[ガーナ]クマシ
<巨大マーケット前のケジェティア・サークル(航空写真)>
ガーナの首都アクラの北200km、18世紀アシャンティ王国の首都であったクマシが最初のマイナースポットとなる。
アシャンティ王国関連の博物館や王宮などは評価のしようがないレベルなのだが、西アフリカ随一とも言われる広大なマーケットとその周辺は圧巻。
美しさと活気に久しぶりに興奮してしまった。
1番上の写真はケジェティア・マーケット前の広場で、この反対側に何倍もの広さがあるブリキ屋根に覆われたマーケットがある。
それにしても何でも頭の上にのせる人たちだ。現金と子ども以外は全て頭の上にのせているのではないかと思えるぐらい。
狭い場所を移動するのには便利かもしれないが、頭上の売り物が簡単に盗られそうで防犯上の問題はないのだろうか。
市場内を歩いてみると危険はあまり感じない。理由のひとつはイスラームのスークのような体の密着や接触がないことだ。頭上に大きな荷物を抱えているため、体が触れ合うほど接近できないのだろう。また、私が安宿の部屋にかける鍵を探していたのだが、売り子たちに話しかけると皆穏やかに対応してくることから安全なのだろうと思った。(結局、鍵はみつからず。その後も鍵に不安のある部屋に泊まっていたが盗難には遭わなかった)
しかし、カメラをバッグから取り出すと周囲の様子は一変する。カメラを手に持っているだけで鋭い視線をあび、脅迫めいた声がかけられる。遠くの群集に向けてなのだがファインダーをのぞき込もうものなら、周りにいる人たちから攻撃的な態度を取られ、その場を離れざるを得なくなる。
そのため、マーケットのはじにある4階建ての屋上に上らせてもらい、人々の気にならぬよう、街の風景としての群集を撮らせてもらった。しかし、アップで撮影している時、母親に背負われた幼児に気づかれてしまい、不信を表す視線を向けられていた。(すぐ上の写真)
博物館ではスタッフがガイドしてくれるのだが、子どもたちが館内に入ってきて私と一緒にガイドの説明を聞きながらノートを取り勉強している。小学高学年ぐらいの女の子3人は熱心に説明を聞くあまり、私の前に割り込んでくるというかわいらしさもあった。
次の観光客が来るのを入口で待つ彼女たちから快諾を得て写真を撮った。無愛想な表情から喜んでいないような気がするが、決して嫌がっていたわけではない。
昨日、アクラの街中を歩いていた時、スコールに遭った。商品が引き上げられた路上屋台の狭い軒先を借り、バッグにカバーをかけたり傘を出したりしているうちに雨脚が強まり身動きできなくなった。車すら動きを止め危険を感じる滝のような雨の中、ひとりの老人がパラソルを差して私の近くに寄ってきた。そして、そんなところに立っていないであっちで雨宿りしなさいと200メートルほど先の倉庫を指す。強風を伴った雨で鞄の中にも雨が浸み込み始めていたところなので助かった。
大型の倉庫に入ると大勢の人々が床やベンチの上に腰掛け雨が上がるのを待っていた。暗闇の倉庫内でもたもたしていた私に、老人は先客を移動させてスペースを作り、私に座って待つよう促してくれる。それから雨は何度も強さを増し30分は続いた。この倉庫の主である老人にはいくら感謝しても足りない。
自分の目の前に困っている人を見つけた時、積極的に手を差し伸べ助けてあげる、それが本当の親切だと感じた。
クマシでも午後3時ごろ急に雲行きが怪しくなりスコールになった。2mぐらい張り出した軒先の下、じっくり待とうと段差に腰掛けると背後から大きな声がかかった。てっきり怒られたのかと思ったら、その男はそんな所でなく中に入って座れと、自分が腰掛けていた長椅子にスペースを作ってくれた。暗がりの屋内スペースは倉庫兼事務所として使われているようで、業務用ペンキ缶が積み上げられ、男は売上の計算をしていた。スコールが本格的になると軒下は吹き込む雨で完全に水浸しになり、通行人たちが大勢倉庫内に入ってくる。
そして30分後、雨が小降りになり、雨宿りしていた人たちは男に礼を言って外に出ていく。主は礼を言われても、顔も上げずにぶすっとしたまま電卓を叩いている。雨宿りしていた人が倉庫の品を持っていってしまう恐れはないのだろうか。
見知らぬ人への親切が当然のように行なわれている国では、犯罪など起こらないのかもしれない。
ガーナ人は無愛想でも、とても親切なのだ。
[首都]アクラ、 [通貨]セディ(2008年11月, 100セディ=約1円)
[公用語]英語、 [宗教]キリスト教45%、イスラム教15%、伝統宗教40%、
[入国ビザ] 必要、日本でマルチエントリービザ取得(1万円、シングルは8千円)
[歴史/概要]
15世紀にポルトガル人が渡来、金が豊富なことからゴールドコーストと名付けられ、その後デンマーク、オランダ、イギリスなどの進出が続き、金と奴隷貿易の拠点となる。当時の要塞がエルミナやケープコーストなどに残る。17世紀後半にアシャンティ王国が奴隷貿易で繁栄するが、のちにイギリスに敗れ植民地となり、1957年に独立。
ガーナ南部は熱帯気候で年間を通じて21~32度とそれほど暑くない。11月から2月が乾季で他は雨季。日本人にはカカオの産地として有名。黄熱病の研究をしていた野口英世博士は1928年にアクラで亡くなる。第7代国連事務総長のアナン氏はクマシの出身。
日本からアフリカまでのチケットに関して、西アフリカだけであれば日本発で1ヶ月FIX16万円程度からあるが、そこに東アフリカをプラスして更に1ヶ月を超えるとなると30万円以内も難しい。そこでマイレージで日本から香港までのチケットを取り、ケニア航空のサイトで香港発アクラIN、バマコOUTのチケットを購入(3ヶ月有効で料金1,750ドル、香港の旅行会社サイトで購入するより手数料分ぐらい安い)してナイロビでストップオーバーするという方法を取った。香港以外ではバンコク発があり、こちらは1,580ドル。その他、西アフリカIN、ナイロビOUTや南アフリカIN、ナイロビOUTといったオープンジョーも可能。日本発の香港やバンコクへの格安チケットと組み合わせれば有効なのでは。
≫≫(後日談)特に大きな問題なくフライトでき、機内のフライトアテンダントは明るく、旅行会社を通さずネットだけでチケット購入できる気軽さから、ケニア航空は機会があればまた利用したい。
[ガーナ]アクラ
<マコラ・マーケット>
アクラ最大のマコラ・マーケットも美しい。そして、頭上に様々な荷物をのせる技は雑技団なみに見事だ。荷物を頭にのせた女性が笑う時、腰を艶めかしく横に揺らしながらも頭は全く動いていないのに驚いた。まるで、高層ビルの免震実験を見ているようだった。
上の写真よりも何倍も美しい光景がマーケット内に入ると見られるのだが、私の度胸ではとても撮影できない。(いや、度胸の問題でなく、少なくとも一人だけで撮影していれば何かしら被害があるでしょう)
興味を持った方はぜひ見に来て欲しい。今はオフシーズンということもあるのか旅行者を全く見かけないのだが、多くの外国人が観光で訪れるようになり、誰もがカメラを手にしている旅行者の姿を見ているうちに地元の人々のカメラに対する異常な警戒心が和らいでいくと思う。
<姉の足につかまる女の子>
撮っていいかと尋ねると親は喜んで応じてくれたが、子供は冗談じゃないと向けられたカメラを見て泣き出してしまった。撮影が下手なためかわいらしく撮れていないが、みつ編の似合う愛嬌のある幼児だった。
ガーナ入国4日目にして、西アフリカ5ヶ国共通ビザ(コートジボワール、トーゴ、ベナン、ニジェール、ブルキナファソの5ヶ国)と比較的難関と言われるナイジェリアのビザの取得に成功した。旅慣れた人にはたいしたことないと思われそうだが、私は海外において空港や国境以外でビザを取得したのはこれが初めてなのだ。
ガーナ到着後、空港からナイジェリア大使館に直行してビザを申請すると、招請レターや身元保証書、医療診断証明書がないと受け付けられないとぶつぶつ言われる。しかし、私の場合、イエローカードのコピーを証明書代わりに提出することで許された。ただし、大使館内のコピーは金を払っても利用することができず、500m以上離れたコピー屋まで炎天下歩かなければならなかった。(他にパスポートのコピー、写真1枚を提出して20ドル支払う)
人によって様々な対応で嫌がらせを受けるようなので、私のように荷物全て抱えて出向くのは避けるべき。ビザ受取は申請の2日後の午後2時から3時。
5ヶ国共通ビザはネットで入手した情報通り、アクラのトーゴ大使館で容易に取得できる。ナイジェリア・ビザを取得した翌日の午前中に申請すると当日午後2時から3時発給だった。
ただ支払いが3万CFAフランで他通貨では受け付けられないことが要注意。だが、ネット情報によると逆にドル支払のみしか受付けられないケースもあったようで、レートで対応が変わるのか申請者がCFAフランを所持しているかどうかで支払い通貨を変えているのかは不明。
私の場合、CFAフランを所持していなかったので、大使館守衛に不当なレートでの両替を余儀なくされた。
[ガーナ]ケープ・コースト
<ケープコースト城から漁港周辺の眺め>
アクラからバスで2時間強(区間ルート)で着くケープコーストはクマシに並ぶガーナではメジャー観光地。ここに来てやっと街中を歩く白人旅行者を見かけるようになった。海からそよぐ風が実に心地よい。
アクラより人は多少荒れているが、それでもアフリカでは考えられない穏やかさ。これで美味い飯があれば、何日か滞在したくなりそうな場所なのだが...。
<ケープコースト城>
世界遺産のケープコースト城は予想通りたいしたことがない。ブラックアフリカ(北アフリカとエチオピアを除く)では、マリのジェンネとドゴン以外の文化的遺跡や施設は世界的観光地としての(あくまで私個人の)レベルに達していないと考えている。
しかし、この海岸とアフリカらしい漁港やマーケットを安全に観光できるという点からはお勧めのスポットと言えるかもしれない。
[ガーナ/コートジボワール国境]Elubo-Noe
ケープ・コーストからアビジャンまで(ルート)乗り合いタクシーとワゴンを乗り継ぎ容易に国境通過。
≫国境越え詳細- ケープコーストのpedu junctionから乗り合いワゴンで1時間30分でタコラディ(takoradi)、別の乗り合いワゴンに乗り換え2時間20分で国境のエルボ(Elubo)。(区間ルートはこちら)
- ガーナ出国時税関なし、出国税、賄賂要求なし。
- ガーナのイミグレーションからコートジボワールのイミグレまで炎天下1km近く歩く。eluboのバスターミナルからずっとイミグレ間タクシーの客引きがしつこかったが、料金に納得すれば乗ってもいいかも。
- コートジボワール入国時、税関なし、入国税、賄賂要求なし。入国カード記入も不要で実にあっさり。うるさいのはタクシーの客引きのみ。
- 国境のノエ(Noé)からアビジャンまで、乗り合いタクシーでとばして2時間20分。(区間ルートはこちら)
ガーナの移動でお尻が痛くなっていてボロプジョーには乗りたくなかったので、日本でも走ってそうな程度の良いプジョーを選んだ。トラックが60kmぐらいで走り自転車や歩行者の往来も多い一般道をときに140kmも出していた。その恐怖たるや、砂の浮いた一般道を140kmで強引な追い抜きを繰り返していたイランの長距離タクシーを思い出させる。
[首都]ヤムスクロ(最大都市 アビジャン)、 [通貨]CFAフラン(2008年11月, 1CFAフラン=約0.18~0.2円)
[公用語]フランス語、 [宗教]イスラム教30%、キリスト教10%、伝統宗教60%
[入国ビザ] 必要、アクラで5ヶ国共通ビザ取得(3万CFAフラン)
[歴史/概要]
15世紀にポルトガル、イギリスなどが来航、象牙や奴隷を買い付けていたため、象牙海岸(仏語でコートジボワール)と呼ばれる。19世紀にフランスの植民地となり、1960年に独立。2002年9月に内政の混乱から国を二分する争い(コートジボワール内戦)となり、現在も北部は反政府勢力に支配され、西部は部族対立が根強く残り、国内の多くの地域に外務省から退避勧告が出されている。
産業はカカオ、コーヒーをはじめとした農業以外に鉱工業が盛んで、「西アフリカの優等生」と言われるほど独立後は順調に経済が発展した。昔からヨーロッパ人が多く住み、農産物も豊富なため美味しい食べ物が多いと言われている。
[コートジボワール]アビジャン
<通りに面した机で勉強中のお子さんたち>
短期間の滞在でいいかげんなことを言うものではないが、アビジャンは、安全だと言われるガーナよりも体感危険度が低く(あくまで旅した2008年11月時点のことです)、ガーナなみに親切な人がいる。
例えばTreichville地区の路地をうろついていた時、おばちゃんが怖い顔で言いがかりをつけてくるので無視していたが、あまりにしつこいのでフランス語をゆっくりと話してもらうと「何を探しているのだ」と親切心だけで何度も尋ねていたことがわかる。
コートジボワールは国内の北部も西部も外務省から退避勧告が出ているのでガーナに近い南東部のアビジャンだけと決めていたが、これだけ明るく親切な人たちに会ってしまうともっと別の都市も行ってみたくなってしまうくらいだ。
<小さなマーケット内の八百屋>
≫続きを表示<サン・ポール大聖堂(2枚組、マウスをのせると二枚目写真に切替、航空写真)>
アビジャンの観光はサン・ポール大聖堂(聖パウロ大聖堂)と博物館、あとはマーケットぐらいしかなさそう。ところが、今日は日曜日でほとんどの店が閉まり、博物館も休み。聖パウロ大聖堂(Cathédrale Saint-Paul d’Abidjan)は結婚式の終了直後に中を拝見することができたが他に見る物がなく、ガイドブックに載っている市内詳細地図のほとんどのエリアを歩き回った。
さらに日中でも襲われるからこの橋だけは歩いて渡るなと言われている区間をタクシー(タクシーは安いのでお勧め)でなくバスにも乗ってみた。
バス車内の空気が重く、緊張しながら乗車すると、おばちゃんたちが大声で叫んでいる。何かと思うと運転手からチケットを受け取るよう教えてくれていたのだ。また、車内で立っている時、財布の入っている尻を触られビクッとして振り向くと、席が空いたから座れよとぶっきらぼうに男が合図していた。
結局、バスに乗っていてもみんなに気遣いされるだけだった。
ロンリープラネットに載っている中で最安値のHotel Terminusが18,000CFA(約3,600円)で大幅な予算オーバー。他に掲載されていた2つのBugetホテルは閉鎖中。安く安全に泊まりたい場合は、他のサイトで最新の情報をチェックしてから来るべき。(というのが私からの安宿情報でした)
ちなみにHotel Terminusは安全、親切、清潔で部屋はトイレ及びエアコン付き過剰設備で問題ないのだが、目の前がバスターミナルのため、深夜だけでなく早朝もうるさい。
<参考図書>Lonely Planet West Africa (6th Edition)=>最新版 West Africa (9th Edition)
- ガーナと比較すると写真撮影に対して寛容で撮れないことはないが、ここはダメだとか金出せとかうるさいやつはいるので疲れる。
- ガーナのパンは意外と美味いと思っていたが、アビジャンのフランスパンはもっと美味く、日本のパン以上。(日本のフランスパンはなぜあんなにも不味いのだろう)
路上でパンと卵を置いている屋台では、オムレツのサンドイッチを作ってくれる。また、そのパン屋台の鍋やパックにジャガイモとたまねぎの煮付けやゆで卵、魚のペーストなどが入っていて、好きな具をフランスパンに挟んでもらい1食分が百円前後。これが、今回のアフリカの食事では今のところナンバー1。 - 乗り合いタクシーの運転手に分けてもらって焼きバナナを初体験したが、これはかなりいける。酸味のあるサツマイモという感じで、焼き芋ほど甘すぎず喉につまらないため食べ易い。なぜ今まで試さなかったのだろうと後悔する。これから毎日食べよう。
=>(後日談)焼きバナナの味はバナナの品質や焼き方によって大きく異なる。コートジボワールで食べたような感動的な焼きバナナにはその後二度と出会わなかった。 - アビジャンは英語が比較的よく通じる。旅行直前の復習で仏検3級なみの会話力に戻したつもりのフランス語は相手のなまりのせい(?)かほとんど役に立っていない。
- 国境とアビジャン間を直行する乗り合いタクシーは客が3人だけでセダンに運転手を合わせて4人乗車(往復とも)。アフリカでは考えられない贅沢。(近距離の乗り合いタクシーはボロプジョーに大勢の客が詰め込まれていた)
- 旅行者が少ないせいか安宿が少ないようだ。また、街を歩いている時、外国人である私に対する注目度が高すぎ。
- アビジャンから国境方面に50kmほどの位置にあるGrand Bassamは、行き帰りの車から眺めた限り立ち寄っても良さそうな所だ。(帰国後にガイドブック「旅行人」を読み、ここが貴重な観光ポイントだと知る=>「グランバッサム歴史地区」は2012年世界遺産登録)
<参考図書>アフリカ―アフリカ大陸37カ国ガイド (旅行人ノート) - コートジボワールは治安が維持され旅行者が増えたころ、ぜひもう一度訪れたい国だ。
- マイナースポットをゆく(西アフリカ編/東アフリカ編)のまとめ
[ガーナ]エルミナ
<砦跡からエルミナ漁港の眺め>
アビジャンから一気にトーゴまで(区間距離700km以上)行くのは少しタフで、どこかで一泊したかったので世界遺産の城砦があるエルミナに立ち寄ることにした。
天気が良ければ海岸線が美しいのかもしれないが、厚い雲がたちこめていて景色を楽しむことができなかった。世界遺産だから半日かけて観光してもいいかなという程度。
ただ、愛嬌のあるお子さんが多く、道を歩いているとあちこちから声をかけられ、地元の人たちと心地良く触れ合える。マイナースポット好みには受ける町かもしれない。
<町のお嬢さん(うまく撮れなかったので2枚組、マウスを重ねると写真切替)>
<ガーナめも>- 煙草を吸う人をみかけない。
- どの町でも、たとえ夜出歩いても(たまたまなのか)危険を感じることはなかった。
- ガーナ人は帽子をかぶらない。サングラスもしない。
- 外国人向けレストランの食事は食べられるが、人に食べさせることを意識して味付けしているとは思えない。スリランカよりはまし、フィリピン程度か。
- 公用語は英語だが、彼ら同士の会話に英語は使われていない。アクラからクマシまでのバスで運転手から注意事項を説明する際、英語を使わず2つの現地語で別々に説明していた。話しかけた人はみな英語が通じたが、人によっては独特の発音によりヒアリングが難しい。
- トロトロと呼ばれる乗り合いワゴンは定額制。始発では窓口でチケット購入。途中で乗って車内で支払ってもごまかそうという気はほとんどない模様。
- 最初、タクシードライバーの言い値がガイドブック上の料金より高くふっかけられていると思い、とろとろ走るトロトロで移動して時間を無駄に使っていた。しかし、ガイドブック表記より値段が上がっているだけでタクシーの料金をふっかけてくるドライバーはかなり少ないということが後からわかった。大使館へ行くなどの市内の移動は、それほど高くないのでタクシーを使った方が良さそう。
- 乗り合いミニバスの呼び込みが楽しい。アクラ市内の中心行きはアメ横の売り子のようにしゃがれた低音で「サークル、サークル、サークル」と早口に叫ぶ。アフラオ行きがあと一人で満席出発の際は、「アフラオ、アフラオ、アフラオラストワン、ラストワン」とミニバスターミナル外の路上市場にまで出ていき、アフラオ方面に用のない客であろうと捕まえてきてやろうかという気合で呼びかけている。
- 路上売りでも何でも料金をごまかす気は全くなさそうだということがわかってきたので、買い物をする際、掌にコインを並べて彼らに取らせれば良いので楽。(現時点での状況で将来変わるかもしれないので注意)
- 現地人を含めた街の写真を撮るならば、複数で歩いてお互いを撮る振りをするか、現地ガイドを付けた方が良いと思う。
- ホテル代、乗り物代ともに最新のロンリープラネット西アフリカ6th Editionの2、3割増しが目安。
- ガーナの嫌なところは、大都市での渋滞。特にアクラではどこに移動するのにも時間がかかる。また、アフリカ全般に言えることだが、大人からのチャイナ攻撃がひどく、慣れているつもりの私でも毎日「チャイナ!」「チャイニーズ!」と怒声を浴びせられていると苛立ってくる。
- 結論として、西アフリカの雰囲気を安全に楽に味わうのには、貴重な英語圏であるガーナはお勧めかも。
- マイナースポットをゆく(西アフリカ編/東アフリカ編)のまとめ
[ガーナ/トーゴ国境]Aflao-Lome
夜でも難なく通過。
≫国境越え詳細- アクラから国境のアフラオまで(この区間ルートと距離)乗り合いワゴンが飛ばしに飛ばして3時間強。
- 19時過ぎ(国境でビザが取れるがアライバルビザ発給は17時までなので要注意)の暗闇でも国境を往来する人は多く、食べ物や両替の路上売りが多く出ていて体感危険度は低かった。
- ガーナ出国時、税関チェックなし、出国税等なし、軽い賄賂要求あり。(ノー1回で済み)
- トーゴ入国時、税関チェックなし、入国税、賄賂要求なし。
- イミグレーションを出たところにバイクや車のタクシーがたむろしていて、それほどふっかけられずに市内へ移動可能。
[首都]ロメ、 [通貨]CFAフラン(2008年11月, 1CFAフラン=約0.18~0.2円)
[公用語]フランス語、 [宗教]キリスト教23%、イスラム教10%、伝統宗教67%
[入国ビザ] 必要、アクラで5ヶ国共通ビザ取得(国境でアライバルビザ取得可能のよう)
[歴史/概要]
16世紀以降は奴隷海岸の一部として知られ、19世紀まで奴隷の供給地となる。1885年ドイツ保護領トーゴランドと宣言されるが第一次世界大戦に英仏による分割統治となる。英領がガーナの一部として分離され、1960年に仏領がトーゴとして独立。
ドイツが宗主国であったため古くから生ビールが飲まれ、ソーセージが美味しいといわれる。
人口650万人ほどの小国ながら、2006年にサッカーのワールドカップ出場。
[トーゴ]ロメ
<ロメ中心部付近の海岸(航空写真)>
風がそよぐロメのビーチは心地良い。砂浜以外ほとんど何もない景色、そして所々で強い糞尿の臭い、アフリカの典型的な海岸という気がする。
街の中心に教会が2つあるのだが、あまり大きくない。博物館は国の大きさに合わせたかのように驚くほど小さい。
<大聖堂とグラン・マルシェの売り子たち>
≫続きを表示<中心部の教会(裏に不気味な動物頭蓋骨の写真あり、クリックで表示)>
ロメはある程度危ないらしい。ホテルのスタッフが貴重品を持ち歩かず、夜遅くなったらすぐ近くでもバイクタクシーを使うようにと忠告する。
夜8時にホテル周辺で食事する場所を探していたら、娼婦に絡まれ、太い腕でがっちり押さえこまれてしまった。確かにこれは要注意だ。(娼婦、物乞い、子供などに体を触られたりつかまれたりするのは危険の兆候)
昼でも1人で歩くのは危険だという海岸以外、ロメにはこれといった見どころがない、とガイドブックに書かれているので、あやしげな呪物市場に行ってみた。テニスコート2つ分ぐらいのエリアに動物の皮、頭だけ、小動物は体まるごとが干物のように並べられ、強い日差しにさらされている。(上の写真上でクリックすると写真表示)
カエルやネズミぐらいならまだしも、猿やバッファロー、ひょうなどの頭も数多く並べられ、野生動物保護上おおいに問題あるのではないだろうか。撮影代込みで約1,600円(ガイドブック上は2,000円)という法外な入場料を徴収しながら、最後にいいかげんなおまじないをかけて、これを買わないとこれからのアフリカ旅行に不幸が起こると様々なお守りを売りつけてくる。賢明な旅行者は行くべきでない。(ちなみに小心者の私は言い値の10分の1以下である1個百円でお守りを購入したので今後の旅は万全)
他に行くところがなくなり中心部のグラン・マルシェ(大市場)を歩いたら結構楽しめた。ガーナのアクラ、クマシと比べ規模はかなり小さいが、売り子たちの頭上に積み上げる商品の量が多くそして高く、人やバイクがあたってきたり、あちこちで小競り合いがあったりなど、ガーナよりも刺激的。
<参考図書>Lonely Planet West Africa (6th Edition)=>最新版 West Africa (9th Edition)
- ガーナ、コートジボワールになかったバイクタクシーが出現したのは驚き。乗り合いタクシーとかに乗らずに済むのは楽だが、お尻が痛くなる悪路が多く、信号を守らずに突っ込むので急ブレーキも多い。
- ここでも路上サンドイッチ屋があるが、ガーナ、コートジボワールに比べてちょっと不衛生。でも美味かった。
- ネット屋は多く、簡単に自分のPCが繋げられたが、快適な速度でないのに1時間200円は高い。(1時間1ドルが世界の標準価格と思っているので)
- 英語は比較的よく通じるがダメな人は全くダメなので、カタコト仏語ができた方が楽。(入国時のイミグレ係官は全く英語を話そうとしなかった)
- 脇道に入ると砂の道が多い。バイクタクシーのドライバーは帽子をかぶっている人は多いが、サングラスをかけている人は少ない。砂の舞う道を毎日走り、目を悪くしないのだろうか。
- 結論として、特に楽しいことはトーゴになさそうだが、人は概ね良いようなので、1日2,500円(宿1,000円、飲食費1,000円、他500円)で1ヶ月くらいなら生きていられるかも。
- マイナースポットをゆく(西アフリカ編/東アフリカ編)のまとめ
[トーゴ/ベナン国境]Anecho
小国同士の国境なので楽に通過。
≫国境越え詳細- ロメから国境の町アメホまで乗り合いタクシーで2時間。区間ルートをみると50km弱だが、ルート後半は未舗装の悪路だった。
- トーゴ出国時、税関、出国税、賄賂要求なし。カード記入も不要で係官が台帳に記入。
- 両国間のイミグレーション(出入国審査場)近い。(荷物が重くなければ越境直通タクシー不要)
- ベナン入国時、税関、入国税、賄賂要求なし。カード記入不要でトーゴよりも詳細な内容を時間をかけて係官が記入。
- 国境からウイダーまで(区間ルート)乗り合いタクシー1時間。
[首都]ポルトノボ、 [通貨]CFAフラン(2008年11月, 1CFAフラン=約0.18~0.2円)
[公用語]フランス語、 [宗教]伝統的宗教65%、キリスト教20%、イスラム教15%
[入国ビザ] 必要、アクラで5ヶ国共通ビザ取得(3万CFAフラン)
[歴史/概要]
17世紀に成立したダホメー王国は奴隷貿易で繁栄するが、1894年フランスによって征服される。1960年に独立後、一時、社会主義国にもなるが、1990年からベナン共和国として現在の姿になる。
国民の大半が農業に従事して綿花、トウモロコシなどを生産。海底油田の開発は停滞しており、石油製品の大部分を隣国ナイジェリアに頼っている。ヴードゥー教はベナンが発祥といわれ、1992年にベナンの国教となる。オフィス北野所属のゾマホン・ルフィンはベナン大統領特別顧問(ゾマホン氏関連のwebサイトはベナン情報事前チェックに必須)。さんまのからくりTVに出ていたアドゴニー・ロロの出身地。
[ベナン]ウイダー
<路上の売り子(かわいらしく撮れなかったので2枚組)>
緑が美しく小さくまとまった町は散歩してもバイクタクシーに乗っても気持ちがいい。これで観光資源が充実していればお勧めできるスポットなのだが。
観光ポイントになっている博物館と聖なる森は、どちらもこんなの見るために外国人観光客来ないでしょうというレベルなのだ。
美しい女性やかわいい子供も多く、挨拶を交わしながら楽しめる。しかし、写真を撮っていいかと尋ねると初日は見事に全て断られた。
2日目の朝、静かな通りにぽつんと店をだしていたおじょうさんが愛想良く応じてくれた。
10ドルのホテルは部屋の床のあちこちで土が堆積して、様々な虫が入り放題の隙間がある。さらにマットはよれよれでかなり厳しいものがあったがスタッフは親切だった。
彼は最初から何かと世話を焼いてくれていたのだが、水を買いたいと尋ねると2ブロック先のBarで買えると言い、わざわざ一緒に付いてきてくれた。百円の水だが2千円分の紙幣を差し出すと釣りがないから売れないと断られる。客が頻繁に出入りしている店でそのくらいの釣りがないはずないのだが、この町では博物館も路上売りもバイクタクシーも全て釣りを断ってくる。
最初にホテルに連れて来られたバイクタクシーの代金はホテルスタッフに立て替えてもらい、さらにホテルで小銭に崩してもらった。しかし、街の人たちがみな釣銭を拒むのでその小銭を全て使い果たしてしまったのだ。他に水を売っている店はなさそうで、水なしにあの部屋で一夜過ごすことはできない。
慌てずじっくり構えていれば誰かが動いてくれるだろう、私はそう思い、別の客の相手をしている店員を待っていた。そうするとしびれを切らしたホテルスタッフが自分のポケットから百円出して、ほら貸してやるよと渡してくれた。何度も小銭借りて悪いね、にいちゃん。
翌朝、どこで金を崩せるか彼に尋ねると、バイクタクを呼び、私をある場所に連れて行くよう指示した。町の中心部に近い民家で降ろされ、ドライバーが声をかけると、バッグを抱えたおばさんが現れる。大きめのバッグには小銭が沢山詰め込まれていて、50円分の手数料を取り二千円札を細かくしてくれた。そして、彼女は欲深そうな目で睨み「もっと両替しなくていいの?」と言う。
この町の小銭は全てこのおばさんに集められているのだろうか。
<聖なる森近くの雰囲気のある並木道>
[ベナン]アボメイ
<マーケット近くに店を出す家族(2枚組)>
この国へ観光で来たならばぜひ訪れるべき町と言われるだけあり、ヨーロッパの観光客も多く見かけたが、大した見ものはない。世界遺産アボメイの王宮群(航空写真)は撮影禁止なのでつまらなさを紹介できないが、遺跡の庭園や周辺の緑が美しいのでもう少し磨けば外国人観光客が満足できるレベルになるかもしれない。
≫続きを表示<大きな教会に家族毎お揃いの服を着た人々が集まる>
マーケットがあり、ほとんどの道がアフリカらしい土の道で、アフリカ好きの私には悪くない町だ、しかし、アクセスで疲れ、ホテルで眠れず、食べる物があまりなかったので印象は良くない。
コトヌーからアボメーまで(区間ルート)の移動は、アフリカによくある助手席2人後席4人の詰め込み乗り合いタクシー。時間が短くてもやはり苦しい。更に道が悪く粉塵が怒涛のように顔を襲い息ができなくなる。
ウイダーからコトヌーまで(区間ルート)のタクシーは定員乗車だったのでアフリカも変わってきたのかなと思った。女性をはじめアフリカ人の体格が大きくなってきているのだから各シート定員+1はそろそろやめてもらいたいものだ。
ホテル近くの広場は早朝まで音楽でうるさかった。そのうち止むだろうと耐えていると大音響が延々と続き、4時ごろ隣の部屋の客が大声で話しながら帰ってきて朝5時には音楽が止んだようだ。しかし、すぐに朝の7時から大音響の音楽が始まる。周辺に民家はいくらでもあるのに苦情がないのだろうか。
ベナン人の耳はどうかしている。
[ベナン]ポルトノボ
<ホテル隣の集落とラグーン(航空写真)>
大都市コトヌーは雑然として、バイクが多いため排気ガスが酷い。信号が変わると、ブンブンブンブーンとバイクが一斉にアクセルをふかして車の間の隙間を埋めながら二車線の道いっぱいに広がり、更には歩道にも溢れだす。蜂の大群が車や人を飲み込んでいくようだ。
コトヌーに泊まる気がしなかったので、ナイジェリアとの国境に近い首都ポルト・ノヴォまで移動。渋滞で到着が遅くなり、博物館や植物園らしきものがあったのだが閉まっていて観光できなかった。
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ポルトノヴォのホテルは恐ろしかった。シャワー及びファン付でトイレ共同の部屋なのだが、2つの空き部屋のうち、ひとつは手洗い用のシンクが室内で崩れ落ちたままになっていて、もうひとつはシーリングファンが壊れて外されていた。スタンド式扇風機があるというので、その部屋にしたのだが確認不足だった。
すぐに網戸の大きな穴に気がつき補修するよう要求したが、窓を閉めればいいじゃないかと言われ納得してしまった。ひと晩中扇風機を回していればいいかと思ったが、スタッフが持ってきた扇風機はカバーがなく羽が剥き出しで回り、危険で今にも外れそう。さらに、首が落ちないように紐で固定されているので首を振ることができない。その程度はまだ我慢できるが、部屋の扉のノブが内側も外側もネジが留まらず取り外し可能になっている。これで鍵を閉めて、施錠の意味があるのだろうか。
食事を終えて戻ってくるとまだまだあった。室内の電灯が3つあるうちひとつしか点かず豆電球なみの暗さだ。1階の道に面した部屋なのだが、カーテンが窓の半分しか覆っていない。どうせ暗い室内だからあまり問題ないか。一番の問題はシャワーが飾り物だったことだ。シンクで水が出たのでチェックを怠ったが、シャワーヘッドのネックがポッキリ折れているのには気づかなかった。蛇口からは水がちょろちょろ出て、近くにバケツが置いてあるのでこれに溜めて体を洗えば問題ないではないかということなのだろう。
アフリカ人は、車や電気製品などがどんなに古くても修理して使い続ける執念があるが、直さなくてもなんとかなるものは、たとえ簡単な修理で済むものでもそのまま放置する傾向にある。より快適により安全にということを求める人が少ないのだろう。
<ベナンめも>
- 人はコトヌも含めて良さそう。親切さを強く感じることは少なかったが、逆に今までの国よりも私の存在を過剰に意識するということがない。(シノワ攻撃も少ない)
- トーゴでも多かったバイクだが、こちらベナンの方は排気ガスが白く、目,喉への刺激が強く耐えられない。
- 喫煙者は皆無。(ベナン人は喫煙者を信用しないとのこと)
- ウイダー、アボメイの地方都市ではまともなレストランを見つけられなかった。ガイドブックに載っていた店は存在しないか閉まっている所ばかり(ロンリープラネットの情報が古すぎ)で人に聞いてもそれらしき店がみつからない。路上サンドイッチ屋も非常に少ない。あるのは飲み物しか出さないBar&Restaurantと路上で汚い容器に白いご飯を入れ、得たいの知れぬ汁や具をかけるぶっかけご飯屋。白いご飯が苦手な私はたぶん最後までこれには手を出さないだろう。よって、フランスパンとフルーツのみだったりする。(ところが後で白ご飯汁かけと屋台物を食べることになる)
- ベナンで焼きバナナをみかけなくなったのだが代わりに美味いものをみつけた。右上の写真の揚げ物で白っぽいものがイモで濃い色がチキンかと思ったらガトーと言っていたのでお菓子のようだ。1個2円で20個食べれば腹が膨れる。しかし、毎日はきつい。
- セダンの助手席に客2人、後席に4人乗車はアフリカ標準だが辛い。ガーナのように乗り合いワゴンをたくさん走らせれば良いのに。
- 大都市は排気ガスが酷く、地方都市は食べられる物が少ないので、この国では1週間ぐらいしか生きていられないだろう。
- マイナースポットをゆく(西アフリカ編/東アフリカ編)のまとめ
[ベナン/ナイジェリア国境]Seme
コトヌー-ラゴス間のセメ国境(Seme Border)は悪名高きポイント。
どれだけ大変なのか見てみようぐらいの気持ちで通ったが、まあいろいろと酷かった。
この手の国では大なり小なり役人の賄賂要求があるものだが、ナイジェリアのチンピラ役人の行為はもはや強盗だ。
最初はベナン側国境近くの路上検問で警官に難癖をつけられた。
乗り合いタクシーを止められIDカードを出せと言われてパスポートを出したが、これはパスポートでありIDカードではない、IDカードを持っていないならオフィスまで連行すると息巻いた。彼らの脅しは賄賂要求のためではなかった。住所が書いていないものはIDカードではないとして乗り合いタクシーから引きずり降ろされ、彼らの車までで連れて行かれる。乗り合いタクシーのドライバーも一緒に付いてきて私の援護をしてくれていたが、ついにあきらめ私を置いて車を走らせると言い出した。
「ちょっと待った」と車に向かう運転手を制止して、私はなんとなく持参した国際運転免許証を鞄の奥から取り出した。1年前、ニュージーランドとオーストラリアに行く際作成したもので、ちょうど昨日で有効期限が切れている。しかし、これには顔写真が貼付され名前と住所がアルファベットで書かれている。
免許証を受け取った警官たちは、それでいいのかどうか判断するのにも時間がかかった。鶏のように首をこきこき捻りながら、1人がこれでいいのではないかともう1人に渡すと、彼もまた首をこきこき捻り、しばしフリーズした後「OK、行ってもいい」とパスポートを返す。30分ぐらい停車していたので乗り合いタクシーの同乗者たちは騒いでいるようで、ドライバーがIDカード持っているならすぐに出せよと不満しきりだ。
悪いね、にいちゃん、期限切れの国際運転免許証が役立つとは思ってもみなかったんだな。
ベナンの出国審査で列の後ろから処理状況を観察すると、パスポートを提出する際、自ら百円程度の賄賂を差し出す人が多く、たまにお金を出さない人がいると、パスポートを返さないぞという脅しにより収奪されていた。ところが、私に対しては何も要求せず出国スタンプを押して返してくる。様々な国の人たちが賄賂らしきお金を要求されていたのにどういうことだろう。日本人旅行者たちのワイロノー活動の賜物と思っておこう。
税関チェックなどなくナイジェリアに向かって歩いていたところ、建物の前に机を出して座っていた役人に止められる。予防接種証明書を出せと言う。出国時にチェックするのにどういう意味があるのかわからないが提示すると、コレラの予防接種がない(日本の検疫所の話では、コレラ予防接種の国際証明書というものは存在しない)とかイエローカードにスタンプが押されていない(後から確認すると押し印はある)から200円相当出せという。入国時にはこれで問題がないとして通ってきたのになぜ出国時に問題とされるのか理解不能だ。
私の「なぜ払う必要がある」に対して相手の「なぜ払わない」の押し問答になった。男の隣にいた女性係官が、200円払えばコレラの予防接種証明も書き加えた別の証明書を作成しますよと持ちかける。そんな偽証明書作りを持ちかけるなんて、あんたらまがりなりにも役人ではないのか。この男であれば30分粘っていれば何も支払わずに通れそうな気がした。しかし、これから難関ナイジェリア入りというところでそんな無駄なエネルギーを使いたくない。あまり信用できぬロンリープラネットによるとこの国境を600円以内の賄賂で通れればラッキーと思えとのことである。
そこで私はこんなもんでなんとかと、細かいお金をパラパラと渡した。男はおいおいこれだけかよと呆れていたが通ることができた。その額20円、ベナンのトイレ代相当だった。
5mほど歩くと同じような机に似た服を着て男が2人座っていた。先ほどの予防接種チェックも同様だが、何らかの表示があるわけではないので視線を合わせず通り過ぎようとすると、彼らは憤っている。しかたなく、「何か」と近寄るとイエローカードの提示を求めてきた。渡してしまうとまた返してもらえなくなるので、指に挟んだまま彼らに見せると、だめだコレラがないからこのカードは無効だと言うやいなや恐ろしいほどの速さと力強さで私のカードを奪い取り、机の引き出しにしまい込んだ。それは明らかにプロの盗人の技であった。
「5000フラン(千円)払え」
「そのやり取りはたった今、隣で済ませてきたところなんだけど」
「それはベナンでの事だろう。ここはナイジェリアだ。お前のカードは無効なので没収する。金を払わないならそのまま行け」
なんということか、知らないうちにナイジェリアに入っていた。こちらの悪徳役人は強面で力があり、大事なイエローカードを強奪した上で金を払わないと返さないと脅迫している。ベナンでの検疫チェックはナイジェリアの前振りでしかなかった。これはただ粘っているだけでは通れそうにもない。英語が流暢に話せれば「あんたの行なっている脅迫は明らかに犯罪行為である、よって日本大使館を通して強く抗議する」ということをギャアギャア騒いでいれば通れそうな気がしないでもない。(失敗すれば何時間も足止めさせられるかも)
一応私なりに迫力のない英語で抗議してみたが、強盗役人には何ら効果がみられず金で済ませることにした。もうトイレ代用の小銭はなくなっていたので、持っているなかで一番細かい百円相当のコインを差し出した。これだけじゃ足りないもっと出せと脅迫してきたが、もうこれしかフランがないと主張してやっと盗人役人からイエローカードを返してもらった。(イエローカードの有効期間は10年だったが2016年7月11日から生涯有効に変更。カードがより重要となると共に10年超過したカードに対する難癖への対応必要<WHOのPDF><厚生労働省検疫所:黄熱について>)
しかたなく金を渡すにしてもやつらにはトイレ代程度で十分。(ナイジェリアは物価が高そうなので20円ではなく40円程度か)
教訓として言えることは、ここの国境を越える前にやつら用のトイレ銭(小銭)を用意しておく必要がある。強盗が釣りを返すわけないのだから。
小銭が切れてしまった私はこれからいったいいくら要求されるのだろうとびくびくしていた。しかし、入国審査や税関らしきところでは賄賂要求がなく、その後は意外にもあっさりとナイジェリアに入国できた(であれば検疫チェックでもう少し粘るべきだった)。結局120円強奪されただけで済んだのはラッキーだったと考えるべきなのだろうか。(汚職撲滅を掲げるブハリ大統領が2015年5月に就任して以来、賄賂要求はかなり穏やかになったとの噂あり)
その後、乗り合いタクシーターミナルまでの500mを歩いているうちに3回のパスポートチェックがあり、タクシーに乗ってからも無数の検問で徐行させられる。ラゴス郊外のターミナルまで90kmの間に30以上は検問があっただろう、発狂しそうになった。
全ての検問でチェックされるわけではなく、うまい具合に3回に1回程度停止させられ、トランクだけのチェックとパスポート類を含めたチェックの2種類がある。対向4車線の高速道路を快適に飛ばしているとすぐ渋滞があり、車1台ずつを係官が確認して許可されないと通過できない。どう考えても同じ内容のチェックを特に国境付近では1km間隔ぐらいで実施しているのだから相当無意味な行為である。
また、検問が少なくなってきたころにはとんでもない渋滞が頻繁に起こる。ラゴスの渋滞は尋常でないということを知っていたので、中心部に入らず数km郊外のMile-2 Motor Park(国境からのルート)というターミナルで乗り換え地方に向かおうとしていたが、それでもアクラの渋滞など全く比較にならぬものがあった。超低速走行による排ガスの充満、異常な接近と強引な割り込み、歩道や中央緩衝帯など車道以外の走行、ストレスクラクション、どれもこれも発狂しそうなほど酷い。これら渋滞は全てバス乗降場で発生していて、何台ものミニバスが横に二重三重に停車して車線を塞いでいることにより起こっている。何のことはない、秩序さえ守れば防げるのだ。
かくして、石油産出国ナイジェリアは世界的な流れに逆らい反エコロジーを貫く国であった。
[首都]アブジャ(1991年ラゴスより遷都)、 [通貨]ナイラ(2008年11月, 1ナイラ=約0.84円)
[公用語]英語、 [宗教]イスラム教50%、キリスト教40%、伝統宗教10%
[入国ビザ] 必要、アクラで取得(20ドル)、日本での取得は招請レターなどがない限りかなり困難との噂
[歴史/概要]
17世紀から19世紀、ポルトガル人、イギリス人などがアメリカ大陸へ送る奴隷のために海岸に多くの港を建設し、奴隷海岸と呼ばれていた。19世紀末に南部を支配していたベニン王国は周囲のハウサ、ヨルバの王国もろともイギリスに滅ぼされて植民地化される。1960年に連邦共和制国家として独立するが、汚職や政変が絶えず、政治が腐敗したまま現在に至っている。
世界有数の産油国であり、人口1億4千万人の大国で、教育水準も高いとされるが、政治の腐敗のため経済が低迷しインフラ整備は進んでいない。北部は乾燥地帯でキャラバン貿易を通じてイスラム教を受容しており、南部は熱帯雨林地帯でアニミズムを信仰し後にヨーロッパの影響を受けキリスト教が広がった。
ボビー・オロゴンの出身地であるイバダンは南西部に位置し、ラゴス、カノに次いで3番目の大都市。
[ナイジェリア]オソボ
<世界遺産オシュン=オショグボの聖なる木立の寺院(2枚組)>
♪はあ、電気もねえ、水も出ねえ、食える食べ物なんにもねえ♪
停電と断水の多いナイジェリアの旅は辛い。
観光どころか生きているのが精一杯。
ベナンのポルト・ノヴォのホテルはマシな方だった。電気がないということはファンを回すこともできないということで室内は炎熱地獄になる。今日のホテルは自家発電がなく、陽が落ち室内が真っ暗になっても停電したままだった。外は暗くて危険。しかたなく、暑い室内で懐中電灯を点しPCのキーボードを叩いていたが、どうしようもないほど辛くなり絶望に包まれてくる。
そんな時、外にいた子どもたちからウォーという歓声が上がり、部屋の蛍光灯が瞬き始めた。
ナイジェリアは電気のありがたさをしみじみと感じさせてくれる国だ。
2千円以下のホテルでシャワーヘッドがホースと繋がっているのはラッキーと思った方が良い。また、水が出る時にバケツいっぱいに水を貯めておかないと大変なことになる。昨日泊まった(ボビー・オロゴンのふるさとだという)イバダンは人口250万の大都市なのだが、一晩中停電したままだった。(なぜ?石油輸出国なのに)
このホテルには自家発電があったが朝5時前にそれも止まり、暑くて目を覚ますと水が出ないことに気づき、そりゃあもう大変。
よって、写真を撮る気力もかなり失せてきている。世界遺産だというオシュン=オショグボの聖なる木立(オスン・オソボ聖林)を含め観光ポイントはイマイチ。西アフリカの生活を見慣れてしまいワクワクしない。ここの子供たちは近寄るとみんな逃げてしまう。
街中の道は車のためのもので人が歩くなど想定されていないところが多く、いろいろな障害を越えながら歩かなければならない。
バイクが多く、悪臭強い白煙を発する。ベナンの排ガスも酷かったが、ナイジェリアはより質の悪い燃料を使っているのだろう。(なぜ?石油産出国なのに)
大きな交差点では警官が車の進行をコントロールしているが、ほとんどの交差点は車やバイクの気合勝負で混沌として、歩行者がなかなか渡れない。
そう、ボビー似の現地人が目をむいて言っていた。
♪信号ねえ、あるわけねえ、オラの国には電気がねえ~♪
[ナイジェリア]カノ
<ナッツ売りのショウジョ/路地のお子さん>
<カノ旧市街でコーランを勉強中の子供たち>
ナイジェリアはギブアップ。街中が白煙にけむる排ガスに目鼻と喉が耐えられない。
そして電気が止まる。博物館に入っても暗くて屋内展示物が私の目にはほとんど見えない。博物館スタッフは、少なくとも日中はほぼ1年中電気が供給されないと言っていた。(それなら自家発電しろよ)
そして、夜になっても電気が止まっているからホテル(今日のホテルは自家発電あり)の近くの店に買い物に行くのにも危ないってもんじゃない。道には歩行用のスペースがなくバイクや車をよけ、深い下水溝を何度もまたがなければならない。歩くだけでも大変でスキだらけなのだが、私からは何も見えない暗闇から何度も嘲笑を伴った声がかけられる。いつ襲われても不思議でない。
こんな状態で暴動も起こさず暮らしているナイジェリア人の忍耐力たるや相当なものだ。
=>(後日談)私が出国した1週間後にカノ - イバダン間にある街ジョス(Jos)で数百人の死者が出る暴動発生。苦難な生活を強いられている人々は、何かきっかけがあると不満が噴出して暴動となる傾向がある。
昨日、オソボから16時間かけて移動して、カノのターミナル到着が夜中の0時半になってしまった。かなりふっかけてくるバイクタクシーの料金を値切っているうちに選択の余地がなくなり、面構えの悪い男の車に乗ることになった。(運転手を選ぶ際に面構えの善し悪しは非常に重要)
街の中心部に入ってくると車も人もほとんど通っていなかったが、暗闇で懐中電灯を上下に小刻みに揺らしバイクを止める検問が大きな交差点毎にあった。
3つの検問を無事通過して、ホテルがすぐ近くの4つ目の検問で、警官が明らかに賄賂を要求するしぐさをしながら英語か現地語を発した。何を言っているかわからんと伝えると、彼ら5人ぐらいのリーダー格の警官が出てくる。その警官は手荷物検査と称して暗闇の中、バイクのシートの上でバッグを開けさせる。この嫌がらせに耐えれば通過できるかと思ったが、検査後その男はわかりにくい英語で話しかけてくる。理解できた内容は次のようなことだった。
「私たちはこんな夜中に検問をしてあなたたちの安全を守っている。あなたに家族がいるだろうが私にも家族がいる。あなたと私は一つだ」
賄賂を要求しているとしか考えられないが、筋が通っていないのでso what?なのだ。
私が「じゃあ夜遅いのでホテルに行くよ」と言うと酒臭い息をはく男はまた同じ話を始める。彼の話が終わる度に「あんたの言っていることは意味がわからん」と言うことを5回ぐらい繰り返しやっと通過できる。脅迫されてはいないが、深夜に30分近く足止めさせるという性質の悪い警官である。
この手のアフリカ役人は賄賂で稼いで豪勢な生活をしているかというとそういう訳でもなくて、役人だというだけで近親者からたかられるため、その分を賄賂で賄い続けるのが大変なのだという。
この酔っ払い警官の場合、もっとかわいらしく金を要求していれば、「君、そんなにお金欲しいの?あんまりあげるとまた酒飲んじゃうから百円でいいかな。5人で仲良く分けてね」と早めにあしらっておいた方が結果的良かったようだ。しかし、明確に要求されていないのにこちらから金を差し出すなど旅人のはしくれとしてできる訳がない。
警官とやりあっている間、バイクタクの運ちゃんはじっと動かずに待っていて、私が解放されるとホテルに連れて行き、閉じられた門の外から何度も怒鳴りつけスタッフを起こしてくれた。
なかなかいい運ちゃんで助かったと思い、40円のチップを上乗せした200円を差し出すと、彼はみてくれ通りの男に豹変した。
「そんな額受け取れるか。今、1時半だぞ。こんな深夜に検問でどれだけ待たされたと思っているんだ。千円だせ」
深夜のホテル内に響き渡る声で要求してきた。
私は16時間の移動で疲労困憊していたが最後の力を振り絞り、キレてみせる。
「何言ってるんだ、乗る時に決めた額は160円だぞ、そんなこと言うならそれ以上は払わん。だいたい検問で足止めさせたのは警官だ。みんなあんたの国の警官だからな。外国人の私は被害者なんだぞ。あんたが足止めされた分の金を取りたいのならな、あの酔っ払い警官に要求しろ」
そう言って160円を差し出すと、彼は苦虫を噛み潰したような顔をしながらすごすごと腕を伸ばし、金を受け取るとそのまま立ち去った。
激昂した彼の形相からてこずるかと思っていたが、悪人面のナイジェリア人も話せばわかるではないか。(英語が通じるのが大きい。まあ、このドライバーは悪い人ではなかったのだろう)
役人の賄賂体質は国民ひとりひとりが努力して変えていかねばならんのだよ、と説教をたれたかったが、そこまで英語が続かなかった。
オソボからアブジャ、カドゥナ経由でカノまで行く(たぶんこんな感じのルート:+で1つ拡大)乗り合いワゴンのターミナルを町歩き時にたまたま発見。2,800Naira。朝8時にHotel Terminus International前を発車。相当うまくいって14時間か。私の場合、30分遅れで出発、乗客が減ったため途中で乗り換えさせられ16時間かかって、カノに深夜0時半着。とてもお勧めできないが、アブジャかカドゥナまでは使えないこともない。
<バイクタクシーの群れから白煙が上がる>
- オソボからカノまでの間、12時間以上同じミニバスに乗っていて食事休憩が1回だけ。トイレは途中で客の荷物を積んでいる間にその停車している付近で済ませるしかない。ほとんど『どこでもトイレ』になり得る。
- ナイジェリアで2番目に大きいという大都会カノのホテル近くでレストランを探している時、入ろうとした店のオープンテラス入り口で立ちションしている男がいた。この店はやめようと立ち去ろうとすると、その男が声をかけてきてその店の主人だということがわかる。都会だろうと食堂の敷地内だろうと『どこでもトイレ』なのだ。
- ガーナからずっとだが、相変わらず男は坊主頭ばかり。ベナンとの国境からの乗り合いタクシーにパンチパーマ程度の髪がある黒人が同乗していたが、その男はニジェール人で、検問で警官に目をつけられ彼だけパスポートを調べられることが何度かあった。かわいそうなことに調べられる度に賄賂を要求され、挙句の果てにはお前のせいで何度も車を止められたとタクシードライバーから追加料金をしつこく要求されていた。隣国の訪問者を食いものにするとは何たる極悪人ども。
- これもガーナからずっと、たばこ吸う人が皆無。
- こちらの人たちは、「おいっ!」と呼びかける代わりに「プスッ!」と唇をはじいて息を飛ばすことにより、他人の注意を引き付ける。車の騒音でうるさい場合には、喉を震わせ大声を出すよりもプスッの方が伝わり易いようだ。ガーナからずっと気になっていたが、ベナンで耳にする頻度が上がり、ナイジェリアに来てここがプスッの本場(帰国後ネットで調べるとイタリアなどヨーロッパでもプスッが聞かれるとのことで英語でpsstのよう)なのではと感じている。このプスッは外国人の気を引くのにも使われるため、道を歩いているとあちこちからプスップスッという音が鼓膜を攻撃する。声と違ってこの音は点で相手にぶつけられるのだ。何台ものバイクタクシーが連なり低速で走っている時、道端から空気銃が発射されたようにプスッという弾が飛んできて私の近くで破裂した。呼びかけられたのは私じゃないと気づいたのだが、私の前を走っていたバイクタクの客が振り向き、プスッを発した友人に手を挙げていた。使い慣れている人たちにとって、このプスッは大声を出すよりもはるかに有効なのである。
- ナイジェリア人は決して悪い人やおかしな人ばかりではない。他の西アフリカ諸国同様、親切でやさしい人が大勢いる。西アフリカの中では先進国のせいかどうかわからないが、感覚が日本人に近いと感じる人が他の国と比べて多い。しかし、写真を撮ろうとすると、喜ぶ人、気にしない人、嫌がる人、カメラを向けていないのに怒り出す人など反応が様々で、それが全く読めないというのが非常につらい。
- 写真に関しては子供たちですら、逃げるもの、怒るもの、喜ぶものと反応がまちまちで疲れてしまう。親に連れられた5歳ぐらいの幼児はカメラを向けると泣き出してしまったが、どうやらこの子はカメラが怖いのではなく黄色人種の私が怖くて泣いているようだった。黒人以外見かけぬ下町の路地をうろついていた私は、日本の農村に現れたボビーのような存在だったのだろうか。
- ナイジェリアでは、ボビー・オロゴンのように低音で喉の奥を膨らませながらゆっくりと話す人を何人も見かけた。男だけでなく女性のボビーもいた。ナイジェリアには、外見だけでなく話し方までボビー似の人たちで溢れている。
- ナイジェリアの都心は排ガスが常にもうもうと上がり昼は街が白濁している(上の写真)。バイクタクシーや乗り合いミニバスで街中を移動する際、防塵マスクを付けていないと肺や喉がやられる。現地人は交通整理の警官も含めて、マスクの類をしている人をみかけなかった。バイクタクで信号待ちしている時、背の低い子供が私に物乞いしてきた。前方に停車していたバイクから排出される白煙が、その子の顔にまともに噴きかかっていたが、彼は排ガスを全く気にすることなく話し続けていた。ナイジェリア人は生まれた時からこの排ガスを吸わされ、丈夫な人たちだけが成長しているのだから、外国人が現地人に倣ってマスクをしないでいたら身が持たない。何らかの対策が必要。
- イバダンとカノで電気のない夜の街を歩き回った。車のライト以外は屋台のろうそくぐらいしか灯りがないのだが、大勢の人々が出歩いている。懐中電灯を持っている人は非常に少ない。私が懐中電灯を照らしながら歩いていると暗闇の中からいろいろな声がかかる。闇に潜む無数の人々から見つめられているようで恐怖を感じる。
- ガイドブックで少なくともオソボでは両替不可とあり、銀行もない町かと思ったら、大きな銀行店舗がいくつもあり、Dollars Availableの表示がみられた。更に停電中でも稼動しているATMをほとんどの店で設置していていくつかは看板にVISAの表示があったのでVISA出金可能と思われる。他の都市でも銀行店舗はよく目に付き、ATM台数がかなり多い。カノでは店舗外ATMでもVISA出金できたので、少なくともVISAキャッシングを利用する人は両替の心配不要。私は最新2006年版ロンプラの超古い情報(ここ2、3年の間にこれだけのATMが設置されたとはとても思えない)を信用してしまい、いくつも無駄な対策を取ってしまった。
<参考図書>Lonely Planet West Africa (6th Edition)=>最新版 West Africa (9th Edition) - ロンプラ表示の料金と比べて交通機関は6割前後上がっていたが、ホテルはせいぜい1割高くなっている程度。
- 英語が公用語で、外国人と会話する機会が多い人はまともに話せるようだが、一般の人々の英語はかなりひどい訛りがあるようだ。高校生ぐらいの少年が私に話しかけてくる英語が理解できず、単語を紙に書いてもらったら、想像を超えた発音をしていることがわかり、彼らの英語はヒアリングしないことにした。
- 2件の宿が満室で深夜のため仕方なく泊まることになったカノのスイートルーム(3,500円)でもシャワーヘッドが飾りモノでホースと繋がってなかったため、バケツの水で体を洗う。
≫≫(後日談)これが西アフリカ安宿のスタンダードだと思っていたが、シャワーが必ず壊れているのはナイジェリアとベナンだけだった。どうしてナイジェリアと隣の小国ベナンは何でもかんでも特別にひどいのだろう。(ベナンは小ナイジェリアのよう) - 街中の深い排水溝に厚く堆積したゴミを見ていると、この国がまともな状態になることは今の世代にはないような気がしてくる。西アフリカではどの国でも、『どこでもゴミ箱』のように平気でゴミを捨てているが、ナイジェリアは人口密度が高いためにゴミの堆積がどこよりも多い。ゴミを食べさせるためか、街中にやぎが放されているが、とても彼らが食べきれる量ではない。
- 虚弱な私はナイジェリアでは3日以上生きられない。
≫≫この後の日記に記しているが、中耳炎などの症状で3日後に発熱して3週間苦しむことになる。 - マイナースポットをゆく(西アフリカ編/東アフリカ編)のまとめ
[ナイジェリア/ニジェール国境]Jibiya
2国間の国境は4つあり、どのルートを取るか迷ったが、地図上で最短にみえるJibiya国境越えコースで行くことにした。
ナイジェリアで無駄にエネルギーを消耗してしまった。特にこの喉と肺の痛みはしばらく回復しそうもない。
ナイジェリア側の出国は賄賂要求が全くなかったが、しつこくねちねちとどうでも良いことをチェックして時間がかかり、精神的疲労が大きかった。
ニジェールに入り急に乾燥して暑くなった。ナイジェリアでは面白みのない車窓が延々と続いたが、ニジェールの大地は赤茶色に光り、枯れ色の草木とのコントラストが美しく、農作業に励む人々の姿やプリミティブな家屋に目を奪われる。
一列に並んだ4人の女性たちが頭上に大きな荷物を乗せ、強い日差しが照りつける大地の中を美しい姿勢で歩く。鮮やかな衣装が宝石のようにきらめいていた。(乗り合いタクシーから見えた一瞬の光景なので写真なし..だが、似たような光景はこちら)
- カノから乗り合いタクシーでJibiya(GoogleMaps上の表示はJibia)という国境の町まで2時間30分。(区間ルート参照)
- Jibiyaへ向かう道の分岐点付近からバイクタクでNigeriaイミグレーションへ。(約2km)
- イミグレでは税関はなく賄賂要求もないが、2人の男と別々に長い面談が必要。どの町にいつ入った、どこに泊まり誰と知り合ったか、日本では何をしている、会社の住所のEvidenceを出せ、とか合計1時間近く。出国する人間に対して何を恐れているのか。道中の検問も異常な多さだったが、なぜそこまで執念深くチェックする必要があるのだろう。イスラエルを思い出させる。
- ナイジェリアのイミグレからニジェールのイミグレまで彼らが言うには6km。バイクタクの運ちゃんと金額が折り合わず歩き始めたが、行き倒れてしまいそうな暑さで結局バイクタクシーに乗る。ナイジェリアのJibiya町中からニジェールイミグレまで、そのバイクタクに支払った金額は300ナイラ(約250円)。
イミグレスタッフの話しによるとJibiyaの町中から、ニジェール側国境を越え30km先にあるマラディまで乗り合いタクシーで200ナイラぐらいとのこと。但し、外国人は出国に時間がかかるので先に出国手続きを済ませてからJibiya町中に戻り、乗り合いタクシーに乗らなければならない。 - ニジェールの入国はあっさり。賄賂要求、税関チェックなし。
- ニジェールのイミグレからニジェール側の町中心部まで1km以上ありそう。周辺の住民がみな親切なので特に問題なく乗り合いタクシーに乗り、マラディまで(ナイジェリアイミグレからの区間距離)30分程度。
[首都]ニアメ、 [通貨]CFAフラン(2008年11月, 1CFAフラン=約0.18~0.2円)
[公用語]フランス語、 [宗教]イスラム教75%、他 キリスト教、伝統宗教
[入国ビザ] 必要、アクラで5ヶ国共通ビザ取得(3万CFAフラン)
[歴史/概要]
17~19世紀、砂漠の民トゥアレグやプール族に支配されていたが、20世紀までにフランスが全土を領有、1922年にフランス領西アフリカの一部になる。1960年に共和国として独立後、軍事クーデターなどによる政変が続くが2000年からほぼ安定する。
国土の3分の2を砂漠が占め、中・北部は乾燥気候、南部はステップ地帯の広がるサバナ気候で、首都ニアメの年平均気温は29℃で7月~8月が雨季。
農業、畜産業、鉱業が主産業でウランが世界第3位の埋蔵量を誇る。
中部アガデスを基点として北東部のサハラ砂漠をキャラバンするのが主な観光。
[ニジェール]コンニ(1/2)
<夕方出会ったかわいらしいお子さまたち(2枚組)>
<夕陽のあたる子>
喉と肺の炎症で声が出なくなり、体がかなりだるくなってきた。夜、熱を測ると39度あった。日中、外が40度前後のため熱が出ていても気づきにくい。
何にもなさそうなコンニ(ビルニンコンニ)で休養することとした。ナイジェリア及びベナンで浴びた猛烈な排ガスが直接の原因とわかっているので、体を休ませてまともな食事をとれば治るだろう。
ニジェールに入り、人々がおっとりとして穏やかになった。時々はっとする美形の女性に出会うが、体に不具合を抱えた大人やまともな衣服を着ていない物乞いが多くなった。
[ニジェール]コンニ(2/2)
<コニ裏通りの快活なお子さまたち(2枚組)>
<道端でモロコシ(ソルガム?)を売っていた親子>
とりあえず高熱は治まったので、カメラを抱えてコンニの裏通りをぶらぶらしてみると、撮れ撮れと大興奮の子供たちに囲まれる。彼らに押され気味になりながらシャッターを切った。できれば愛嬌のある子どもを撮りたいと狙っても、ほとんど無理だった。
ニジェールはこれといった見どころがなくても、人々と触れ合ったり、生活を拝見するだけで私にとって観光になる。ナイジェリアなど通らず健康な状態でニジェールに入るべきだった。
≫続きを表示ニジェールにもいろいろと大変なことがある。
まず車がトロい。マラディからビルニン・コンニまで大型バスで3時間、プジョーのステーションワゴン(日本人なら7人乗りでも窮屈、こちらでは10人乗り)で3時間半、ワゴンのミニバスで4時間半とガイドブックに記されており、早朝起きれず大型バスを逃した私は、プジョーに乗った。(ルートを見ると240kmもある)
長くても4時間半で着くと思い、いつものように水も持たずに乗った。舗装道路には数多くの穴があり、集落周辺にはバンプ(減速用の段差)があるのだが、プジョーはそれらを止まるぐらいのスピードで越えていく。ナイジェリアでは逆に天井に頭を何度も強打するぐらいのスピードで駆け抜けていたから、その違いにかなりイライラする。減速しすぎてか何度もエンストして、その度にボンネットを開けて水をかけ、スパナでエンジン部分を何度かおまじないのように叩き始動させる。止まるほどの速度で走るということは風が全く入ってこないということで、炎天下車内の温度は42度を超えている。そして、息もまともにできぬほどの密着。結局、7時間半かかり、晩に高熱を出す大きな要因になった。
ニジェールはボトル入りの水がなかなか売っていない。人々が飲むのは500ccぐらいの袋入りの水で、ブランド名などが印刷されているのはまだしも、無印モノが多い。隣国ベナンの道端で大きなタライに入った水を袋詰めしているのを目撃したことがある。マラディのホテル近くに露天売りの小さな店がいくつかあったが、ボトル入り水を売っている店が砂の道を10分くらい歩かないとなかった。
また、マラディからコンニまで7時間半の道中、飲み物を買うチャンスは何度もあったが、袋入り水以外は炭酸飲料しかなく、下痢を伴う体調不良のなか移動していたため炭酸飲料が飲めず(お腹の丈夫な人には理解できないでしょうが)我慢せざるを得なかった。
蚊が多く、ホテルでは蚊の対策が取られていない。マラディで泊まった1,300円のホテルでは、1m四方ぐらいの窓ガラスが1枚抜けていることに部屋を取ってから気がついた。カーテンで覆われているとはいえ蚊が入り放題。(1階入り口近くの部屋なので防犯上の問題大ありだったが蚊の方が気になった)
部屋に蚊帳がないだけでなくシーツもなく、シーツや寝袋を持参していない私には絶対絶命。シーリングファンを回し続け、ウィンドブレーカーを着て、下半身は長ズボンだけでは蚊に喰われまくるので、巨大アルミホイルのようなサバイバルキットを掛けた。なにしろ、日本から持参した蚊取り線香が効かないのだ。
顔の周りを羽音を立てて飛び回っているので蚊取線香が消えたのかと起き上がると点いている。いったい何のために日本から連れてきたか知っているのか。お前のミッションは例えアフリカの蚊であろうと全て殺戮することではないのか。
香取線香が信用できなかったため、アルミホイルがシーリングファンの風で巻き上がるのを体で押さえながら、厚着して汗をかき、眠れぬ夜を過ごした。
その後よくよく観察したところ、この蚊取り線香が煙を出している間、蚊は元気に飛び回るが人を刺すことはないようだ。線香が消え煙が止まると、蚊どもは暗示が解けたかのように血を吸いに皮膚が露出した部分に集まってくる。
この蚊取り線香の会社はなんという手のこんだことをしているのだろう。
あんたらブッディストか。
<コニ裏通りのお子さま(2枚組)>
[ニジェール]ニアメ(1/2)
<ニアメのグランドモスク(2枚組)航空写真>
ナイジェリアの(排ガスの)毒が体から抜けきらず肺炎状態(気管支炎かもしれないが)であるが、熱は下がっているので停滞が許されず移動再開した。昨日は、待ち時間も含めて7時間半ぐらいの移動でニアメーに着いたが宿探しに手間取り1日が終わる。
ニジェールはなかなか良さそうな国なのでニアメーは楽しめるのではないかと思っていたが、意外にもつまらない。
5千人収容するという大モスク内に入らせてもらえるのだが特に見るモノがない。シンプルデザインがモスクの良さでもあるが、お抱えガイドが何人もいて俺にも金くれ、もっと出せとうるさく、神聖なるモスクにいる気がしない。
マルシェ(市場)はニジェール人の穏やかな気質のせいもあり、活気に欠けワクワク感が得られない。
ニジェール河は広すぎて、ビューポイントを見つける前に40度を超える暑さのためダウンしてしまった。
ニアメーでは市内の移動が非常に面倒。ベナン、ナイジェリアそしてニジェールの地方都市にはバイクタクシーがあったが、ここは乗り合いタクシーのみ。行きたい方向へ向かうタクシーをみつけ、更に値段交渉が必要なのだ。行きたいところに乗せていくけど専用になるから5人分の値段(といっても二百円弱)になるという運ちゃんが多く、面倒だから1、2kmぐらい歩いちゃえとなり、咳き込んだり軽い熱射病状態になってしまうのだ。(翌日、ニアメーでのタクシーの乗り方会得)
ニジェールは物乞いが多いが、ニアメーは物乞いだらけ。多い地区はすれ違う5人にひとりぐらい。彼らも穏やかであまりしつこくないので気にならないが、子供やばあさん、体の不自由な大人、幼児を背負った明るいお母さん乞食も時々みかけ、私の顔に向けて手を横に振るという知人にでも会ったような軽さで物乞いしている。(大半が本職でないのかもしれないが、身なりがまともな通行人に手当たり次第声をかけている人が多い)
農村部も都市部も教育を受けていない様子の人を多くみかけたが、信仰厚く実直そうな人が少なくないため、政治が良くなれば、よりよい国になりそうな気がする。
- コニからニアメーまでの移動(区間ルート)は大型バスを選択したが、これもそんなに楽なものではなかった。ガーナの2等バス相当と同様に左3列、右2列のシート配列。車内は砂で汚れ、シートは外れてしまうものがいくつもあり、途中何度も客の乗降があるのになぜかいつもぴったり満席。常に隣の客との強い押し合いがある。しかし、プジョー(乗り合いステーションワゴン)よりはるかに楽なのは間違いない。
- ニアメーのBudget Hotelの中で一番のお勧めとしてロンプラに書かれているChez Tatayiが郊外バスターミナル近くから中心部付近のGrand Hotel付近に移動。旧住所付近で尋ねた現地人がよく知っていて、親切にも乗り合いタクシーの料金交渉までして送り出してくれたため転居先にたどり着けたのだが、今日も明日も満室。フロントの愛想が悪く、部屋は決して新しくない。
[ニジェール]ニアメ(2/2)
<ケンブリッジ橋付近でのニジェール河からの荷揚作業(2枚組)>
ナイジェリアの毒がニジェールの暑さで活発になり、体中を暴れまわっているようだ。
倦怠感、頭痛、耳痛、歯痛、関節痛、微熱、そして鼻水、鼻血、耳だれ、咳、痰。いろんな部位が痛み、いろんなものがとめどなく出てくる。ほとんどの症状が風邪をこじらせた程度のもので気にしていないのだが、耳だけが心配だ。
かつて、粉塵の舞うパキスタンを1週間旅して帰国後に中耳炎になり、完治までかなりの日数を要した。中耳炎状態で飛行機に乗るなど、あの気絶しそうな激しい痛みを想像しただけでめまいがする。(耳の丈夫な人には理解できないでしょうが)
よって、かろうじて動ける気力があるのだが、暑いだけで何もないニアメーで停滞することとした。
ニアメ市内のタクシーは値段を尋ねて乗ろうとすると300CFAまでしか下がらないが、黙って乗れば地元の人と同じ200CFA(40円)。(そのタクシーが流している地区内の場合)
路上で目的地を叫び車を止め、運ちゃんが何も言わなければ料金の交渉をせずそのまま乗りこむ。降りたい場所に着いたらc’est bon(セボン:ここで良い)と言って停車させ、200CFAコインを運ちゃんの手に握らせ、さっと降りるのがニアメーでの粋なタクシーの乗り方。
休養のため時間があったのでニアメでマリのビザを取得した。面倒なのはマリ共和国領事館にたどりつくことだけで、領事館は訪問者が少なくスタッフが驚くほど親切なので何ら問題なし。
領事館の場所を知っていてかつそこへ向かってくれるタクシーがなかなかみつからなかったので、Blvd de l’Independanceまで出て、5台目のタクシーがやっと乗せてくれる。うれしくて言い値の1,000CFAで乗ったが、ビザ受け取りに向かう時は400CFAだったので値切っておけば良かった。Rond Point Yantalaに比較的近いので、市内からそこまでタクシーで行き、そこで周辺を得意とするタクシーに乗り換えれば確実にマリ領事館に行ける。ちなみにアメリカ合衆国大使館の隣だが、その敷地は広大なので1周してマリ領事館をみつけてもらう必要がある。
申請書1枚記入、写真1枚、20,000CFA。翌日受取が基本のようだが、私の場合11時半すぎに申請して当日15時すぎ受取。スタンプを押す人が15時にならないと現れないという状況だったようで、運が良ければ即時発給も可能かも。
- ニジェールも停電が多いが信号は結構多い。信号が点いてたり消えていたりで大変そうだが、みんなトロトロ安全運転なので交通警官がコントロールしなくても仲良くすれ違っていく。
- 急にタバコ売りが目立ち始め、タバコを吸う人をたまにみかける。コートジボワールのアビジャンで1人みかけて以来か。
- ニジェール人は若者から中年まで粋な男性が多い。特にパリッとアイロンのかかった長袖のシャツをスラックスの上に出している男が格好いい。小顔に細身の体で背筋をピンと伸ばし(アフリカ人はみんな背筋まっすぐだが)、まっすぐ前を向きゆっくり歩く(ニジェール人はみなゆっくりだが)。黒人を見慣れぬ者には顔の造作の善し悪しを判断しかねるが、たぶんイケメンなのだろう。サングラスをかけている若者がいると、Exileのメインボーカルの雰囲気だなあと感じるのだ。
- ニアメーは多少ツーリスティックで日本語で声をかけ強引に土産店に引き込む者がいたり、押し売りガイドがいたりするが、全体がおっとりなのでそれほど大したことはない。
- まともな宿に泊まるつもりなら自家発電付かどうかの確認が必須。あまり料金の違いに反映されていないようだが停電時の快適度合いが雲泥の差。
- バスの出発は6時や7時の早朝発が多い。暗いうちにターミナルまでの移動が必要でバスに当然トイレはなく、途中の休憩地もまともなトイレはほとんどない(これなら野原の方がましというレベル)ので、私のようにトイレコントロールの下手な者には厳しい。
- 移動中に停車した村も含め、地方にはきれいな娘が多かったがニアメーではゼロ。ニアメーでは、旅行者も含め、黒人でない人を多くみかける。今回の旅の今までの町と比較すると圧倒的に多い。
- お祈りの時間になると、数人から数十人単位が道端や簡易集会所に絨毯を敷き、メッカの方向を向き揃ってお祈りする。歩道で横一列になり車道に向かって額を絨毯にこすり付けているグループもある。私が彼らの真ん前で立ち止まって観察しても全く気にせず一心不乱。ニアメではこれが唯一感動的シーンだったが、(どんな反応をするか想像できなかったので)カメラを向ける度胸はなかった。病気療養中だったもので。
- 特にニアメーで物乞いが多いということ以外は、人々も車もみなおっとりしていて、この国に何か危険なことなどあり得るのだろうかと感じるほど。しかし、市場で写真を撮っているとニコニコしながらダメダメと言う人がおり、また、撮りたいシーンがないけど街の中心部の写真を写しておこうかと思っても、どこにカメラを向けても明らかな物乞いがフレームに入ってしまいやめてしまった。
- 少なくともニアメにはVISAキャッシング可能な24時間稼動ATMが何台もあった。
- ニジェールの国境を越えた日から毎日最高気温が40度を超えている。それまでの国は35、6度だったから急に耐えられぬ暑さになった。
- ニジェールはクーラー付チャーター四駆車でアガデス、ザンデールを含めた地方を気に入ったポイントで車を止めながら旅するのが良さそう。私もいつかそんな旅をしたい。
- マイナースポットをゆく(西アフリカ編/東アフリカ編)のまとめ
[ニジェール/ブルキナファソ国境]Foetchango-Kantchari
両国のイミグレーション(出入国審査場)は国境から離れているため歩いて国境を渡ることは不可。国境を越える国際バスは嫌いなのだが、ここでは国際バスを利用するしかなさそう。
≫国境越え詳細情報- ニアメー6時発ワガドゥグ行(ルート)の国際バス(大型)があるが、早起きできずそれをパスしてミニバス乗り場へ。ミニバスターミナルに10時半過ぎに着いたので人が集まらず、炎天下、不安な心もちで2時間以上待つ。
- ようやく出発したミニバスで1時間半移動するとニジェール側国境の町で休憩。20人のミニバス乗客のうち出国審査が必要なのは私だけで、その休憩ポイントにあったイミグレに一人で行き、特に質問も受けずに出国スタンプが押される。
- そこから集落のほとんどない道を走り、十数キロで国境を越え、更に十数キロ走行して、ブルキナファソ側のイミグレに着く。
- ブルキナファソのイミグレでは簡単な質問のみで入国スタンプが押される。その他のチェック、要求なし。実にあっさり。
- 当初、いつものように国境までの車に乗り、歩いて国境を渡って、別の車に乗り換えて移動するということを考えていたが、ここでは実質無理。
[首都]ワガドゥグ、 [通貨]CFAフラン(2008年11月, 1CFAフラン=約0.18~0.2円)
[公用語]フランス語、 [宗教]伝統的宗教57%、イスラム教31%、キリスト教12%
[入国ビザ] 必要、アクラで5ヶ国共通ビザ取得(3万CFAフラン)
[歴史/概要]
11世紀に成立したワガドゥグー王国が19世紀末まで国家として残るが、1904年に仏領西アフリカ連邦となる。1960年独立後に何度も軍事クーデターを繰り返し、1984年のクーデターで国名がブルキナファソ(「清廉潔白な人の国」の意味)となる。
主要産業は農業で粟、とうもろこし、タロイモ、綿及び牧畜などが中心。
国土のほぼ全体が乾燥したサバナ気候で3~6月が乾季、7~10月が雨季。
[ブルキナファソ]ファダ・ングルマ
いまひとつイメージできなかったブルキナファソだが、道はニジェールより良くなり、ニジェールに似た幻想的な農村風景が車窓に広がる。ニジェールほどは乾燥していないのか緑が増え、小さな湖のような水を湛えた景色が見られるようになった。
今日は首都ワガドゥグまで行く元気がなかったので、国境と首都(区間)の中間地点(区間)にある通称ファダで降りる。
暑さと決して楽ではないミニバスでの移動により、また熱がでてきたのではないかというほど体調が悪くなった。しかし、バスを降りる場所を間違えたことによりたまたまみつけた宿(1,400円)が新しく快適だった。
1km離れた町の中心まで宿のスタッフがバイクで連れて行ってくれ、最も洗練されたレストランを紹介してくれる。外国人旅行者などいそうもない町だが、私でも食べられ栄養が十分ありそうな料理(右写真)が運ばれてきた。今回の旅で食べた庶民向け食堂の料理で最も豪華だった。
ブルキナファソ、なかなかいいんじゃないの。
[ブルキナファソ]ワイグヤ
<ワイグヤの名称不詳モスク前(写真加工により電線一部消去)>
<ナバカンゴの家 ( Maison du Naba Kango ) 航空写真>
移動で熱を出して寝込み、翌朝少しだけ回復した体を気遣い短かい距離で刻んでいるのだが、想定外の長時間移動となってしまい、また寝込む。
観光する時間もなく写真を撮る気力すらないまま、ファダ、ワガドゥグを通り過ぎていた。このままではブルキナファソの写真がなくなってしまうと思い、次の移動のバス出発時間を遅らせ、アスピリンが効いて動けるようになった体で小さな町ワイグヤ(ワヒグヤ)を歩き回る。
小さな市場があり、ささやかながら観光スポットも楽しめ、子供たちと触れ合うこともできた。これぞマイナースポットという感じの町だった。
≫続きを表示ニジェールから中耳炎が原因と思われる偏頭痛がずっと続いていたが、昨晩、それが左側顔面全体に広がり、ベッドに横になっていても耐えられなくなった。普段、薬を飲まない私は持参した頭痛薬が2錠しかなくすぐになくなっていたので薬局でアスピリンを購入。2錠服用すべきところ1錠しか飲んでいないのだが信じられないほどの効きめがある。
食欲がでてきたので食べ物を探したがまともなレストランがほとんどない。やっとみつけたレストランだったが、黒板に書かれたメニューを注文するとそれもないこれもないばかり。あるものは卵とライスとパン、それからライスにかけるスープ(タレ?)だけ(右写真)。栄養を摂りたかったのだが、腹を少し膨らませただけだった。
- 自転車大国なのか1人に1台と思われるほど自転車が多い。
- 自転車とともにバイクも多い。首都ワガドゥグでは久しぶりに排ガスを吸わされ、肺炎か気管支炎の症状悪化。
- ミニバスの屋根にバイクや自転車を積み上げるので上げ下げに時間がかかる。
- 道がいいのに車の運転はニジェールなみにトロい。ミニバスは客待ち時間が長く、集落で頻繁に停車してかなりイラつく。このトロトロトロキナファソ、と心の中で叫んでいた。本数が少ないが、大型バスの方が断然良い。
- 大型/中型バスは定時発車。ミニバスも一部、定時発車があり驚き。
- 泊まった宿3つのうち、一つはまあまあ、ガイドブックに載っていなかった2つの宿は驚くほどきれい。
- ここもペットボトルの水がなく、ついにビニール袋詰めの水に手を出す。500mlで10円。ただの四角い袋に水が入っているので、角を1ヶ所、口で破り吸い込むように水を飲む。口をつけるところが問題なだけで、中身は大丈夫そう。
- ニジェールと比べて顔の造りはぐっと落ちる。顔が横に広がり目鼻が崩れる。
- 車窓に広がる自然は水があることにより、ニジェールより美しいかもと思わせるシーンがいくつか見られた。ホテルが清潔で道も整備されているのでチャーター車で回れば楽そう。ボボデュラソなどの観光地に行っていないので評価できないのだが、ニジェールやマリのついでに旅するかどうかという程度だと思う。
- マイナースポットをゆく(西アフリカ編/東アフリカ編)のまとめ
[ブルキナファソ/マリ国境]Thiou-Koro
<マリ国境へ向かう通りを歩く女性たち>
ガイドブックに書いてあった国際大型バスは何年も前からこの区間を走っていないと言われ、ミニバスで移動する。予定通りの時間に発車したので、予定通りの到着を期待していたが甘かった。
ここも両国のイミグレが国境よりかなり離れているため、歩いて国境を越えるのは困難。更にこの国境は人や車の往来が相当少ないため、ヒッチハイクなどで一般車両に乗せてもらうことも難しそう。
<参考図書>Lonely Planet West Africa (6th Edition)=>最新版 West Africa (9th Edition)
≫続きを表示- ワイグヤからマリ国境の町コロまで(この区間ルート)は90km。ミニバスのスタッフは何度も所要2時間を強調しているので、かかっても3時間かと思い12時半発(その前は7時半)のミニバスに乗るが、それが大きな失敗の元となる。
- 国境から21km手前にブルキナファソのイミグレ。20人近い乗客のうち私だけが第3国人。出国審査はほとんど質問もなく簡単に済む。
- 国境を越え、推定18km地点でマリのイミグレ。テント内で全乗客のIDカードを集めて審査が行なわれる。質問もなく簡単に入国スタンプが押される。
- ブルキナファソの税関らしき場所で他の乗客の荷物でもめていたようだが、マリ側の税関でも30分以上もめる。私に対する税関チェックは両国ともなし。
- 結局、コロへの到着は5時間後の17時40分。ほとんどの乗客がその先のモプティ方面に移動する予定だったが、夜間、モプティへ車が進入できないという理由で接続便であるプジョーの運行がなく、翌朝6時発と言われる。乗客のほとんどは、大量の荷物が置かれた乗り合いプジョー待合所(屋根はかかっているがほとんど路上)に持ち歩いているゴザを敷き、分厚いコート類を着て夜を明かしていた。
[首都]バマコ、 [通貨]CFAフラン(2008年11月, 1CFAフラン=約0.18~0.2円)
[公用語]フランス語、 [宗教]イスラム教90%、伝統的宗教 9%、キリスト教 1%
[入国ビザ] 必要、ニアメでシングルエントリービザ取得(2万CFAフラン)
[歴史/概要]
3世紀ごろからガーナ、マリ、ソンガイといった帝国が栄えていたが、1904年にフランス領スーダンとなり、1960年に独立。その後、軍事独裁政権が続いたが1991年から民主化が進み現在は安定している。
主な産業は綿花やピーナッツなどの農業、畜産、金やウランなどの鉱業など。
ジェンネ、ドゴン、トンブクトゥ、ガオに世界遺産があり、西アフリカ随一の観光国。
[マリ]コロ
恐ろしい国に来てしまった。
町一番のホテル(Campement hotel)のトイレは庭の一角にある壁で囲まれた青空トイレ一つだけ。扉がないので誰かのケツを見た時に利用中と判断するしかない。(こちらの女性は自分のスカーフを入り口近くの壁にかけて存在を知らせる)
トイレには電灯などない、水も出ない。手洗いできるのは、これも唯一つのシャワールームで頭上から流れ落ちる水で手を洗うしかない。シャワールームには扉があるが、大きく開いた鍵穴の跡から利用者が何をしているかよくわかる。
そして、夜中の12時になると電気が止まり、懐中電灯をつけてもトイレにたどりつくのが困難。シャワールームの唯一の蛇口からは水が出なくなった。
電気が止まり暑く、更にベッドが汚すぎて寝付けられないとかどうでもいいくらい、トイレと水の問題は私には大きかった。(それでもアフリカでこのレベルはまだましなんだろうな)
食事もまた問題だった。ホテルでも食事を出すというので調理場をみせてもらったが、完全にアウトドアで、スタッフや家族の料理の余りを客に出すという雰囲気が感じられ敬遠した。だいたい、暗闇でのアウトドアクッキングでは大鍋に虫が入り放題ではないか。
食べ物を探して小さな町を歩き回ったがレストランはない。もう贅沢を言わないからせめて屋根のある場所で食事したかったが、それすらかなわぬ夢だった。
結局、今まで避け続けたアフリカ屋台モノに手を出すしかない。スパゲッティとチキンがあるというのでその屋台を選択した。(右写真)スパゲッティはぎりぎり食べられる味とみてくれ。チキンは骨に薄く肉が付いているだけだが、堅くしまった肉が意外にもいける。
容器はろくに洗われてなく衛生面は非常に問題あるので緊張しながら食べる。屋台の回りには暗闇の中、何人もの男の子たちが集まっていた。彼らはみな空の小さなバケツを首から紐で吊るし、食事中の私を近くで見守ろうとして位置取りで争っている。すると店主や他の大人たちに怒鳴られ追い立てられるのだが、すぐにまたそろそろと集まってきて怒鳴り散らされる。
私はなかなか集中して食事することができず、チキンは骨からはずすのが面倒になり僅かな肉を残し止めた。だんだん気持ち悪くなってきたスパゲティーは全部食べ切れなかった。店主に怒られ男の子たちが退散したところを見計らい、私がお勘定と言って立ち上がった瞬間、背後に残っていた子供が手を伸ばして皿を取り上げ、首から吊るしたバケツに残飯を素早く入れた。
前回のマリ旅行時、ドライブインの食堂で似たようなシーンを目撃していたためこのような事態は予想できた。しかし、二皿の残飯を手に入れた少年は、悲壮感などなくむしろやったと喜びの表情を浮かべているのが衝撃的だった。私の食べ残しが家畜の餌にでもなると思いたいところだが、間違いなくその子か家族の口に入る。
ああ、恐ろしい国に来てしまった。
[マリ]モプティ(1/2)
コロからモプティへの移動(区間ルート)は4WD用の道とされるドゴン断崖(バンカス周辺)をボロプジョーのステーションワゴンが底を何度も打ちつけながら越えて行く。砂漠色の大地に薄緑色が広がり、夢のような美しい景色に見惚れていた。やはり、マリは周辺国とは格が違う一級観光国だ。
窮屈な乗り合いタクシーの中から予想以上に美しいドゴン周辺の景色を眺め、ここで降りようかと何度も思った。しかし、そのとき私は、ジェンネの月曜市を見に行くという微かな望みを持ち続けていた。
当初の予定は、昨晩モプティに入り、モプティから日帰りでジェンネ往復(モプティ、ジェンネ間は2時間)するつもりだったのだが、コロで足止めされたのが大きな誤算だった。しかし、コロ、モプティ間はガイドブック上3時間、前日にドライバーが言ったように朝6時に出発すれば、余裕でジェンネに行けるという計算をしていた。
しかし、出発は7時半となり、特にトラブルがあった訳ではないのに時間がかかり、モプティ到着が12時を過ぎ、ジェンネ月曜市はあきらめざるを得なかった。他の選択肢を排除してジェンネにかけていただけに落胆は大きい。
やはり、余裕のない移動プランはアフリカでは禁物。
<モプティ港>
[マリ]モプティ(2/2)
<小島の集落におけるニジェール河での洗い物>
まだ、1日2回アスピリンを飲んでいないと偏頭痛を始めとした顔面の痛みに耐えられない。ドゴンへガイドなし1日ツアーに行くことを予定していたが、移動手段確保が困難で炎天下を1人だけで10km以上トレッキングしなければならないことを考えると今の自分の体調では無謀だ。
昨日、ジェンネ月曜市を逃して気力も萎えていたので、自分で意外に思えるほどあっさりドゴン行きを断念してしまった。
代わりに手漕ぎの船でバニ川とニジェール河の間に浮かぶ島の集落を訪ねた。まあ、それなりに楽しめたが、手漕ぎボートなのでそんなに遠くに行ける訳なくモプティの目の前の対岸に渡っただけである。ツーリスティックな集落という感は否めなかった。
<バニ川からモプティ側の眺め(2枚組)>
[マリ]セグー(1/2)
<天気が悪く活気もないニジェール河>
風が強く吹き、天気が悪く、肌寒いマリは想像していなかった。
前回訪れた時あんなに華やかだったセグーの河岸がこんなに寂しいとは。ツアーを売り込みにくるガイドが言うには、ここから船が出るカラブグという村で市が立つ月曜日は活気があるが、それ以外はこんなものみたいだ。
ケニア航空の運航日程変更により、バマコからナイロビへのフライトが1日遅くなっていることを知った。もっと早く知っていれば(ビザ取得を考え1日足りず断念していた)ギニアに入国していしていたのに。体調が悪いから無理せずに済んだことをラッキーと考えるべきか。
閑散としたセグーにもう1日滞在する必要がでてきた。
<バスで一緒になった裕福そうな家庭のお嬢ちゃん>
[マリ]セグー(2/2)
<トマト売りのおばちゃんたち>
パブリックボートで対岸の村にでも行こうと思ったが、全く船が出る気配がない。
しかたなく、バイクツアーでセグーから10km程度のセグーコロ(区間ルート)に出かける。遺跡や古いモスクなどが残る歴史ある村のようだがほとんど見るところがない。おまけに子どもから大人までカドー(意訳「何かくれ」)、カドーとうるさく、建物にカメラを向けただけで、写真撮るなら金出せとおばちゃんがすごい剣幕で迫ってくる。もう少し、修復や整備されればマイナースポットになりそうなのだが。
モプティでもはっとする景色をみつけられずにいたのだが、セグーに来てマリの評価を改めることにした。
マリははまるとすごいが、普段はたいしたことない、アフリカの一級観光国エジプト、エチオピアと肩を並べるほどではなく、一級半に格下げすることにした。
<セグー・コロ中心部の住居(2枚組)航空写真>
[マリ]バマコ
<バスのカーゴスペースから降ろされるやぎたち>
セグーを発ったバスは順調にバマコに到着。カーゴスペースからやぎが次々と降ろされていた。特に田舎では、人間以上の数のやぎが積まれたり、袋に入れず紐で縛っただけのやぎが載せられるため、荷物を預ける時はやぎの尿まみれになることを覚悟しないといけない。
バマコ郊外のターミナルから空港まではバイクタクシーで移動可能な距離なので、市内に入らず空港に向かう。
西アフリカはこれで終わりとなるが、マリには何か惹かれるものがあり去り難い。
<魅力的な眼をしたモプティの子>
- 顔は見慣れるのに時間がかかる。ブルキナファソより更に馴染みにくくなった。子供たちは身なりが悪く鼻を垂れ、あまりにも顔つきが貧相でなかなか撮ろうという気にならない。更にカドー、カドーとたかりにくる子供も多かったので。
- モプティ、セグーは今までの国の町と比べてはるかに外国人観光客が多く、少なくともガイドブックに載っているレベルのホテルはまともでほぼ安心して泊まれる。観光地でないコロだけが特別だった。(ニジェールやブルキナでは観光地でなくてもまともなホテルはあったのだが)
<参考図書>Lonely Planet West Africa (6th Edition)=>最新版 West Africa (9th Edition) - たばこを吸う人が結構多い。トイレ料金徴収の少年でも吸っているというのは、たばこが安いということか。(吸わないので値段を調べようとしていない)
- 道中の車窓から見える小さな集落は泥か日干しレンガで造られた建物ばかりで、あちこち崩れて遺跡のようにみえる。ヨーロッパの町にあれば、ほとんどが世界遺産に指定されてしまいそうである。
- ガイドブックお勧めのバス会社SOMATRAは他社より安いことも多いが、各駅停車で異常に時間がかかるので避けるべき。BITARが速いと言う人もいるが、車体の新しさからBANI Transportが良さそうと判断してセグー、バマコ間を乗ったがまあまあ良かった。正直なところ、同じ区間を何度も乗り比べてみないとバス会社の比較は難しい。
- ドゴン、ジェンネ、トンブクトゥのあるマリは西アフリカで一番の観光国。観光客の数が周辺国と比較にならないほど多く、ホテル、レストラン、旅行会社など観光スポット周辺では充実している。しかし、周辺国と同等あるいはそれ以上に庶民の生活は貧しくインフラ整備も地域によって後れているため、どこをどういう手段で旅をするかによって、快適度や困難度が大きく異なる。
- なんだかんだ言っても、マリは魅力的な国。再びこの国に来て、ドゴンとジェンネ月曜市とガオを訪ねたい。その際、今回のように地元民と同じ交通手段を利用するかチャーター車を用意すべきか迷うところ。
- マイナースポットをゆく(西アフリカ編/東アフリカ編)のまとめ