に数段だけ登らせて写真を撮っていた。メキシコではこのぐらいは許されるのかと思って見ていたが、背の低い私服の男が叫びながら走り寄り、彼らを遺跡公園出口に連行していった。遺跡内には他にいくつも見所があるのだが、最初のピラミッドで追放なのだろうか。
メキシコ人は穏やかだと思って甘くみてはいけない。

[メキシコ]ウシュマル(カンペチェ、メリダ)

<魔法使いのピラミッド撮影ポイント>/尼僧院(2枚組)

ウシュマルはチチェンイツァーとは多少趣の異なるピラミッドがあり、見る価値は十分ある。ただ、ここでもそそられる急な階段は現在登ることができない。確かにこの崩れかけた階段(上写真)を観光客が登ることは遺跡保護の観点から無理だろう。
ただ、遺跡公園の奥にあるより高いピラミッドは登ることができた。頂きから見渡す限り熱帯樹林が広がり、その中に遺跡が点在する様子はなかなか見事。
海外で遺跡観光をしていると実感でき、気分が高揚してくる。

チチェンイツァーもウシュマルも、遺跡だけでなく周辺の自然も一緒に楽しめるのがすばらしい。1m近いトカゲをいたるところで見かけ、熱帯の鳥がさえずる声があちこちから聞こえてくる。

≫続きを表示

カンペチェはしょぼい。
街が世界文化遺産に指定されているとなれば、旧い街並みが好きな私としてはずすわけにいかなかったのだが、カンペチェは世界的観光地にはほど遠い。一部残されている植民地時代の城壁や砦は見ごたえがない。城壁内の建物は壁面が様々な色で彩られていたが、ただカラフルだというだけ。(文化的価値を無視して観光地としてだけ見れば)メキシコ文化遺産ぐらいにしておいてもらいたいものだ。

メリダは歩きやすくほどよい大きさの街だが、独特の文明を感じ取れる小規模な博物館以外にはこれといったものがない。街は危険が感じられず夜歩きも楽しめるので、遺跡見学の拠点としては問題なさそう。

ユカタン半島周辺には、日本人の頭を大きな木槌でたたいて縮ませたような風貌の人が多い。
会う人会う人が、日本のどこかで見かけたような人たちに感じてしまう。眉毛や眼が濃く、顔が大きく首と手足が短い。視線を合わせるとにやにや笑みを浮かべるだけでなく、軽い会釈のようなしぐさも見せ、他人とは思えない。彼らは黙っていると暗い面付きなのだが、ひとたび口を開くと驚くほど明るく親切な対応をする。
日本人が奥深くに潜ませ、めったに表に出すことのない良い部分を、彼らはためらいもなく前面に押し出している、そんな気にさせられるのだ。

[キューバ]ハバナ

<旧市街にあるプライベートルーム2階の窓から繁華街と逆の方向を見た朝の風景>

<ハバナの観光客が多い通りを練り歩く道化団(2枚組)

空港の税関を過ぎたところでキューバの地図やガイドブックを売る店があった。『地球の歩き方』ではキューバの情報が乏しいためロンプラか何かを買おうと思っていたので8ドル程度のガイドブック(ほとんど役に立たなかった)を購入。そこの店員に運良くプライベートルーム(一般家庭の部屋を宿として提供)を紹介される。『歩き方』の一番安いホテルが80ドル以上で、どうやってプライベートルームを見つければ良いのかわからなかったので、32ドルと決して安い部屋ではないが大いに助かった。

≫続きを表示

『歩き方』では市内までの交通手段として30ドルだというタクシーしか紹介されていなかったので、ついでにその店員に安い移動方法を教えてもらう。空港から1km以上先にある交差点まで行けば、乗り合いタクシーが捕まえられるというのでその場所を目指すことにした。
空港ビルから外に出る道は車専用にもみえるが、車が少ないので問題なく歩行できる。しかし、空港を利用する現地の人が歩いていても良さそうだが、歩行者は全くいない。強い日差しの中、不安を感じて歩いていると、目の前にルノーの小型車が停まった。私が乗り合いタクシーでセントロ(中心)まで行こうとしていることを告げると、その運転手はとんでもないという顔をして、いいから自分の車に乗れと勧める。
微妙だった。親切にただで乗せてくれる、親切そうに送ってくれるがTAXI代相当の金を要求される、ひとけのない所に連れて行かれ襲われる、の大きく3つのケースが考えられる。3つめだけはないことを祈り彼の車に乗った。
結果は期待以上で、市内中心部に入ると、彼はアドレスを元に人に聞きまくってプライベートルームを探し出し、私を降ろすとすぐに走り去った。私は車内でずっと彼を疑い続け、人の善し悪しを探りながら会話していたのが申し訳なく感じる。成田でキューバ人を見つけたら、東京でも埼玉でも送ってあげたいという気持ちだ。

宿は街の中心から近くて良いのだが、旧市街の地元住民が集まる場所にあり、夜中の騒々しさは半端でなかった。通りに面したエアコンのない2階の部屋に朝4時過ぎまで騒音が響き渡り、まるで喧嘩の絶えない場末の酒場で横になっているようだ。時々、飛び起きてしまう程の大音響や叫び声があがり、3、4人は殺されただろうなと夢と現実のはざまで感じていた。朝は6時にもなると清掃車の音や台車をひきづる音が鳴りだし、不眠による体中のしびれと共に起き上がる。宿を替えるしかないと思ったが、観光案内所のないキューバでどうやってプライベートルームを見つければ良いかわからず、そこへ2泊してしまった。

キューバの道は閑散としている。人も車も少なく密度が低い。逆に言えば、道が十分整備され歩きやすいということなのだが、夜は暗さが半端でない。観光客の多い地区以外は、人通りが多い道でも街灯が暗く少ない。また、店も疎らにしかないため最初の夜は緊張感があった。オーナーが言うには、ハバナの中でもこのプライベートルーム周辺だけは、スリや強盗の多い危険地帯だという。
しかし、暗さに慣れてくると恐怖感は薄れてくる。暗闇の中でも涼しくなった通りを幼児たちが走り回っている。私の感覚では、新宿や池袋よりはましなレベルではないだろうか。この程度で危険だということは、キューバが安全な国のような気がしてきた。(2泊しかしてない者が言っていることなので鵜呑みにせず、キューバを旅行される方は地元の方の言うことに従って下さい)

<参考図書>カリブ海の島々〈2006~2007年版〉バハマ・キューバ・ジャマイカ・ドミニカ共和国
最新版=>B24 地球の歩き方 キューバ&カリブの島々 2019~2020

[キューバ]トリニダー

<マヨール広場のサンティシマ教会撮影ポイント

ハバナでバスターミナルへ向かうとき、出発時間が迫っていたのでキューバで初めてタクシーに乗ろうとしていると、目の前にボロい車が停まる。白タクのようで正規タクシー料金の半額以下で乗車。ラッキー♪

市内の案内所で指示された出発1時間前を切ってターミナル到着。急がなければならないのだがチケット売り場がみつからず、人だかりのできたインフォメーションに並ぶ。出発まで30分を切りあせりを感じていたころ、トリニダー行きの同乗者を探していた乗り合いタクシーに勧誘される。バスより速く安いというので即決。ラッキー♪

トリニダー(トリニダあるいはトリニダード)の街中に入り、乗り合いタクシーの運転手が道に不案内のため、ガイドブックにあるホテルの場所を通行人に確認する。すると、彼がプライベートルームの客引きで、トイレシャワーエアコン付き完全個室の部屋に案内してくれる。予定していたホテルより街の中心に近く宿泊費は半額以下。ラッキー♪

キューバの旅はラッキーに溢れている。(無許可の移動手段や宿泊施設がはびこっているため、思わぬ不幸に遭遇するリスクが高いとも言える)

<2006年10月24日>

<トリニダー旧市街の路地/周辺の住宅地(2枚組)

<住宅地のお子さま(2枚組)


赤い瓦屋根の建物が集落をなす町、トリニダー(トリニダあるいはトリニダード)。
世界遺産らしい景観が部分的に見られるが、規模が小さい。主なポイントを回るのに1時間もかからない。

次の目的地サンティアゴデクーバへのバスが朝1便だけのため、今日は時間が余ってしまい観光地区外の集落を歩いてみる。
人々の穏やかさはハバナ以上だ。

窓やドアに鉄格子がはめられている家が多く、上半身を露出した黒人がうろつき、普通であれば物々しさを感じる状況だ。
しかし、そんな町を緊張せずゆったりと歩き回れるところが、ここの1番の売りかもしれない。

<2006年10月25日>

トリニダーからサンティアゴまで10時間以上のバスの旅(区間ルート)になるというので、事前の飲食に細心の注意を払って乗車したが、驚いたことにそのバスはキューバで初めて見るトイレ付き。トイレさえ付いていれば、10時間ぐらいはどうってことない、2、3日は乗っていられそうな気がする。
ところが、たまっていた写真の整理と当サイト作成作業でPC操作をしていると、あっという間に酔ってしまった。基本的に乗り物酔いはしない性質だが、このバスは小舟が嵐に揉まれているように良く揺れる。荒れた舗装路を飛ばすため、ダンパーがへたっているようだ。
結局、12時間かかり暗闇のターミナルに着くと、タクシーや宿の客引きが出口の鉄格子ドアに折り重なるように群がっていた。
その夜、振動で胃腸が攪拌されたためか、疲労性下痢炎に苦しんだ。

<トリニダーを走る現役クラシックカー(2枚組)

[キューバ]サンティアゴ・デ・クーバ

<街から海へ下る坂道(2枚組)

キューバの博物館には女性スタッフが多い。館内の各コーナーに監視兼ガイドとして年配の女性が配置されているのをよく見かける。その働きぶりは博物館により様々だ。

ハバナで最初に入った博物館はスペイン語が理解できる見学者には熱心にガイドをして、私は全く相手にされなかった。
ところが、別の博物館では、女性スタッフが私をみつけるなり喜んで近づき、立ち入り禁止エリアに私を連れて行き、言葉が通じない代わりにサービスなのか私のカメラで何度も記念撮影をしてくれる。不審に思っていると、最後に出っ張ったお腹をみせ、もうすぐベベが生まれるのでチップをはずんでくれと要求してくるのだった。
また、トリニダーのある博物館では、どのスタッフも偽物にみえる古い紙幣を隠し持っていて、周りに人がいないのを確認して売りつけてくる。
そうかと思うとにこにこしながら誘導をして何も要求してこない博物館もあり、当たりはずれが大きい。

サンティアゴデクーバの歴史博物館に入ると女性スタッフが大きなモップで床を磨き上げていた。ここのスタッフは安心して接して大丈夫だと感じた。おばあさんとも言えるその年配の女性は私をみつけるなりにこっと微笑む。キューバではプライベートルームのおっかさんを始め、気さくに声をかけてくる年配女性に魅力的な人が多い。ほがらかな笑顔が、私の親戚にでも会ったような気分にさせてくれる。
50歳は優に超えている女性は掃除の手を休めると、スペイン語がほとんど理解できない私に対して簡単な単語を使って懸命にコーナーや展示物を説明してくれる。縮れた髪の毛を後ろに縛り上げ、おでこを出した彼女が笑顔をみせると、なぜかしらかわいらしく感じる。
廊下の格子窓から魅惑的な光が入っていたので、彼女が気を抜いたすきに撮った写真(写真上)を見せると子供のように喜んでいた。

<2006年10月27日>

<サンペドロデラロカ城(2枚組)撮影ポイント

サンティアゴデクーバからジャマイカに飛びたかったが、ジャマイカへの便はハバナからしか飛んでいないという。バスでも空路でもハバナには戻りたくなかったので、チケットが手に入ったドミニカ共和国へ向かうことにする。

空港のすぐ近くにある世界遺産のモロ要塞(サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城)に寄った。美しい海岸線に面した遺跡は、観光地らしくある程度整備されているが、これといった魅力的な部分がみつからない。

キューバは人が良く、比較的安全で、想像以上に旅しやすい国だったが、観光地としては今ひとつ冴えない。美しい海を始め手つかずの自然が至る所に見られるため、それら景観を堪能する旅も良いかもしれない。しかし、敢えて遠い日本から訪れるほどのものではない。キューバが観光国として更に発展していくためには、ゲバラ、カストロ以外の観光資源を発掘して整備していく必要があるだろう。
私が発見できたキューバらしさは、どこの街でも古いアメ車が実用車として走り回っている姿ぐらいだった。

[ドミニカ共和国]サント・ドミンゴ

ドミニカ共和国の空港は出国税が20ドル。空港、市内間がタクシーで20~30ドル。短期間の滞在に余計な出費がかさむ。カリブの島々の中では遺跡や古い町並みが多いとは言え、わざわざルートに組み入れるほどの場所ではない。
街に危険は感じないが、しつこい客引きが多い。

日本人かと言って近づいてくる男が多いので、No English、No espanolと退けていると、一生懸命考えた末に「アナタノフネハ、イツ、シュッパツシマスカ」と言ってきた客引きがいた。私は感心して「船じゃないんだよ」と日本語で答えたが会話は続かない。さあどうするんだ、どうやって話を進めるんだドミニカ人、期待して反応を待っていたら、すごすごと引き下がってしまった。
滞在中に見かけることはなかったが、豪華客船で立ち寄る日本人が多いのだろうか。その後もNo English、No espanolで凌いだ。

≫続きを表示

客引き以外の子供や街角の男たちは、私に対してチーノ(中国人あるいは東洋人)と声をかけてくる。メキシコ、キューバでもチーノと声をかけられることはあったが、ここでは頻度が高く、犬でも呼ぶような口調のため無視するようになってきた。私が路上でとうもろこしを買い、お金を支払っていると、チーノ、チーノと強い調子で声をかけ腕を引っ張ってくる者がいる。つり銭を確認して振り向くと、薄汚れた風貌の子供が私を睨みつけ、その金をよこせという態度で手の平を差し出した。
「てめえこのやろ、ぶっとばすぞ」
思わず汚い日本語を発してしまい、周りを見渡す。大丈夫、日本人はおろかチーノすらこの街ではめったに見かけない。

サント・ドミンゴは博物館や遺跡が少しあるが、それほど面白味はない。観光客が楽しめるのはおみやげぐらいでは。ドミニカ共和国でしか産出されないというラリマール(薄いブルーの宝石)や琥珀、彫刻類や絵画など、私でも興味をそそられる土産類が溢れていた。

[オランダ領キュラソー]ウィレムスタード

日本人にほとんど知られていない、ずいぶんと小さな島に来てしまったものだ。独立国でもないのにわざわざ立ち寄ったのは、スリナムへ行こうと急に思い立ち、オランダ領キュラソーには元オランダ領のスリナムへのフライトが確実にあるということを知ったからだ。しかし、事前によく調べて準備していれば、わざわざ立ち寄る必要もなかった。サント・ドミンゴでジャマイカ行きのチケットを取ろうと旅行会社に電話していたのだが、すぐには手配できないとかなんとか英語で難解な説明をされ、会話に疲れてしまい「じゃあ、明日の便が取れるそのクラサオ(キュラソーのオランダ語とスペイン語発音)でいいよクラサオ」となげやりに決めてしまったのだ。

ところが、なかなか当たりのスポットのようだ。
まず、サント・ドミンゴのように日本人の気配を感じることがない。また、メキシコやキューバのように人々がみな愛想が良いなんてことはない。海外では、人に物を尋ねてもそっけないのが普通であり、そんな中、たまたま親切な人に出会うといい思いをしたと感じるものなのだ。

≫続きを表示

空港ロビーを出て最初に目についたローカルバスに乗り、島の中心部に向かう。小さな島だと思うのだが想像以上に時間がかかり、暗くなり始めた夕方7時すぎ街はずれの終点に着く。まずは街の中心を確認して安ホテルをみつけたいのだが、運転手も乗客も英語、スペイン語とも通じず(キュラソーの公用語はオランダ語、パピアメント語)不機嫌な顔をするだけだ。言葉が通じないなりにも困っている旅行者を助けてあげようという気がなさそうだったので、私は自分の感だけでホテルを目指し歩き始める。薄暗い通りでは今にも襲ってきそうな警戒すべき人物ばかりが目につき観光客など見当たらない。少しでもまともな人を見つけてはホテルの場所や繁華街の方向を尋ねてみるのだが、ほとんどまともにコミュニケーションできない。
1時間以上歩き回ったが満室だったホテルひとつしか見つけられず、もう足で見つけるのはあきらめ、タクシーで安めのホテルに連れて行ってもらうしかないかと考えた。タクシーをつかまえるため、バスを降りた場所に戻ろうと公園を横切っていた時、数人で夕涼みをしていた老人が私に声をかけてくる。会話にならなかったが「ホテル」だけで全てを理解した老人は早足に私の前を歩き始め、空き室のあるホテルに導いてくれた。
そのホテルは海に面していながら25ドルでエアコン、シャワー付きと私の希望をほとんど満たしていたのだ。
そして、そのホテルから5分も歩くと、バスを降りてからずっと見つけることができなかった繁華街があった。外国人観光客があふれ華やかな雰囲気を醸し出す通りを歩いていると、ほっとして幸せな気分になった。

<2006年10月31日>

<浮橋のクイーンズエマ橋(2枚組)航空写真

キュラソー島にあるウィレムスタード(ウィレムスタッドあるいはウィレムスタット)のみどころはクイーンズ・エマ橋を挟んだカラフルな建物が並ぶ中心街しかなさそうだ。この歩行者用の橋は舟型をした橋桁に架けられた浮き橋(航空写真でも舟形をした橋桁が十数個並んでいるのがぼんやりわかる)で、運河を船が通る際に一端が固定されたまま、もう一方が岸から離れて斜めに動いて水路が開けられる。小さなボートが通るだけでも、歩行者を止めてゆっくりと橋を動かす。ずいぶんと呑気なものだが、観光の目玉なので仕方ないのだろうか。

このぐらぐらと揺れる橋の上を歩くと、両側の岸辺に並ぶカラフルな建物が目に入り、常に海からの心地良い風を受け、この上ない快感を覚える。
橋を渡っているのは観光客よりも圧倒的に地元の人が多く、橋の上での彼らとの触れ合いがなぜかわくわくとして心躍るのだ。

それにしてもよく蚊に刺される。特に膝下を露出した足は、これだけ刺されてかわいそうだからやめておくかという気にならないのだろうか。肌の中で少しでも腫れていない部分をみつけて刺していく、情け容赦のないやつらだ。
実際は蚊だけでなくブヨのようなものにも刺されているようだ。彼らは羽音をたてずに接近して、とまった瞬間に針を刺したような痛みを与えながら噛み切る(ノミかもしれない)。そいつのせいか、大量の蚊のせいかわからないが、水膨れもいくつかできている。

[スリナム]パラマリボ

到着時間を大きく間違えていた。スリナムの情報も少なすぎた。

≫続きを表示

昨晩8時にクラサオを発った飛行機は夜9時半に到着すると思っていたのだが、それは途中寄港地のトリニダードトバコの時間で、スリナムには日を跨いだ夜中の1時すぎに到着した。そして、その空港は首都パラマリボから南に45kmも離れた町灯りの全く見えない場所なのだ。
さすがにこの立地でこの時間帯、公共交通機関など見あたらない。30分以上、空港敷地内や周辺をうろつき相談に乗ってくれそうなドライバーを探したが、交渉には誰も応じず、空港に明示されていた金額の30ドルで市内に向かった。

直前にネットで見つけたゲストハウスに着いた時は夜中の2時半、運転手と一緒に何度も声をかけたがスタッフは出てこなかった。しかたなく同程度だという運ちゃん知り合いのゲストハウスに泊まることになる。エアコンなしで12ドルが高いか安いか分からなかったが、室内やトイレに耐えられない汚れがあった。英語の通じないスタッフと現地人と思われる宿泊者のみで、朝7時から廊下のテレビが大音量を流し続け眠らせてもらえない。

しかたなく宿探しをするため外に出ると、PizaHatやKFCの見慣れた看板と、華僑によるスーパーの漢字の看板などがあり、沖縄か高知あたりを歩いている気分だ。日本車がずいぶん多いと思ったら、ここは左側通行なのだ。アメ車やドイツ車も少しは走っているが左ハンのまま。日本車の割合は東京より高そうで、日本企業のペイントをしたまま走る車があるのはミャンマーを思い出させる。トラックが曲がる時に『ピンポーン、左へ曲がります』というアナウンスが流れるのは、現地人は気にならないのだろうか。

ガイドブックなしで言葉が通じないとつらい。街の中心に向かって歩くと英語が通じるホテルをいくつも発見したがどこも高い。途中の本屋で市内の地図を買い、この街の概要と現在地を掴むことができた。中心部で20ドル弱のゲストハウスを見つけた時は午後の2時すぎだった。

熱帯地方の雨は30分ぐらい勢いよく降ってあとはからりと晴れ上がるものだと思っていたが、今日はほとんど1日中降り続いている。雨の強さが20分間隔で強中弱と変化している感じ。宿探しだけでかなり体力を消耗したが、食事や飲み物の確保のために街を歩く。道路に大きな水溜まりができ、道端は砂地でぬかるんでいる。地元の人はほとんど傘を差さない。中や弱の雨は濡れながら歩くのだ。
若者が私の傘にぶつかってきて、街中で傘を差すなよ、と文句を言われる。暑いのもつらいが雨はもっとつらい。今日は1日観光せずに終わった。

<11月2日>

<コロニアル様式建造物のあるウォーターカント地区航空写真

世界遺産パラマリボ市街歴史地区となっているのだが、いったいどこに歴史的街並が保存されているというのだろう。歩きにくいどこにでもある田舎町にしか思えない。今日は1日雨が降らず、町の中心部分は大きくないので、何周もしてしまったがカメラを向けたくなるような光景にほとんど出会えなかった。様々な人種が共存する国ということだが、それによって典型的な現地人の姿が見えてこないのも個性を失わせている。

店が閉まるのが早い。午後3時から5時の間に閉められる店が多い。入り口が狭く店内が暗いため、オランダ語の看板だけでは何の店かなかなか判断できない。エアコンの利いた快適な店舗に入ろうとすると、防犯のため入り口で鞄を預けさせる所が多く、面倒になって入店をやめる。様々な国の料理が楽しめる街のようだが、ヨーロッパ風のカフェバーで男たちがビールだけを飲む姿が目につき、レストランはほとんどが閉じられている。

この街の良いところは治安が悪くなさそうで、車がそれほど凶暴でないこと、それにツーリスト・インフォメーションが分かり易い地図を渡して丁寧に説明してくれたことだ。
内陸部の自然に触れるツアーを目的に訪れている観光客が意外と多いようなので、見せるべきポイントを整備して、もう少しまともな観光地に変えていけば、経済が潤い、店の商品が増え、人々の表情が明るくなると思うのだが。

パラマリボはつまらないのでニウ・ニッケリーに移動。(区間ルート
国境近くにあるニュー・ニッケリーはスリナムの中では大きな町のようだ。何かスリナムらしさがみつけられないかと期待していたが、原野の中で少しだけ建物が集まっているという程度の静かな町だった。首都パラマリボでも密集度の低いのんびりとした都市だったのだから、こんなものなのだろう。
ニュー・ニッケリーはパラマリボより更に華僑が多く、レストランは中華ばかりで、商店にも漢字の看板やら表示が目に付く。せっかく南米のマイナーな国に来ているのに、これではあまりにもつまらない。

[ガイアナ]ジョージタウン(1)

≫文頭を表示

地図上では昨日の移動距離より短い(区間ルート)が、昨日の4時間に対して今日は10時間かかった。国境をフェリーで越えるのに待ち時間があり、ガイアナに入ってからも途中で渡河があり、フェリーに乗り込むまで待たされた。
国境越えは意外と楽だった。昼の11時に国境越えのフェリーが出航するのだが、地元の人たちは船の待ち時間や乗船中に男も女もビールを何本も飲み盛り上がっている。一般乗客だけならまだしも、フェリーに載せる車の運転手までがビールを飲み、フェリーを降りるとガイアナの一般道を100km以上出して走っているのだから危険極まりない。

ガイアナはアフリカ系移民のほかインド系移民が多い。どんな道でも車の性能を目一杯出し切らないと気が済まないのは、アフリカよりもインドの血による影響が大きそうだ。英領であったこの地は左側通行で、スリナムと同様に日本車が圧倒的に多いため、インドよりもはるかに高速で走ることができる。
道を渡る野良牛か放し飼いの牛が多いのもインドを強く感じさせた。歩行者や自転車の脇を気がふれたような速度でぶっとばすドライバーたちも、道端に牛をみつけるとハザードランプを出し、速度をぐっと落とすのだ。

ジョージタウン中心街のテンションの高さは相当なものだ。
まず音がすごい。全身を揺さぶる音が街中に響きわたっている。移動式CDショップが台車に巨大なスピーカーを乗せ、ボリューム最大にして音楽を流す。あちこちの車や店からも大音響が溢れ、クラクションの音と人の叫び声がそのわずかな谷間を埋めてしまう。
人や車の数が多く、あちこちに争いがあり掴み合いが見られる。ミニバスの客引き競争が熾烈ですぐ喧嘩に発展する。車はクラクションを鳴らして攻撃的に人を襲う。
歩道のない道端を杖代わりの棒を突きながら歩いていた男にミニバスの運転手がもっとはじに寄るようクラクションを鳴らしていた。浮浪者風の男が無視して歩き続けると、運転手は角を曲がる時に男に幅寄せしていく。そして車体をぶつけ男を倒すと後輪で足を踏みつけた。車が意図的に人にぶつかるところを間近で目撃してしまったのだ。倒された浮浪者は無事のようで、起き上がると棒を振り回して車に向かって行ったが、ミニバスのドライバーが窓から顔を出し「お前がよけないから悪いんだ」と罵るとそのまま走り去った。

こりゃ恐ろしい街だ。よい子は来るべきでない。

ジョージタウンを観光したが、パラマリボよりはましかという程度。ろくな写真がないのでジョージタウンを表現する小さな写真を並べた。(左上から順に)

  1. 白いきれいな教会がいくつかあるが、わざわざ見るほどのものではない。
  2. 海が茶色い。実際はもっと茶色の海に感じた。茶色い川はいくらでもあるが、茶色い海を見たのは初めてなのだが珍しくないのだろうか。
  3. 街の中心にある市場(航空写真)スタブローク・マーケット(Stabroek Market)。オランダによって建てられた時計塔のある建物を中心に広がる。最も活気のあるところだが、写真を撮っていると金出せとうるさいやつもいる、多少危険なところ。
  4. 市場から数分ほどのホテル周辺は貧民街というわけではないが、崩れかけた家に住む貧しそうな人々がいる。子供たちと仲良くなろうと思ったが、どうも顔つきが良くない。あまり深入りしなかった。
  5. 街の動物園の隣にある植物園の池にいるマナウス。人になついていて、近くに生えている草を差し出すと近寄ってきて食べるのだが、全身を水上に現さないので形がよくわからない。
    動物の写真は難しい。特にかわいらしく撮るというのは。この街の子供たちの場合も同様だ。日差しの強い国で日影にたむろする黒人の子供をかわいらしく撮るのは至難の技なのだ。
    どこの国の子供でも接している時はみなかわいらしいのだが。

[ガイアナ]ジョージタウン(2)

<ジョージタウン中心部のスタブローク・マーケット(2枚組)航空写真

危険なにおいがプンプンするジョージタウンを写真で表現しようと思ったがなかなかうまくいかなかった。(写真上にマウスを乗せると変わる2枚目)
パラマリボと違って、街中を歩く旅行者は皆無。カメラを持つ私がみんなから注目されているのを感じる。自分にカメラを向けたら金を要求しようとする浮浪者、隙があればカメラか財布を盗ってやろうと物陰からチラチラと向けられる視線。

この街に入った時から、暗く怖い顔ばかり目についていたが、慣れてくると明るい笑顔もあちこちに見られることに気がつく。混雑した路地市場は絶対何か盗まれそうなので今まで避けていたが、カメラを持って奥まで入りこんでみた。
すると、喧噪の表通りとうって変わって路地の奥には和やかな雰囲気の出店が並んでいた。カメラを向けて注意してくる人もいない。鮮やかな野菜が並べられる店先に怖そうな兄ちゃんが立っていたので、写真を撮っていいかと断ってからカメラを向けた。すると2人の売り子は、はにかみながらポーズを取ってくれた。(写真表)
ジョージタウンは危険なだけの街ではなかった。

≫続きを表示

航空券購入のため旅行代理店を訪ね歩く。代理店は経営者によりインド系とアフリカ系に分けられ、扱うチケットも値段も大きく違う。代理店のスタッフは正しい英語を話しているのだろうが、イギリス英語のためなのかなかなか聞き取ることができない。
そんな私に対して、インド系のスタッフはゆっくり話したり、言い回しを変えたり、紙に書きながら説明するなどの努力をしてくれる。しかし、アフリカ系スタッフは何度聞き返しても同じ言い回しを同じスピードでしか話そうとしない。相手に合わせるとか客が理解できるように努力するということができないのだ。これでは、いつまでたってもインド系住民がこの国の政治経済を支配し続けるだろう。

ベネズエラのカラカスまでのチケットはトリニダード・トバコ経由になるのだが、ある代理店ではトリニダード・トバコのビザがないとトランジットも許されないとチケットを販売してくれず、ある代理店ではベネズエラに片道のチケットでは入国できないので販売できない、と断られた。
結局、アフリカ系3軒、インド系4軒の代理店を訪ねて、やっとカラカスまでのディスカウント・チケットを片道で入手することができた。トランジット時とベネズエラ入国時が多少不安ではあるが。

蚊に刺されすぎているので、ホテル室内では積極的な殺戮作戦を試み、ジョージタウンでの(私にとって)高級ホテルは外部からの進入が少ないため効を奏し、室内での被害は格段に減少した。
しかし、客の少ないレストランで椅子に腰掛けた途端、テーブル下に潜んでいた何匹もの蚊に一瞬にして数ヶ所刺される。やはりショートパンツではだめだ。

[ガイアナ]ジョージタウン(3)

空港での待ち時間に外に出ると、ビルのすぐ近くに庶民向けの店が数軒並ぶ長閑な通りがあった。そこでジュースを飲んでいた私を興味深くみつめていた子と仲良くなる。写真では大人びているが、6、7歳にしかみえないかわいらしい子だった。

怖そうな街で嫌な人もいるが良い人もいて、最後にかわいい子供と接することができたので良い印象でガイアナを出国できると思っていた、が甘くはなかった。

≫続きを表示

出国時の税関チェックを特別扱いでねちねちとやられた。相手はアフリカ系黒人男性。何を話しているのかさっぱりわからない。

何がきっかけだったのかわからないが、私だけ個室に連れていかれ、鞄の中身を細かくチェックする。そして、隠すように分散してあった現金を手に取って集めていく。その男は現金にしか関心がない。アフリカ人官吏によく見られるタイプだ。そして日本円をみつけて喜ぶ。ゼロの数が多いから大金だと思ったのだろう。1万円札の価値は80ドルしかないと答えても信用しない。そして、これは問題だ、お前はこのままでは出国できない。税関に出向いて申告しないといけない。お前はこの飛行機に乗ることができない、と脅してくる。まるくつぶれた鼻でべちゃべちゃとわかりにくい英語を話していたが、こんな小男の脅しに乗せられる旅行者などいるのだろうか。
何を言っているんだ、私は入国時にドルの価値で所持金を申告している。こんな少額の現金を所持していることで何が問題だというのだ。ちゃんと説明しろ。今までおとなしく応じていた私が反撃に転じた。
しかし、彼の英語が私に分からないように私の英語は彼に半分も通じていないようだ。彼は問題だ問題だと言いながら、ときどき声のトーンを落としてべちゃべちゃと話す。全く理解できない。こちらからワイロの話しを持ち出すよう仕向けていると想像されるが、私に全く通じていない。彼はイライラしながらも別の人間を呼ぶから待っていろ、と何度も電話をかける。
私がトイレに行ったり、彼が電話している隙に少しずつ前進したりして、我々は搭乗機のゲート前まで来ていた。既に搭乗が開始されている。丸鼻の黒人は、お前は乗れないぞと脅し続けていたが、ついに私以外の搭乗客が全て機内に入ってしまった。ロビーには携帯電話で話をする小男と私の2人だけになり、航空会社の男性職員がいぶかしげにみつめている。私乗れないみたいなんで行っちゃって下さいという訳にはいかないだろう。航空会社のスタッフがどうしたんだ、なぜ待たせているんだと電話を切った小男に詰め寄ってきた。今、税関から別の人間が来るから待っていろと言ってた男も、これ以上出発を遅らせられないと航空会社のスタッフに言われ、渋々、私に行っていいと手で合図した。

だいたい予想できた結末だった。アフリカ系官吏には野犬がまぎれているので、吠えられたことに腹を立ててはいけない。噛まれなかったことを良しとしないと。

[トリニダードトバゴ]ポートオブスペイン

トリニダード・トバゴは入国せずイミグレーション内側の空港ビル内で夜を明かすつもりだったが、一度入国しないとトランジットできないと言われる。ビザなしではトランジット入国も許されないとジョージタウンのインド系代理店が主張していたが、問題なく入国できた。しかし、翌朝の便をチェックインしてイミグレーションを通ってしまうということはできなかった。外部からの出入りが自由にできそうな空港ロビーで夜を明かすのはいささか危険だ。かといって、トリニダード・トバコはドミニカ共和国なみに市内までのタクシー代が高くホテルも高い。

≫続きを表示

ツーリストオフィスで空港近くのホテルを尋ねるが送迎付きで100ドル以上。途方にくれてふらふら歩いていると人相の悪い客引きが近くの安めのホテルを紹介してきた。見た目が信用できない男だったので断った。すると彼がしかたないなとにやりとしながら簡単に引き下がった。その態度にピンときた。こいつは大丈夫かもしれないと感じたので、少し間をおいて彼の近くに歩いていき、再び声をかけさせる。
話してみると人相の割に悪いやつでなさそうだ。そして、言葉がよく通じる。首都のポート・オブ・スペインという名からも、スペイン語という頭しかなかったが公用語は英語だという。(同じく公用語を英語とするガイアナでは、なぜあんなに通じなかったのだろう)

彼に連れて行かれたホテルは当たりだった。この国ではUSドルがそのまま使え、部屋代に空港からの送迎含めて25ドル。その部屋は私に十分すぎる機能と質を備え、建物の下の階にあるネットカフェのWiFiを自分の部屋で勝手に使用できるというおまけつき。この国ではかなり安いのではないだろうか。
周辺に店もあり食事にでかける。何の緊張感もなく夜道を歩け、ほっとする場所だ。香港料理のレストランでは店員が皆きさくで、誰と話ししても英語が通じるのが感動的だ。そして運ばれた料理がうまい。特に高級中華風の野菜炒めが絶品だった。
今回の旅行では、食べ物に関してずっとノーヒットノーランが続いていたが、やっと当たりがでた。つい食べ過ぎて10ドルを超えてしまったが、普通に食べれば5ドルに収まる店。3日は通い続けたいと思った。

もっと、ゆっくりしたいがビザがないため一晩でこの国を去らなければならない。
空港では乗り継ぎ航空券を搭乗券と思いチェックインせず出国審査に進もうとしていると、黒人警備員が私に涙が出るほどやさしく諭してくれたのが忘れられない。

[ベネズエラ]カラカスからプエルトラクルスへ

宿がない。

トリニダード・トバコを早朝発ち、カラカスに着いてから空港で時間をかけて情報収集を行い、ひどい渋滞で1時間以上かかってカラカス市内に入ったのは12時過ぎだった。バスターミナルから地下鉄で移動してたどり着いた1件目の宿で満室だと断られた時は驚いた。このような国でホテルに空きがなかった経験がほとんどない。英語を話すスタッフがいて、今日は団体が入っているので明日ならたぶん大丈夫と言われ、たまたまのことかと思っていた。
しかし、その周辺のホテルに手当たり次第尋ねるがどこも満室。しかも英語が通じず、かろうじて覚えたスペイン語フレーズで空室の有無を尋ねるとそっけなく「ノ」とだけ答えられる。中心街を離れ、ガイドブックに載っている少し高めのホテルを何件か当たるがことごとくダメ。カラカス市内は大きく、人が多く車が凶暴で歩きにくい。地下鉄で移動しながら3駅周辺を3時間歩き回ったが空室のあるホテルを1件も見つけられない。ホテルがありそうな地域はまだいくらでもあったが、暑さとバッグの重さで体が音をあげていた。かくなる上は別の町に行くしかない。
ということで、次の目的地であるプエルト・ラ・クルスへ移動することにした。

≫続きを表示

この街はあちこちで行列ができている。停留所でバスを待つのにきれいに一列に並んでいるのは驚きだったが、銀行でも並び、商店に入るのにも並び、バスの切符を買うのにも長い列で待たされる。次のバスの席が取れず、1時間以上先の夕方5時発のバスになった。プエルト・ラ・クルスまで(区間)5時間、果たして無事宿に入れるのだろうか。ここで普通の人は電話で宿の予約をするのだろうが私はいくつかの理由によりしなかった。まあ基本的に電話は嫌いなのだ。特に海外での電話は。

バスは夕方のカラカス市内の渋滞を抜けるのに1時間半かかったのが響いたのか、プエルト・ラ・クルスに着いたのは夜11時半。ターミナルには客待ちタクシーが何台も停車していたが誰も声をかけてくれない。ガイドブックの地図によるとターミナルは中心部に近く数百メートル以内に何件かのホテルがある。タクシーに乗るつもりはなかったがその辺の情報を確認しようとしたのだが。
人通りはなかったが、街灯は明るく危険は感じなかったのでホテルを目指して歩き始めた。到着したターミナルは地図上の位置とは違う場所だと数分歩いた後で気づいたが、そんな大きな街でないはずなのでそのうち中心部に入るだろうと思い歩き続ける。街道沿いを1kmぐらい進みホテルを発見、空室があり、夜中12時過ぎにしてようやくベネズエラで最初のホテルにチェックインできた。30ドル以上して、ゴキブリがぞろぞろ出てくる不潔なホテルだったが、あとから考えるとラッキーだった。

カラカスは大変危険な街だと言われているので、重い荷物を背負い宿探ししている時、常に貴重品の位置に手を置き緊張して歩いていたが、今日歩いた限りではそれほどの危険は感じない。昨日までいたジョージタウンの方が目つきの悪い人や不気味な人が圧倒的に多かったし、イタリアのナポリの方が街の人々の犯罪に対する警戒心がはるかに強いと感じた。

[ベネズエラ]プエルト・ラ・クルス

オランダ語圏(キュラソー、スリナム)やとても英語には聞こえない英語圏(ガイアナ)を通ってきた後で、突然、ほとんど英語の通じないスペイン語圏にやってきてしまった。
メキシコやキューバであれば、英語だけでも旅ができそうだが、ベネズエラはホテルでも中級以下ではほとんど英語が通じない。うまく段階を踏んでスペイン語に慣れてからこの国に入れば良かった。

≫続きを表示

昨晩チェックインしたホテルの近くにガソリンスタンドがあり、併設されたコンビニが24時間営業なのだが、夜間は店内に入れず、切符販売窓口のような小さな窓を通して商品や現金のやりとりをする。店内は明るく照らされているのでガラスを通して中を見渡せるが、私はこの国にどんなものが売られているのかわからず、必要なものをスペイン語で説明することはままならない。
『パンはないのパン』
『パンならこれしかない』
口髭をはやした店主が棚から2斤以上ある食パンを持ってくる。
『いやーそれじゃ食べきるのに3日かかる。そのー、黒くて熱い飲み物あるでしょ』
『カフェか。カフェ飲むのか』
『いや、それは置いておいて。そのー、冷たくて白いものあるでしょ』
『ソフトクリームか。ソフトクリーム食べるのか』
『いや、それは置いておいて』
『なに、これも置いておくのか』
『そのー、カフェ(抽出器)とソフトクリーム(作成器)の間にあるガラスケース、そこに入っているものパンじゃないの』
『なんだ、それをききたかったのか。これはパイだ』
という具合で、私は薄暗い中、犬に吠えられながら単語に身振り手振りを加え、店主はスペイン語をどなり商品を近くに持ってきて見せながら、ジェスチャーゲームのやりとりを交えて買い物しなければならなかった。

朝10時からホテルを探しているのに、この街でも安めのホテルはことごとく満室だった。昨晩、12時過ぎにホテル探しをしていたら大変なところだった。6件目でやっと空き室をみつけ、セキュリティと清潔さに問題があったが、最後の1部屋ということでチェックインした。
今後のベネズエラでの宿探しが不安だ。

ベネズエラ人は思っていたより穏やかだ。私の幼稚なスペイン語にみな耳を傾け理解しようと努力してくれる親切さもあり、感触としてキューバ人に近いものがある。
このような穏やかな国民でありながら、観光による入国を逡巡させるほど犯罪が多いというのは、政治行政に相当な問題があるとしか考えられない。

[ベネズエラ]クマナ

<クマナの漁港とでかい鳥/野球やバレーに興じる子どもたち(2枚組)

プエルト・ラ・クルスから見るカリブ海が気に入り、車で2時間(区間ルート)の州都でもあるクマナに足を伸ばす。行きは70年代風アメ車の乗り合いタクシーで車内が広々していたが、登り下りの多い海岸沿いの道ではあまりスピードが上がらない。
歴史のある街だというクマナーでは観光すべきスポットをみつけられなかった。長い昼休み時間が終わるのを待ちMUSEOに入ると博物館ではなくしょぼい美術館だったり、苦労して海岸線にたどりついても漁船とやけに体のでかい鳥(ペリカン?)が群れる海しか見られなかった。
帰りもバスがみつけられず乗り合いタクシーで客の集まるのを待っていると、運ちゃんにあのバスがラ・クルスまで行くよと教えられ、慌ててバスに乗り込む。

やはり、バスの方がはるかに多くの景色が眺められる。クマナからラ・クルスまでの間は、ふところ深く海を抱く入り江がいくつも続き、何度も峠を越える海岸沿いの道から美しいカリブ海が望める。東欧のドブロブニクからコトルへ至る道を思い出させる。レンタカーでこの道を走れば、眺めの良い場所で車を停めたり、街道を外れて海岸線の集落へ向かったりすることができ、楽しい旅となりそうだ。

・・・・・・・・・・
この国のバスターミナルのしくみは未だ理解できていない。
おとといカラカスから乗ってきたバスが到着したのはRODO VIASというバス会社専用のターミナルのようだが、街の中心近くにあるターミナルには20ぐらいのバス会社の窓口があり、いったいどの窓口で次の目的地シウダー・ボリバル行きの切符が買えるのか全くわからない。しかし、適当な窓口で尋ねたり、意図的にキョロキョロしながら歩いていると、みんなが何かを教えてくれる。
今日も窓口の兄ちゃんが私のスペイン語の練習に付き合ってくれた。この国では英語が不思議なほど通じないが親切な人が多いため、スペイン語旅行会話の練習に最適かもしれない。

[ベネズエラ]シウダー・ボリバル

<オリノコ河に架かる橋と渡し船航空写真に表示される橋)

街のメイン通りが広いオリノコ河に面して気持ちの良い風が吹いてくる。しかし、見るべきものがないただの街だ。
シウダー・ボリバルはカナイマへの拠点として旅行者が多く訪れるはずだが、ダウンタウン周辺をくまなく歩き回りホテルを3つしか見つけることができず、どれも泊まる気にならないものばかりだった。街で一番高い(と言っても18ドル)ホテルなのだが、廃業して10年経ってもこれほどにはならないだろうという汚れ方なのだ。結局、不潔だがセキュリティー面でよりましだったゲストハウス風ホテルにして、エアコン付きで一番高い部屋(と言っても12ドル)で臭いまくらにシーツをぐるぐる巻いて眠ることにした。

ラ・クルスは安全で比較的清潔な街だったが、シウダー・ボリバルは、通りのあちこちに糞尿の臭いがたちこめ、残飯も含めたゴミが散乱してガラスの破片が至る所に散らばっている。昼は歩道が人で溢れ、銀行前には長い行列と人だかりができるが、夜7時にはほとんどの店が閉じられ、8時近くなると街は急にひっそりとする。観光客が立ち寄るべき街ではなさそう。

やはり、言葉が通じてなかったのか、半分だまされたのかもしれない。プエルト・ラ・クルスからシウダー・ボリバルまで(区間)のバスは、一番良いクラスのチケットを前日購入したのだが、乗ってみると座席が窮屈でエアコンがまともに効かずトイレがない。始めのうちは空席が多くゆったりできたのだが、途中からどんどん人が乗って満席になり、隣の席の母親に抱えられた幼児が臭いのするオムツ一丁でベタベタくっついてきて不快極まりない。5時間半乗っていただけだが、異常な疲労を感じていた。

<翌日(プエルト・オルダス)>

疲れがたまっている。

予定ではシウダー・ボリバルから更に12時間バスに乗ってサンタ・エレナ・デ・ウアイマに行き、そこからエンジェル・フォールの拠点で空路でしか入れないカナイマに飛ぶつもりだったが、観光という点ではイマイチはずれが続き、疲れがたまり気合いが入らない。ここからカナイマに飛ぼうと昨日思いたったが、またしても土日で旅行会社が休み。

シウダー・ボリバルの不潔な安ホテルで2泊は避けたかったので、空港がある隣町プエルト・オルダスまで(区間)バスで1時間かけて移動。うって変わって、街は大きく近代的なビルが建ち並ぶ。いくら歩いてもホテルが見つからずcentroの標識はあるが、なかなか中心地にたどり着かない。住民に尋ねるとタクシーでしか行けないというので、しかたなくタクシーでホテルに向かってもらう。シウダー・ボリバルの安ホテルに懲りたので高いホテル、高いホテルと運ちゃんに言い続ける。昨日の感覚から高級ホテルでも3、40ドル程度だろうと思ったのだが、着いたホテルはシングルで110ドル。んー、急に上がりすぎだぞ。安いと言われた向かいのホテルが60ドル。もっと安いホテル教えて、とレセプションで甘えるように尋ね、なんとなく指差した方向にしばらく歩いて、やっと求めるものに近い30ドルのホテルが見つかる。

ベネズエラでは、毎日のようにホテル探しでエネルギーの大半を使い果たしてしまっている。

[ベネズエラ]カナイマ

<カナイマ湖での水浴び撮影ポイント/洗濯をする親子(2枚組)

予約なしでプエルト・オルダスの空港に早朝入り、航空会社のカウンターで問い合わせると今日も明日も満席と言われがっくりと肩を落とした。しかし、少しねばるとツアー会社のチャーター便に空きがあることがわかりチケットを購入できた。これが当たりで、6人乗り小型機の助手席に座らせてもらい、約1時間半のフライトを堪能することになる。

小型機は初めての体験だが、この国のぼろいアメ車タクシーに乗っているようなものだ。
駐機場所から動き出し、くいっと曲がると、軍用機の間を翼がかからないか顔をフロントガラスに近づけ目視で確認しながら走行する。(地上誘導員はいないのか)
2機続いて離陸するようだが、前の機体と一機分も空けずに滑走路を走行する。(近づきすぎだ機間距離を空けろ)
フロントガラスには私の車にも昔つけていた球状の方位磁石が付けられ、シガーライターのソケットから市販のハンディナビゲーションに電源を供給している。(そんな小さいもので大丈夫なのか)
有視界飛行だと思うのだが何も見えない雲の中を長時間飛び続ける。(前の飛行機が急に止まったらどうするんだ)
雲の切れ目に出て操縦士が上を指差すので見上げると間近に先行機が飛行している。(うーん)

≫続きを表示

カナイマ空港に着くとツアー会社の客引きが集まってきて選択が大変とガイドブックに書いてあるが、誰も寄ってこない。あっさりと10ドルの宿は見つかったが、ツアー会社を探しカナイマ中を歩き回った。ボートで滝まで行くツアーは予想よりはるかに高く、最も安くて1日半ツアーが180ドル。これにプエルト・オルダスからの往復チケットを足しただけで360ドルになるので、カラカスやシウダーボリバルで売り込みされた2泊3日の宿食事付きツアーで350ドルや250ドルがはるかに安いことになる。
またしても大きな失敗をしているのではないかと思うと大きな疲労が体中を襲い、丸1日かけてボートで滝まで往復するツアーに参加する気力が失せる。
滝の上空フライトが90ドルでボートツアーより安いことがわかり、明日のフライトを予約する。

この集落には、原住民族ペモン人が生活している。狩猟民族だというが温和に見える彼らが道ですれ違う時、多くの人たちが何とも言えない笑顔で挨拶してくる。黒髪で日本人にも似た顔つきの彼らに微笑まれると、それだけでここまで来て良かったなあと感じてしまう。

空路でしか立ち入れない陸の孤島の集落は、食べ物の物価が異常に高い。眺めの良いホテルで昼食をとろうとすると20ドルと言われ、2ドルのカンコーラを昼食とした。地元の人が利用していたレストランで夕食にしようとしたが、15ドルから1銭も負けなかったので、スーパーでパンとジュースとハムの缶詰を買ってホテルに帰る。
どれもがひどくまずかった。特にフランスパンと思って買ったものがコッペパンで、賞味期限切れでもこれほど固くまずくはならないだろうという代物だった。

この粗末な夕食の何かがあたったのだろうか。それとも異様なほどに鉄分のきつい臭いのする水道水が口に入ったのか。
倦怠感がひどく早めに就寝したが、体のあちこちが痛くて眠れなかった。そして、激しい吐き気と悪寒に襲われた。

<2006年11月14日>

朝、頭がぐらぐらして、熱もかなりある。食あたりなら良いが、これほどひどいものは心当たりがない。こんな密林の奥地で何か大変な病気にかかってしまったのではないだろうか。

何匹もの巨大ゴキブリがわがもの顔で壁を横にはいずり回る安宿で、不安な1日を過ごした。

<2006年11月15日>

<カナイマ集落の子供たちと高級ホテルの敷地内で飼われているカラフルな鳥たち>

昨日は良く眠った。予約していたフライトツアーを断りに這うようにして朝でかけ、食べ物を探しに夕方でかけたが、それら合わせた2時間を除き、30時間眠り続けた。結局、買ってきたチョコすら食べず、水以外何も口にしなかった。

嘔吐と倦怠感はあったが熱は下がったような気がする。エンジェル・フォールの上空フライトにでかけようとツアー会社に9時に出向いたが、人が集まらず雨も降り、延々と待たされて午後2時にようやく飛ぶ。

≫続きを表示

スコールの後の上空は雲が多く、時折激しく雨が機体に打ち付ける。先日よりも更にボロい機体はあちこちから雨漏りがしてカメラが濡れる。
小型機はギアナ高地の谷あいを縫うように飛び、奥地にあるエンジェル・フォール周辺の上空にいるようだ。滝は雲に覆われてほんの一部しか見えない。体調が悪く胃が空っぽの私はかなり気分が悪くなっていた。もうこのまますぐ戻って、滝が見えなかったということで金を返してもらいたい気分だ。
パイロットは雲の中を旋回し始めた。滝が現れるのを待つようだ。雲の切れ間から崖が時々正面に見えることから判断して、谷あいを旋回しているのではないか。雲の中に入っている間はいつ崖に衝突してもおかしくないような気がする。頭がぐらぐらして吐き気をもよおしてきた。

何分か経ち滝の全体が見えた。飛行機は滝の落ち口付近の台地上から滝の中腹にかけて斜めに旋回する。見ているだけでも気持ち悪いが写真を撮らねば。しかし、小型機からの視界は狭く、窓は雨に濡れ、ここで止まってという全体が見えるシーンは一瞬しかない。
結局斜め旋回を4周してくれたが、まともな写真は一枚も撮れず、最後は気持ち悪く目を閉じてしまった。

体調と天候が悪かったので正しい認識でないかもしれないが、騒音が大きく汚い飛行機の窓からの眺めでは、せいぜいテレビのきれいな映像から受ける感動ほどしか得られない。やはり、滝つぼまで行かないとダメなのか。
しかし、欧米人向けのネイチャー・ツアーは虚弱な我々が耐えられるものではないと、同じ小型機に乗り合わせた日本人旅行者がしみじみ語っていた。250ドルのツアーに参加した彼は、滝壺で滑って怪我をしたのだと言う。昨日何針か縫ったばかりという彼の手が痛々しく腫れ上がっていた。

カナイマは熱帯らしい自然に溢れ、珍しい動物も見られ、集落の人々も親切な土地だ。これでまともな食べ物があり、体調も良ければ忘れられない場所となっただろう。
ツアーでここを訪れたとしても、少人数で集落や湖周辺を探索した方が良い。やさしい地元の人たちと触れ合っていると、何でもない自然の景観も魅力的に見えてくるはずだ。

<2006年11月16日(カナイマからプエルト・ラ・クルス)>

カナイマからの小型機は昨日エンジェル・フォールに飛んだ機体。
頭が禿げ上がり老年に入ろうかというパイロットは操縦をなめきっている。定員5名の搭乗が終わると、機体をぐるりと回転させて周りを良く見ずに舗装された滑走路わきの土の上を走行する。昨日もそうだったが、なぜこの人は土の上から離陸しようとするのだろうと思っていると、1本しかない滑走路を別の機体が正面から着陸してくる。危ないじゃないか、そんな慌てて離陸するなよ。

離陸後、上空の安定飛行に入るとパイロットは列車の運転士よりも暇らしい。私の隣で彼は札束を勘定し始め、老眼鏡をかけメモを付ける。手放しどころか下を向いて、1、2分に1度しか前を確認していない。今回も助手席に座る私は不安なので代わりに前方を監視していないといけない。
そのうちパイロットは携帯電話を取り出し、騒音の中で電話する。この機体には携帯ナビすらないから電波を発信しても計器に影響などないんだろうな。電話が終わるとまた老眼鏡をかけ、携帯電話の小さな画面を見ながら下を向いてメールを打ち始める。電話は許すからメールは勘弁してくれ。
着陸15分前ぐらいから、彼はやっと操縦に専念してくれる。そして、飛行機はこんな簡単なものなのかと思わせるように何の衝撃もなくあっさりと着陸。まさにハエがとまるような鮮やかさだった。着陸と同時にスイッチやレバー類を倒すと、滑走路上をゆっくりと減速走行している中でパイロットはメールチェック。もうすぐなんだから停止するまで待ってくれ。

体調が悪いのにバスでカラカスまで戻ろうなんて、大きな判断ミスだった。
バスは冷房が効き過ぎて寒い。そして、いつも予定よりも大幅に時間がかかる。
プエルト・ラ・クルスの手前から1時間以上渋滞にはまったこともあり、プエルト・オルダスからのバスは予定より2時間長い7時間半かかって到着。(プエルトオルダスからプエルトラクルスの区間ルート

ホテルで頭痛と寒気が襲ってきた。

[ベネズエラ]カラカス

朝起きると喉が完全に腫れていた。風邪だということが分かって良かったが、治るまでまだ数日はかかると思われる。長居しすぎたベネズエラを早急に脱出して物価が安いパナマで休養しよう。空路でカラカスに入り、そのままパナマに飛ぶことにする。

カラカス空港に着き、パナマの航空会社コパ航空のカウンターでチケットを購入しようとすると5人いるスタッフの誰もがまともに英語が通じない。そんなばかな。英語ができなくて国際線の受付業務が務まるのか。
そのうち人が来るからそこで待っていろと言われ、3時間待った。途中から状況が分かってきたが、今日の便が満席だったのだ。結局、空席が出ず、明朝のチケットを購入することになってしまう。
今晩どうしようか。市内までの道は常に大渋滞で、金曜の午後は3時間かかるという。体調が良ければ空港で夜を明かすのだが。ホテル紹介サービスで問い合わせると、最も安いホテルで送迎付き110ドルと大幅に予算オーバー。空港周辺の危なそうな集落をふらふら歩くがホテルはない。ベネズエラの旅はつらい。
夜を明かすにしても国際空港ビルにはファーストフード店以外に椅子がなかったので、隣の国内空港ビルに入ってみる。そこにもツアー会社があったのでダメもとで尋ねると、空港近くにホテルがあると紹介され、送迎付き35ドルと聞いてほっと胸をなでおろす。

観光もせず、移動や宿探しで精一杯の日々が続く。

<ベネズエラめも>

ベネズエラは私のようなタイプの旅行者が旅をするのに非常にやっかいな国だ。どのような人が苦労しそうなのかを以下に列挙する。
・ツアー嫌いで現地のツアーにも極力参加しない個人自由旅行者
・宿の事前予約を嫌う
・旅行に必要な情報収集を事前に行わず個人旅行をしようとする
・移動や宿はある程度安く済ませたいと考えているが極限まで安あがりにする程の気合いと体力を持たない
・スペイン語が数字と挨拶程度しかできない
・少しでも損をすることが耐えられない(理由は次に)

ベネズエラの通貨ボリーバレス(Bs.)の両替レートの差が大きい。公定レート(1$=2,150Bs.)に対して闇レートは都市や地域によりばらつきが大きく2,200~2,700Bs.で、公定レートの最大25%増しになる。これが100ドル以上する飛行機のチケット、ツアー代金など全てBs.ベースで計算されるから、どこでどれだけ両替するかで損得が大きく変わってくる。
これだけの情報とどこで高レートの闇両替が可能かを知っていれば楽なのだが、私の持参した5年前のガイドブックには飛行機やツアー代はドル支払いしかできないとあったため、少しずつ両替しているとすぐに金欠となり両替屋を探し歩くこととなった。
違法な闇両替はせず、公定レートで多めに両替をして出国時の再両替によるロスもやむなしという覚悟で行動しない限りとてもやっていけない。

ベネズエラは何事においても歪みが大きく、よどみの多い国だ。
例えば旅行者に必要なホテル、レストラン、両替所など、あるところには余るほどあるが、ないところには徹底的になかったり満杯状態だったりする。街の人々がキオスクや電話サービス、銀行に長い行列を作っているかと思えば、1本裏通りに入ると洋品店、電器店などが何軒も並んでいて、そこは店内どころか通りにすら人影がまばらだったり。
道路交通のよどみは最たるもので、街中のあちこちで意味のない渋滞が発生しているだけでなく、せっかくスムーズに流れだしたと思えば、街はずれの検問渋滞にひっかかったりする。
この国の人々は、この歪みに慣れきってしまい、改善しようと努力していないのだろう。

安めの個人旅行をするにはあまり向いていない国のようだが、ベネズエラの人の良さは特筆すべきものがある。きつい顔つきをした様々な立場の人々に訳のわからぬスペイン語で話しかけたが、一度も嫌な顔をされたことなどなく、時には愛嬌のある笑みを浮かべながら丁寧に説明してくれた。べたべたしたり、慣れ慣れしいところもなく、その点でキューバ人よりも私好みの人たちだ。(そうは言っても、ベネズエラには旅行者を狙う悪いやつらが沢山いるようなので注意が必要。ちなみに私は向こうから話しかけてきた人は両替業者以外、相手にしていない)

[パナマ]パナマシティ

パナマはUSドルがそのまま使える。ATMからもクレジットカードなどでUSドルが出金可能。底をついていたドルキャッシュを補充した。
ベネズエラにおける苦しい金の縛り(クレジットカードが使えない、キャッシュアウトできない、両替レートのばらつきが大きい、自国通貨の再両替が実質できない)から開放される。

パナマは宿が安い。22ドルで十分すぎるほどの機能を備えた中級ホテルを確保。
私が食べられるレベルの食事も比較的安い。10ドルあれば日本と同等の食事を3食分とれる。今までの不足を取り戻すべく、今日は機内食を含め6回食事した。
しかし、今日もまだ体が動かない。

夜中にクーラーの風が体にあたっていることに気づき目を覚ますと、喉の腫れが顔中に広がったように目の周りを中心に顔が腫れているのに気づき、驚いた。

<2006年11月19日>

朝になって顔の腫れはひいたが、今日はネットと食事以外は出歩かないことにする。

新市街のメイン通りに面したこのホテルの入り口には常に銃を肩からさげた私服警備員がいる。パナマは少なくともカラカスよりはるかに安全な街のようだが、警備員を配置していないと、日中でも銃を所持した強盗に襲われるということだ。しかし、あくびをしながら退屈で苦しそうにしているこのおじさんが簡単に襲われそうな体格をしているのだが大丈夫なのだろうか。

ネットで検索してわかった。風邪ではなくデング熱のようだ。昨晩、肩から背中にかけての発疹を発見してしまい、症状は酷似している。ドミニカ共和国が今年はやり年だと外務省からガイドが出ているのも知った。潜伏期間から考えてドミニカ以降ガイアナまでが怪しい。通常のデング熱であれば発症から5~7日間で治るというから、7日目にあたる明日中に回復するはずだ。

<2006年11月20日>

まだ、喉の腫れがひかず、夜中に何度か目を覚ます。倦怠感も変わらない。
病院のレベルが中米一というパナマにいる間にデング熱であるかどうか診てもらおうと思い、日本の外務省お墨付きの私立病院に向かう。

海外で初めての病院だが、さすがに日本と雰囲気が違う。看護士がほとんどいないことに最も驚いた。ドクター室には一人ずつ女性がいるが、事務職であり診察には一切関わらない。処置は全て医師が行っていた。
日本では考えられないほどの時間をかけて問診、触診を行い、血液検査も受け、最後にデング熱という診断が下されるものだと思っていたが、ただの風邪だという。
『デング熱は自分も今年かかったばかりだし、先週コスタリカから入ってきた女性患者を診たばかりだが、あんたのは違う、あれは高熱が出て苦しい病気だ』
と医師が言う。
『私だって3、4日前までは熱があってかなり苦しんだし、この背中の発疹がデング熱の証拠じゃないの』
納得いかぬ私は食い下がったが彼は次のように説明した。

血液検査の結果がNe%がハイレベルぎりぎりで、LY%が基準値よりかなり低い。これがデング熱患者の場合、それぞれが全く逆の結果になる。仮に治癒して数値が改善したとしてもそんなに急激に変わるものでない。
私は医師の診断を渋々受け入れた。デング熱でないとすると治るのにまだ時間がかかるのだろうか。

月曜の午前中で混んでいるものと思ったが、私は病院に着いてすぐ最初の診断を受けることができた。清潔で広々したロビーなどから、費用が余程高いのだろうと思ったが、診察料は時間をどれだけかけても1日40ドル(診断書込み)、血液検査8ドル、5日分の薬5ドル、お尻に刺された注射はサービスとのことで、保険で請求するのもためらうほどの金額だった。

<2006年11月21日>

雨が多い。パナマに来て毎日どこかの時間帯に雨が降っている。今日は朝から1日中雨。
雷も多い。雷が轟く度に車の警報装置があちこちで鳴り出す。世界のどこでも同じ音を出す車の警報装置はいったい誰が発明したのだろう。誤作動が多いこの装置のために世界中の人々がどれだけ不快な思いをしていることか。

風邪の終盤にみられる咳と痰が多くなってきたが、また目が腫れている。

ベネズエラのカラカスでパナマまでのエアチケットを購入する際、入国時に出国チケットの提示が必要だとして買わされたダミーのチケットを払い戻ししようとしたら、代わりの出国チケットを提示しないと払い戻しできないという。念が入っている。今度は国際バスの出国チケットをダミーで買うことにした。パナマの入国審査官は出国チケットの提示を求めなかったのに航空会社は実にやっかいな事ばかりを要求する。
緩慢な事務作業により航空会社で待ち時間を含めて3時間要し、航空会社やバス会社のオフィスが移転していて見つけるのに時間がかかったため、本日は出国チケット払い戻しのために半日以上費やしてしまった。
パナマを起点にした中米陸路の旅を予定する際は日本でダミーの出国チケットを準備するなどの対策が必要だ。

<2006年11月22日>

体調は概ね回復したと判断してパナマの観光開始。
パナマ運河(航空写真)の閘門(水位を変えるための開閉式水門)に向かう。感動するほどのモノではないが、いつでも船舶の通行が解説付きで見られるようで、一つ一つのしくみに感心させられる。

世界遺産の旧市街歴史的地区(カスコ・ビエホ)や16世紀の街跡(パナマ・ビエホ)は、んーこんなもんかーというレベル。

パナマシティは派手に彩色されたボンネットバスに乗っているのが最も楽しい。車線を頻繁に変え、前の乗用車を煽っているバスが乗客を道端に見つけると急停車する。まるで乗り合いタクシーのような走行をする大型バスは、1時間以上乗っていても0.25ドルで楽しめるのだが、走行ルートが単純でないため、目的地で降り損なうと知っている場所に戻るまで何度もバスを乗り換えないといけないのが難点だ。

(やっと一眼レフカメラで写真を撮り始めたが翌日の件で写真ファイル紛失)

[コスタリカ]パソカノアス(盗難)

昨日、パナマシティの観光は終了したので、コスタリカに向けて移動を開始することにした。
コスタリカの首都サンホセまでの国際バスチケットを所有していたが、あさって25日の席しか確保できていない。このバスはパナマからサンホセ(2年後の2008年訪問まで18時間かかり到着が早朝4時になるというから、病み上がっているかどうかわからぬ状態では仮に今日乗れたとしても避けたいと考えていた。
この国際バスチケットを払戻して、今日はコスタリカ国境に近いダビッドまで7時間のバス移動をしようとターミナルに入った。
払戻すにあたり、今日パナマを発ちたいのだが空きありませんよね、と窓口で尋ねた。すると、ちょうど1つ空席が出たので1時間後に出発できる、と係員が変更の手続きを始めた。このラッキーを生かし、病気によるスケジュールの遅れを少しでも取り戻すか、そう考え国際バスに乗ることにした。

≫続きを表示

トイレ、エアコン、ビデオの付いたバスだが、シート間は狭く乗り心地は悪い。国境前に検問での荷物チェックがあった。バス乗客の全ての荷物をコンクリート地面上に並べさせ、乗客を荷物から離し、検査官が連れてきた犬が荷物の周辺をぐるぐると歩き回る。スペイン語が理解できなかったので、私は他の乗客の見様見真似で行動して、犬が出てきてやっと検査官の意図を理解するという次第だった。
国境に着き、パナマ側の出国手続きで建物内で再びみんなが荷物を並べていく。私の小さな荷物を彼らの巨大な荷物の間に挟むと荷物から離れるよう命じられる。また犬が現われ、しばらく歩き回ると税関検査終了が告げられる。私は自分の荷物を取り上げて真っ先に出国審査の窓口に並ぶ。
出国審査を終えてバスに戻ると車掌が、200m先にコスタリカのイミグレーションがあるから、そこまで歩いて行って入国審査を済ませるようにと、スペイン語で言っているようだった。私はバッグを背負ったまま、暗闇の中コスタリカ側に向かった。

コスタリカ側での入国審査は簡単に済んだが、税関がいつどこでどのように行なわれるのかが、片言の英語を話す人に尋ねても釈然としない。金網で囲まれたスペース内で行なわれるようなのだが、誰も人がいないのだ。
しばらくすると数人の客を乗せたバスが走り出し、コスタリカのイミグレーション前に到着した。そして、バスにチェックインされていた乗客の荷物を出して、金網の中に運び始めた。これでやっとわかった。また、荷物を並べて犬に歩かせるのだろう。私も自分のバッグを大きな荷物の間に並べた。暗い灯りしかない屋外の税関スペースでは、他の乗客たちの荷物に挟まれ、少し離れると自分のバッグの位置が確認できなかった。
コスタリカの入国審査を終えた乗客たちが集まりだし、大きな荷物がまだバスから金網内に運ばれている時、バススタッフが乗客たちのパスポートと税関申告書を集め始めた。申告書に記載漏れがないかどうかを確認しながら集めている。私もバッグの近くを離れ、申告書を提出すると、高額所持品の申告でパソコンとカメラがあるのを見て、これはまずい記載しない方が良いので書き直すようにとブランクの用紙を差し出された。私はその場で書き直して再提出。約5メートル離れた荷物の近くに戻ると私のバッグが置いてあった場所に大きな荷物が重ねられ、更にその上に幼児が腰掛けて近くに寄っても自分のバッグが確認できない。
まずい。完全に数分間バッグから視線をはずしていた。上に載せられていた大人一人が入れそうなバッグを少し持ち上げてみるが、ない、私のバッグが見当たらない。自分のバッグをどの鞄の隣に置いたのかもわからなくなった。現地のバススタッフらしき少年が巨大バッグを運び入れながら、スペースを作るために他のバッグを移動させている。私はその少年に自分のバッグが見つからないのだが、どこかに移動させていないかと尋ねたが言葉が通じていない。車掌をみつけ、彼に一緒に探してもらうが、乗客の荷物が溢れる薄暗い中、探すのは容易ではない。
税関職員が現われ、パスポートの名前を読み上げひとりずつ前に呼び、机の上で荷物を開けさせる。コスタリカは犬歩き回り方式ではなかった。
10m四方ぐらいの金網で囲まれた税関スペースから検査が済んだ荷物がひとつずつ減っていく。私の黒く小さなバッグが埋もれていた荷物の中からひょっこりと出てくるのではないか。そんな簡単に盗難になど遭うものではない。私は淡い期待を抱きながら、税関検査の進行をじっと見守っていた。乗客の何人かが私を気遣い、まだ出てこないのか、あの荷物がそうじゃないか、と声をかけてくれる。

しかし、ついに私の荷物は出てこなかった。

財布、パスポート、中米のガイドブック1冊だけ残されたが、それ以外の荷物を全て失った。私はバスを降り、現場から100mの距離にある警察署に向かった。オフィスには警官が10人以上いたが英語を話せる者はいない。30分ぐらい経ち連れてこられた通訳者は段ボールを寝床とするインテリ浮浪者だった。
彼はバッグの中にクレジットカードが入っていたことを確認すると、まず何よりもカード会社に連絡しろ、と言う。当然私もそれを考え、彼が来る前に何とか国際電話用のテレホンカードを入手するところまでできたのだが、警官に手伝ってもらっても公衆電話でテレホンカードが認識できずに困っていた。私は海外での電話はほとんど成功した試しがないのだ。浮浪者はコレクトコールすればカードはいらないんだよと言い、すぐに電話をかけた。
彼の助けにより簡単に日本のカード会社に繋がり、カード利用停止と共に盗難保険申請のために必要な書類の確認ができた。髭で覆われた細面で、浮浪者独特の臭いを放つ自称ビンラディンは、英語を流暢に話す頼もしい男だった。
国境の警察署という緊張感がなく、警官たちはみな温和な人たちだったが、盗難のポリスレポートが作成されるまでかなりの時間を要し、6時間後の夜中1時にやっと警察署を出ることができた。
浮浪者風の男は警察署からの謝礼として粗末な食事を与えられていたが、私からも礼としてたまたまポケットに入っていた6ドルを彼に渡すと、久々に大金を手にしたようで喜んでいた。近くのホテルまで案内してくれるビンラディンと夜道を歩いていると、彼の身軽な気楽さが理解できるような気がした。
クレジットカード1枚とパスポートはあるので、必要最低限の物を買えば良いだけだ。重い荷物から解放され、手ぶらに近い身軽さを楽しみながら旅を続けようかと考えていた。

ホテルに入りひとりになると疲れがどっと溢れ出てきた。

翌朝、再び喉が腫れあがっていた。普通の風邪だったということだろう。完全にぶり返した。
買い物のため外に出かけ、浮浪者ビンラディンを探した。彼に店を案内してもらい食事でもご馳走しようと考えていたのだ。まず、気さくな警官ばかりがいた警察署を訪れたが、夕べと当直が代わり、みなピリピリとして冷たい対応しかしない。警官から浮浪者の寝床があると教えられた『そのあたり』を探したが、ビンラディンを見つけることはできなかった。

風邪で喉が痛い。現実として受け入れ難かった夕べの事件が、やっと自分の身に染みて感じられるようになってきた。必要最低限の買い物さえすれば旅を続けられるといっても、コンタクトレンズを装着している超ど近眼の私にとって、眼鏡がないのが厳しかった。特殊なレンズでないとほとんど矯正されないので現地購入は困難だ。
さらに冷静に考えるとそんなことよりもPCが盗まれていることが問題だ。PCのパスワードが破られ、日本語がわかる人間に各種情報が盗まれる前にあらゆる手をつくさなければならない。

これからやっと中米の楽しそうな旅が始まるというのに、帰国しなくてもなんとかなるのではないか。駄々をこねる子供の自分との葛藤があったが、私はパナマシティに戻り、ロサンゼルス経由で帰国することとした。

かくして”中米をぐるり”を予定していた旅は”中米をぐ・・”で終わってしまった。

<謝罪と反省>

今回の件は情けないだけでなく、日本人が狙われやすくなるという意味で、今後の日本人旅行者に多大な迷惑をかけたことになります。これからこの地域の旅を予定している方々に深くお詫び申し上げます。

スリナム、ガイアナ、ベネズエラの治安の悪そうな国々では、バスに乗車中も離れる時も常に荷物を抱えるという厳戒態勢で臨んでいました。スリナム、ガイアナはバスといってもマイクロバスやワゴンの狭い座席に詰め込まれるため、膝の上に荷物を何時間も置いていると、歩くのもつらくなるほどの筋肉痛と疲労がありました。
南米と比べかなり安全に感じたパナマの滞在で警戒心が薄れ、中米一治安が良いと言われるコスタリカに向かうバスでは、病み上がりの体に鬱陶しかった厳戒態勢を解除して、休憩中は車内にバッグを置いたまま食事していました。

今回のケースは、税関検査のための網で囲まれたスペースでの出来事とはいえ、夜、屋外で数分間にわたり荷物から離れ視線を外していたという、あまりに初歩的なミスで弁解のしようもありません。今回の教訓による注意点は以下の通りですが、基本的なことばかりで恐縮です。

・いかに安全そうな国、場所であっても貴重品の入った荷物からは一瞬でも視線を外してはならない。
・決して失ってはいけない物を明確にして、それらは常に身につけている。(私の場合、パスポートとクレジットカード以外に眼鏡とPCを失えば旅を終了せざるをえないということが、盗難に遭ってわかった)
・PCをもっと小型にして常時携帯しやすくするか、旅行用PC内のデータを大幅に制限して盗難による影響を小さくする。(私の場合、自宅でメインPCとして使用していたものをそのまま持ち出していたため、パスワードを破られた場合、どこまで被害が拡大する可能性があるかすらわからなかった)
・長距離バスの乗客たちとはできるだけ仲良くなり、一緒に行動することが望ましい。(仲良くなった人の荷物と一緒に置いていれば、荷物から離れても盗難に遭う可能性は低かったと思う)
・現地の言葉はできるに越したことはない。(乗客たちと会話ができ、出入国時のしくみも理解できただろう)

私は海外旅行保険はクレジットカード付帯で十分(旅行期間90日間までの制限あり)と考え、一般の海外旅行保険には加入していない。盗難時には以下の2枚のカードを保有していた。
 ・マスターゴールド
 ・ANAフライヤーズカードVISA(ワイド会員の保険内容と同等)
上記どちらの付帯保険も盗難に関しては限度額30万円(盗難品1個につき限度額は10万円)であったため、マスターゴールドで盗難保険の申請を提出。購入時の合計金額64万円で申請したが、経年減価、減価償却分が差し引かれるため、これでやっと支払金額が30万円の満額に達すると計算していた。他にも傷害保険を申請するつもりだったパナマでの治療費用(約5,000円の領収書が盗難)、メキシカーナ航空のリターンチケット再発行手数料(100ドルの費用が1年後に発生)や5,000円以内の衣料など細かなものや面倒なものの申請は省いていた。

通常、申請後10営業日で保険金が支払われるところ大幅に期間を要したが、審査の結果は期待をはるかに超えるものだった。
認定額が30万円を超えるため、ANAのVISAカードの保険会社と合わせて対応するとして約50万円の支払があったのだ。複数の保険に加入している場合、盗難保険の限度額が合算された金額に引き上げられるのだ。想像もしていなかったルール(手許にある案内や規約の冊子からはそのような記述がみあたらない)により驚きの保険金を受け取ることができた。

送付された支払明細によると、購入後1年未満のPC約17万円が10万円(1個の限度額10万円のため)になっているのが痛いが、購入後1年未満の品が購入費用から10%程度の減額、3年経過した品が50%の減額と予想より低い減額率になっていた。

私の経験より盗難保険を申請する上で重要と思われることを以下に示します。ただし、これは私の勝手な解釈であることを承知の上、参考として下さい。

1.警察の事故証明書(police report)には可能な限り全ての盗難品を記載する
ポリスレポートを書いてもらうまで警察署でかなり待たされたため、コレクトコールで保険会社に保険対象商品の問い合わせをした上で、紙に書き出して盗難リストを作成していた。冷静になって考えればいろいろと出てくるものだ。(しかし、その時も限度額30万円という意識があったため、この程度にしておくかで止めていたが、数冊あったガイドブックや途中で購入した土産品も含めておけば良かった)
そして、警官に嫌な顔されても(私の場合コスタリカの温和な警官と親切な通訳者で助かったが)リストアップした全ての盗難品をポリスレポートに記載してもらうことが重要だと思われる。
盗難時、警察への第一報は迅速にすべきだが、ポリスレポート作成は、一晩おいて自分が落ち着き、時間をかけて盗難品リストを作成して、担当警官に余裕のある時間帯に行なう方が良いかもしれない。

2.購入品の領収書類はできるだけ保管しておく
カメラ購入時に古いカメラを下取りに出すようになってから、購入した電化製品類は全て下取りに出すつもりで保証書類や製品箱をそのまま保管しておく癖がついている。保証書と合わせて領収書は何年も保管していたため、今回多くの盗難品に関して領収書あるいは保証書を添付して申請することができた。衣類など領収書類を添付できなかった品についても減額率が変わらなかったのは、保険担当者の心象を良くした結果ではないかと勝手に考えている。

3.できるだけ事実を正確に申請する
盗難保険は被害者の過失度合に関わらず保険金が支払われることになっているため、正直に事件の状況や所持品の事実を伝えるべき。申請を提出した後、保険会社から盗難時の状況や鞄の形状など細かな追加質問が書面でいくつかあったが、できるだけ詳細に不整合がないよう答えていたので、申請内容がそのまま認定されたと考えている。(これは当然のことなのであまり関係ないかも)

以上、保険のおかげで今回の事件による金額的な被害は最小限に抑えられたが、海外旅行時は高額な品を持ち歩かないようにして、可能な限り盗難に遭わないよう細心の注意を払い続けたい。
(後日談)旅行者の噂では、初回は比較的簡単に保険金が支払われるケースが多いが、2回目以降の申請は審査が厳しくなり支払われる額も予想より減少するそうだ。盗難保険の利用は最初で最後にしよう。

中米をぐるりのまとめ

観光旅行という意味では収穫の少ない旅となりましたが、敢えてまとめます。
他人にお薦めできる観光地は、観光地ランクで星3つのカンクン(チチェン・イツァー)、メリダ(ウシュマル)、カナイマ(エンジェル・フォールズ)の3つだけです。
上記も含め、旅をして良かったと感じ幸せな気分になれたのは以下の3つです。

  1. カナイマ(ベネズエラ)の集落を散歩して熱帯の様々な自然に触れた時
  2. キュラソーで心地良い風にあたりながら地元の人々と浮き橋を渡っている時
  3. トリニダー(キューバ)の小さな町を温和な人々と触れ合いながら探索している時

また、盗難と長引いた風邪という災難に遭った旅でしたが、それら以外につらかった事は以下の3つです。

  1. ベネズエラでの宿探し(特にカラカスに着いた日に1件も空部屋をみつけられなかったこと)
  2. ベネズエラでの現金コントロール(カードが使えない、両替可能な場所に偏り、レートのばらつき大)
  3. 長期間にわたり蚊に刺され続けたこと

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください