[ウズベキスタン]ブハラ

訪ねた娘(三女)の家族に迎えられ、そのままお宅に泊まることに。8畳間ほどの部屋が2つだけの平屋だが、広々とした中庭がある。朝晩はその中庭の一角に敷かれた絨毯の上で食事する。
暑さがやっと和らぎ、涼しさが感じられる中庭で、家族と食卓を囲む。なんとも言えぬ幸せを感じる。

ピラフ(プロフと言うらしい)の上に肉を載せるというメインにスープ、サラダ、ヨーグルト、パン、お茶、そして私が買ってきたビールとファンタがテーブル代わりのビニールクロスに載せられる。取り皿がなく、みんながスプーンで大皿から掬って口に運ぶため戸惑いがあったが、まあこの家族と一緒ならば良いか。

[ウズベキスタン]テルメズ(1)

私はブハラで3日ぐらい滞在して立ち去るつもりだった。

それがなぜかアフガニスタンとの国境の町テルメズ(現地人の発音ではテルミズ[ウズベク語: Termiz / Термиз])まで連れて来られた。

テルミズに行って山に登らないかとママから誘いを受け、私が軽く興味を示したのがきっかけのようだ。考えておくとしか返事していなかったのだが。
昨晩の話では3日後にテルミズに向かい、1泊2日で帰ってくるということだったが、朝食後、テルミズのおばの家に連絡して車も予約済なので昼過ぎに発つと言われる。断るべきか迷っていたところ、10時半に車が来て、もう出ると告げられ、文句や主張をする間もなくママと次女と3人で車に乗り込むことになった。
所要時間3時間と聞いていたのだがウズベキスタン南端にあるテルミズの家に着いたのは18時ごろ。そのお宅で昨晩のブハラなみの食事が出てディナーかと思っていたらそれは昼食で、市内観光後に他の親戚たちと共にまた食事をするという予測不能な展開が続く。

テルミズのおばの家は4階建てアパートの一室だった。ブハラの家のトイレが床板に穴を開けただけのものでシャワールームもないのだが、こちらはトイレが洋式の水洗でバスルームまであると言われ期待していた。しかし、水が出ている時間が限られ、お湯はでない。
トイレが済んだ後は台所に溜めている水を洗面器で運び流さなければならないし、シャワーはあたためてもらった洗面器1杯分の水をちょろちょろと体に流して洗った気になるだけだった。

[ウズベキスタン]テルメズ(2)

車が全く走っていない悪路を進み、ママの父が生まれたという村に着いた。牧畜で生計を立てる小さな山村だ。
ママの知人宅で、緑に囲まれた河原に絨毯を敷き、自家製ヨーグルトや近くで採れた果物などが並べられる。気分的にとても豪華な昼食だった。(写真裏)

その家の若者が道案内をしてくれ、プール状の滝壺があるというユートピアに向けてハイキングに出かける。途中から完全な沢登りになり、女性たちはサンダルやパンプスを脱ぎ、裸足で登っていく。2時間近く登ったが、途中脱落者が出たうえ、最後の関門の滝が増水して越えるのは危険だということで、目的地の手前で引き返すことになった。
これぞ絶景という場所があるわけではないが、地元の人以外は立ち入ることのなさそうな切り立った山々に囲まれた自然の中を歩く。贅沢な旅だ。

[ウズベキスタン]テルメズ(3)

食事中に裏庭でヤギを絞めるから見に来いと呼び出される。

そんなのに興味がない振りをして重い腰を上げたが、初めてだったのでかなりの興奮と共に見届けてしまう。(写真:ここだけクリックでカラー)

こんな光景を間近で見ている子供たちは、我々と異なる感覚を持って育つんだろうな。

タレントがテレビ番組の撮影で来ているかのように次から次へと親戚の家に連れて行かれる。訪れると、どの家もテーブルが豪華な家庭料理で埋め尽くされていた。ウズベキスタン人は2時間おきに食事すると冗談まじりに言っていたが、そういう状況は珍しくないようだ。

ウズベキスタンの家庭では酒が飲まれていないと思っていたが、全ての家で酒が供される。2回目の昼食が出された警官夫婦は酒が強く、明るいうちから制服姿の主人とビール、ワイン、ウォッカと準備した全ての種類の酒を飲まされる。短い時間に大量の酒を飲まされ、今日はこれで終わりかなと油断して食事もたらふくとってしまう。すると、休みなく次の家に連れて行かれ、今度は90度のウオッカを一気飲みするつわものが待ち構えていた。
ここはイスラムの国というよりも旧ソ連の国と思っていた方が良さそうだ。

<5月30日>

ウェディングだというパーティに出席した。
式は楽団による演奏がだらだらと続けられ、1時間も経つと女性たちが席を立ち陽気に踊り出す。私は席にいるとあちこちのグループから酒を勧められるので、撮影で忙しそうなフリをしていた。しかし、2時間も経つとオバさんたちに引き込まれ、一緒に踊らされてしまう。1度踊ってしまうとこっちでも、私たちと一緒にとあちこちから引っ張りダコ。
宴会は4時間ぐらい続き、もうヘトヘトだ。

[ウズベキスタン]テルメズ(4)

昨日のパーティが行なわれたお宅の中庭、客人が談笑する中、女性は厨房内で男性たちは中庭で料理をする。(写真)

私にとって、長かったテルミズ(テルメズ)の滞在が終わり、手配した車でブハラに向かう。車にはママと次女の他に、テルミズの人たちとの別れ際あわてて乗せられた親戚の男の子がいた。いったいどこまで一緒に行くのだろうと不思議に思っていると、彼はそのまま車で7時間のブハラまで同乗した。
夏休み中(5月~7月)なので、しばらくブハラの家に滞在するということで手ぶらで車に乗せられていた。この国の人たちの行動は理解できない。

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テルミズでは結局、初日にお湯のチョロ流しをしただけで、それ以降、水浴びすらしていない。ブハラの次男と一緒にハンマームに出かけることにした。観光客用のハンマームにはサウナと垢すりマッサージがあるようだが、我々が向かったのは住民用の大衆浴場。日本の銭湯ほどの広さの浴室に大量の水を放出し続けるシャワーがひとつあるだけ。裸の男達が入れ替わり立ったままシャワーを浴びて体を洗っていた。日本のように大風呂に見知らぬ人たちと一緒に入ることもなく、椅子に肌を触れる必要もないので清潔でいいんじゃない。
次男はパンツをはいたままシャワーを浴び、帰ってから中庭に張られたロープに絞っただけのそのパンツを干す。彼は週に1度しかハンマームに行かないようだが、パンツもその中身も洗われていないのが気になった。

[ウズベキスタン]ブハラ(2)

<早朝のミナレット>

ママと3人の娘たちは、食事をする居間でもある中庭の絨毯に毎晩布団を敷き、川の字になって寝ている。室内より涼しいからと勧められ、私も中庭で寝ることにした。
夜中は寒いくらい涼しく、気持ちよく眠れるのだが、早い日の出と共に日光がまぶしく、とても眠れるものではない。6時前に完全に目が覚めてしまい撮影にでかけた。

朝食の済む8時半ごろからは、中庭ではじっとしていられないほどの暑さになる。

10時ごろ、ママがバザールに連れて行ってあげるというので付いて行くと、何のことはない、買出しした重い食料を持って連れ回されることになり、猛暑による疲労も相俟って、帰ってから気分が悪くなる。

そのまま下痢と高熱が発症して寝込んでしまった。

<6月2日>

夜中まで30度以上になる酷暑の部屋で、この家にひとつしかない扇風機を独占して水だけで耐える。クーラーのあるホテルに移るよう勧める旅行者もいたが、なんとかこの家で治したい。
ママが自分の家で出した食事にあたったのではないかと心配してくれているが、テルミズであれだけ引き回され飲食し続けていたのだから、私としては良く今まで持ちこたえたと思っている。

<6月3日>

昨日は高熱にうなされ重症かと思ったが、今日は大分楽になった。横になっていれば耐えられる。24時間絶食で治すことにしよう。

<6月4日>

昨晩は再び中庭で寝た。すると、夜中に風が強く吹き込んできた後、雨がパラパラと降ってきた。乾燥地帯だから、外で寝ていても雨に濡れることはないのかと思っていたのだが、そういう訳ではないようだ。女性たちがふとんを抱えて部屋に入ったので、私も別の部屋に移ったが、中庭内の一角で寝ていた男3人は雨に濡れながら折り重なるように固まって眠り続けていた。

体はフラフラしているが、下痢と熱が完全に治まったので今日の夜行列車でタシケントへ向かうことにする。
10日間もこの家族と寝食を共にしていたことになる。私は日本で1人で生活しているので、別れは非常に辛かったが、皆が明るくあっけなく送り出してくれた。
テレビの海外滞在モノで、タレントだけでなく現地人までがお決まりのように涙しているのは、過剰演出なのでは。

[キルギス]ビシュケク

日中は炎熱地獄のようなタシケントから空路で1時間強、標高800mのビシュケクに到着すると寒さを感じる。空港の客引きたちは厚手の上着を羽織っている。

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英語を全く解さぬ空港タクシーの運ちゃんと乗車前に折り合ったつもりの金額に1ドル強の認識の相違があり大げんかになった。ホテルのカウンター前で言い争いをしていればフロントの女性が助けてくれると思ったが、運ちゃん側の言い分しか言葉が通じてないのでこちらが俄然不利だった。モンゴル相撲でもやっていたかのような強面で体格の良いドライバーは、私がいくら暴れたり大声を出しても動じない。ついに警察に行って話をつけるから車に乗れと言い出してきたため、そこまで付き合ってられない(更にこちらが不利になるのは目に見えている)ので私が折れてしまった。支払いの段階で相手の言い分を完全にのんだのは初めてのような気がする。今後、言葉の通じない相手とは紙に書いて料金交渉するという基本を守るように努めよう。

その後、ホテルの部屋を見せてもらうとトイレシャワー共同で23ドル。それだけでも高いと感じたが、更に今日はお湯が出ないという、これは値引きなしに泊まるわけにいかない。しかし、交渉を試みても全く下げられないという。街灯の少ない夜道に出てホテル探しをしたくないが、納得できぬ言い分をのみたくない。2泊にするから20ドルにしてくれと頼んでもニェット(ノー)としか答えない。
ガイドブックを見て別のホテルを探すが他に適当な候補がない。少し間をおいて、23ドルで1泊だけ泊まると彼女に伝えると、強張った表情で「ニエット」と答えた。私は気が動転して、それならば1泊23ドルでいいから2泊ならいいかと尋ねても、ニェット。
『1泊もニエット、2泊もニェット。あんたみたいに宿泊費を値切ったり、タクシードライバーとトラブルを起こすような人はニェット』
彼女は顔を紅潮させ、このような内容と推測されるニェット連発のロシア語を言い放ち、私は締め出されてしまう。
かつての中国メイヨー(没有)攻撃を思わせるソ連式ホテルのニェット対応であった。

ソ連式ホテルのニェット対応を受け、途方にくれて宿探しをすると、裏通りに手頃なホテルをみつけることができる。値切り交渉も通じてトイレシャワー付きのシングルが20ドル。ボロ宿で対応の悪いソ連式ホテルに泊まることを考えるとかなりラッキーだった。
しかし、このホテルでも街の事情によりお湯が出ない。せっかく涼しい街に来たのに水シャワーはつらい。

<6月6日>

ウズベキスタンに長居したため、キルギスは2泊3日しか滞在できなくなり、予定していた湖畔の町を訪れられなくなった。代わりにビシュケク郊外で平原に遺跡が点在するソグド人の都市遺跡に出かける。
最もメジャーなのが傾いた塔ブラーナ(写真裏)でその近くにあるお地蔵さんのようなバラサグンの石人(写真表)にも玄奘三蔵にゆかりがあるという遺跡にも何も感じるものがなかった。

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それほど大きくないビシュケクの街の観光を簡単に終え、何か旨いものを食べて記念にしようと、ガイドブックに載っていたレストランに入る。メニューが全くわからないのでお薦めを頼むとマトンの臓物煮込み料理がでてきたが、臭みがありすこぶるまずい。支払時にずいぶんと高いので文句を言うと訂正して3割下がり、まだ高いと言うと更に2割下がる。言い値だから仕方ないがぼられているのが明らかで気分が悪い。

翌朝のホテルチェックアウト時、英語を話さない主人が金が足りないと言ってきた。1日20ドルで2日分もらっているが、今日は3日目なのであと20ドル必要だと主張しているようだ。なんだとと睨むと10ドルでいいと言ってくる。いいか、ホテル代というものは1泊目、2泊目という単位で宿泊費を払うものなんだぞと私は紙に日にちと時間軸の線を引きながら声を荒らげ、このとぼけたおやじに余計なエネルギーを費やす。
いいがかりをつけ、あわよくば少しでも多く金を取ろうとする輩たち。印象の悪い街だ。

[アゼルバイジャン]バクー

地下鉄のポリスチェックで高額紙幣を抜き取るという噂は本当のようだ。

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少し後れた国の空港では、高いだけでなくトラブルの多いタクシーを利用したくない。ここバクーでもかなりふっかけてくるという噂。初めての国で最初の移動は不安と緊張を伴うものだがバスを探すことにした。
空港ビルの外でしつこく寄ってくる運転手たちを無視して周辺を見回していると、ビルの端の方に乗り合いミニバスと思われるワゴンが走り出すのを発見。駆け寄ると停車してドアを開けてくれた。満席だったが通路スペースに中腰になったまま乗り込む。よしっと、次はどこで降りるかだ。バクーには空港から市内まで直接向かう交通機関がないとガイドブックに書かれている。どこかで乗り換えなければならない。20分ほど走り、人込みの多い場所で停車した時、大きなMの字の看板を発見。これは地下鉄のサインではないか。ミニバスを下車すると確かに地下鉄があるようで駅に向かい階段を下りる。これで市内に入れるとほっと安心していた。

階段を下まで降りると制服を着た警官から声をかけられた。聞こえない振りをして通り過ぎようとしたが、「ポリスコントロール」と大きな声を出し歩み寄ってきたので応じた。

歩き方ガイドブックへの投稿によると、「バクーでは地下鉄の駅で外国人を対象にしたポリスチェックが行なわれ、そこで高額紙幣を抜き取られる事件が多発している。日本のパスポートを見せると確実に個室に連れていかれるので、提示を求められても決してパスポートを出さないように現地大使館から指示されている」とあった。しかし、私の場合、パスポートの提示を求められる前に私服のおやじが現われ、個室へと連行されてしまう。
個室で背の低いおやじと2人きりになり、荷物チェックが行なわれる。確かに彼は現金にしか興味がない。私は財布を含めて4ヶ所に現金を分散していたが、プロである彼はあっという間に全てを探りあてた。そして、彼は紙幣を1枚1枚チェックする。「なぜ、そんなことをする必要があるのだ」と尋ねても「ポリスチェック、ポリスチェック」としか言わない。彼らは優れたマジシャンのごとく旅行者の目の前でも紙幣を抜き取るとのことなので、彼が枚数チェックする間、私はずっと紙幣のはじを強く押さえていた。
すると、いらいらした彼は紙幣のすかしをチェックする必要があると言い出してきた。もうこの時点で旅行者は強硬に拒否するか場所を替えて行なうよう要求する権利があるだろうが、彼のお手並みを拝見しようかと思い、私が手渡す紙幣を1枚ずつ行なうよう求めた。
後進国におけるこの手のケースで経験することだが、何か悪いことをしようとする警官には威厳がない。彼は私から渡されたドル紙幣を蛍光灯に透かし、最もらしく覗き込んでいる。
「うーん、ちゃんと透かしが入っているようだな」
「そうなんだ。じゃあこっちはどうなの」
「ああ、こっちも問題ないようだ。ちょっと、そっちの紙幣もチェックさせてくれ」
「ええ、君、日本円の透かしもわかるんだ、すごいねー。いいけど、1枚ずつだよ」
警官を幼い子供のようにあしらっていると、彼はあきらめ、被害を受けずに解放された。

たまたま運が悪かっただけかもしれないが、入国まもない時点でこのような不愉快な対応をされ、アゼルバイジャンというひどく後れた国を旅する気がすっかり失せてしまった。

<参考図書> 地球の歩き方 ガイドブック A31 ロシア 2006~2007 =>最新版 2018~2019

<2007年6月8日>

<カスピ海遊覧船から見えるバクーの街>

トビリシまでの夜行列車のチケットを取るのに3時間かかった。昼休み時が重なりタイミングが悪かったのかもしれないが、そもそもこちらの人は列を作ろうとしない。窓口の幅いっぱいに5、6人が横に並び、待ち客が増えるとそれが2重3重になり、後方からでも窓口に手を差し込み大きな声で叫んでいる人が先に処理される。窓口のおばさんたちも処理しやすい者やうるさい者から受付けていくようだ。

割込み処理にじっと耐え、やっと自分が窓口正面になり、用意したメモを差し出しながらザーフトラ(明日)、トビリシと声を出すとこの窓口ではない何番に行けとたらい回しにされる。結局、4つ目の最も混雑した窓口で1時間待ち、やっと切符を発行してもらうことができた。

切符を購入するだけで1日分の気力を使い果たしてしまった。

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キルギスの宿はひどかったが、同じく旧ソのこちらのホテルも劣悪だ。
バクーはカスピ海の石油産業に沸き、物価が高騰している。私が泊まれそうだった中級ホテルは改築され1泊200ドル以上になったりしている。中心部に適当な宿が見つからず、結局、老朽化の割に宿泊費が高く、サービスが最悪なソ連式ホテルを取ることになった。

トイレットペーパーがないので、部屋のドアを開けて廊下をのぞくと、掃除婦がいたので要求する。すると、彼女は一緒に来いという風に歩きだし、階段を下りる。下の階の踊り場まで降りると、最も奥にある部屋に向かって彼女が大声を出す。すると、その部屋からたばこをくわえた女が顔を出し、手でこっちに来いと指図する。私は自分の部屋のドアを半開きにしたままであることを気にして、遠いその部屋まで小走りで行く。そこは掃除婦たちの控え室で、女は私に部屋の入口で待つよう指示すると棚からトイレットペーパーを取り出し、たばこをくわえたまま私に渡す。
偉そうな態度の女たちにロシア語で「こっちは客だぞ。てめえが部屋まで持って来い!」
と、怒鳴りつけてやりたかった...

<2007年6月9日>

バクーでは、乙女の塔(航空写真)などがある世界遺産の旧市街に期待していたが、迷路状になっただけの古い街並みに雰囲気も味わいもなかった。

拝火教寺院を見に郊外電車に乗っている時はワクワクしたが、あとは海と大都会があるだけで外国人観光客が楽しむ街ではなさそうだ。

繁華街でカタコトの英語で愛想良く声をかけてきたケバブ屋でシャワルマ(ピタにはさむドネルケバブ)を頼む。できあがってから要求してきた金額が高いので、何でだと言うと、わかった特別に安くするよと半額にする。まだ高いと言っても、あんたのリクエストが特別だから高いんだと言ってつっぱねる。
ミニコンビニで水の値段を確認して高いのでやめようとすると半額になる。ビシュケクのように、どこの店に行ってもよそ者はふっかけられているような気がして、食事や買い物が面倒になってしまう。

さっさとこの街もこの国も出てしまった方が良さそうだ。

[ジョージア]トビリシ

トビリシはナイフなどによる傷害を伴う強盗が多く安全でないという『外務省安全情報』を読んでしまったから、そういう目でこの街を見てしまう。駅前は物乞いが多く、いかにも旧ソといった暗い表情の男たちにじろじろ見つめられ危険を感じる。

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夜行寝台でトビリシに入った。2等寝台の車両はウズベキスタンで乗った寝台車と全く同じつくりで二段ベッドの向かい合わせ。そして、今回も恐怖の上段ベッドになってしまった。何が恐怖って、上段ベッドというものは天井からつるされたひもか柵が付いているものだと思っていたが、この寝台車の上段には転落を防止するものが何もない。ちょっと揺れただけでも簡単に下に落ちてしまいそうなのだ。
ウズベキスタンの寝台車では、シーツをロープ状にして、壁に付けられた取っ手と自分の胴体を結びつけて眠っていた。しかし、今回の寝台車にはシーツがなく(有料で配布されていたことを後で知る)、壁の取っ手が壊れていて対策のしようがない。熟睡しないよう気をつけながら、体を壁側に押し付けて横になるしかないのだ。

寝台列車が国境を越えるのに出入国合わせて3時間停車する。ジョージア(グルジア)側の駅から列車が動き出し終着トビリシまであと1時間という時、トイレに向かうため車掌室前を通ると、テーブルに1.5Lのビールボトルを置き完全にできあがった車掌に絡まれた。彼らは、どこの国の人でも少しぐらいロシア語を理解できると思っているから疲れる。あんたが英語の数字も言えないくらい、我々はロシア語はわかりません。

危険だと思っていたトビリシだが、目抜き通りに出るとぐっと垢抜け、バクーと比べ驚くほど美形の女性が多い。食堂や食品店は明朗会計でバクーのようにぼられている気はしない。

旧市街は教会が多く、なかなか良い雰囲気。
聖体礼儀を行なっている教会に入ると、髭面や見た目ワルそうな面構えの青少年が十数人、窮屈そうに後方の角に固まっていた。いったい何をしているのだろうと気にしていると、神父の聖体礼儀の後にその男たちが聖歌を始めたのだ。キリストやマリアの絵が控えめに描かれた教会の壁を撫でるように、彼らの美しいハーモニーが流れていく。
街の人々に交じり迷彩服姿の若者たちも真剣に祈りを奉げる姿をみていると、信者でない私までも清らかな気持ちになる。

信仰厚い人たちが多い街で凶悪な犯罪が許されるとは思えないのだが。

<2007年6月11日>

<メテヒ教会航空写真/街中の古い教会(2枚組)

街中に川が流れ、崖や丘の上に教会や城跡があり、石畳の道や赤い屋根の家並がある。中欧や東欧の古い都市の典型的パターンだ。メテヒ教会周辺(写真表)の気持ちの良い空間が気に入っていたが、他のエリアを歩き回っているとどうも広がりというか奥行きが感じられない。ジョージア(グルジア)正教の教会がどれもシンプルで同じ形をしているせいだろうか。

[ジョージア]ムツヘタ

<スヴェティ・ツホヴェリ大聖堂(2枚組)航空写真

世界遺産の古都ムツヘタは、トビリシからマルシュルートカ(乗り合いミニバス)で20分ほど、あっけなく着いてしまう。(区間距離20km強)

教会内部には渋い壁画や装飾が施され、なかなか良い。

平日にもかかわらず、大きな教会には貸切バスなどで子供連れの団体が多く訪れ、聖体礼儀に参加したりお祈りしたりしている。トビリシ市内も含め教会は、いつでも信者で溢れている。

トビリシの街歩きや交通機関の利用に大分慣れてきた。地下鉄駅の路線案内図にさえタイかミャンマーのような奇妙なジョージア(グルジア)語の文字のみで表記され、かなり面食らったが、アルファベット文字に1対1対応しているようだとわかってきたので、乗り合いバスの行き先表示も一部読めるようになってきた。(例えば、tbilisi -> თბილისი)

[ジョージア]カズベキ

ジョージア(グルジア)軍用道路を北上して国境前の最後の町がカズベキ(あるいはカズベギ)。カフカス山脈の山々が間近に迫る町だ。

カズベキの美形の女性から声をかけられた。学校で習っているというカタコトの英語を話す。最初、恐る恐る接していた彼女がだんたんと大胆になる。私の折り畳み傘を手に取り、こんな凄い傘を見たの初めてだと乱暴に扱い、一緒にいた友人とはしゃいでいた。

写真を何枚か撮って見せると喜び、自分の写真が1枚もないのでプリントして送って欲しいという。しかし、住所を書くように私が何度言っても自分の名前だけで大丈夫としか答えない。
誰か大人にこちらの郵便のしくみを確認したいのだが、宿の主人も含めて出会った全ての人が英語を話さないのだ。

毎日、ロシア語攻めでへとへと。語学センスがある人なら、とっくに簡単な会話はできているだろう。

<後日談>

宛名に女性の氏名、カズベキ、グルジアとだけ書いてポストカードを送ったら、無事受け取ったというEメールが彼女から届いた。
(私は今まで知らなかったのだが)はがきは70円切手を貼ってそのままポストに投函すれば全世界どこでも配達してくれるそうだ。今後は、住所が明確でなくてもダメモトで送付するようにしよう。(2008年9月17日)

<さらに後日談>

携帯を買ったと言って2年ぶりにメールが届いた。メールのやりとりをしてわかったことだが、知人(親戚?)が郵便局に勤めていて、彼女宛の郵便は彼が届けてくれるそうだ。(2010年12月4日)

<2007年6月14日>

すぐそこに見えているのにそこだけ別世界。万年雪に覆われたカズベキ山は5,033m。
カズベキ村が1,750m(GoogleMapsの標高はカズベギ村より400m高いツミンダ・サメバ教会)なので標高差三千メートル以上あるのだが、雪さえなければ気軽に登れそうなほど間近に見える。
しかし、青空が広がっていても日中はカズベキ山だけ雲に覆われ、滞在中に姿を現したのは日暮れ前と日の出直後のいずれもほんの一瞬だった。

<カズベギ山/隣のゲルゲティ村(2枚組)1枚目左上2枚目右上の山頂にツミンダサメバ教会(航空写真)

[アルメニア]アラヴェルディ

<台地上の団地/団地を見下ろす(2枚組)航空写真

ジョージア(当時はグルジア)との国境からバスで1時間、世界遺産の教会があるアラヴェルディに立ち寄ったのだが、実に奇妙な地域だった。険しい山に囲まれた渓谷沿いに中心の街が広がり、両側にテーブルマウンテン状の台地があって、広大な平地に団地が密集した村が点在する。

街道の通る川沿いの地域と台地との標高差は約300m、その斜面はほとんどが人道も作れないほどの断崖で、少しでもなだらかな斜面を使ってつづら折りの車道が作られている。まるでイエメンの要塞村を団地化して発展させたようだ。いくつかの台地に点在する教会や修道院に向かうと、それぞれのアプローチに驚きの光景がある。

ホテルのある集落は、街の中心部分から標高差250mぐらいをロープウェイで登った南側の台地上にあり、そこは5、6階建ての集合住宅が集まった団地になっている。最初はほとんどが廃墟と化した建物かと思っていたら、多くの部屋に人が住んでいる気配がある。しかも、町の中心産業である銅山に勤める人から、牧畜や農業を営む人まで、様々な職業の人たちが同じ団地で生活しているようなのだ。
この団地の後背斜面を100mほど登ると、いくつかの台地上の村や奇妙な稜線をみせる山なみが見渡せる。世界遺産の修道院よりも、はるかに興味深い光景だった。

<6月16日>

こちらから声をかければ、誰もが言葉が通じない旅行者の意図を理解しようと努力して、何かしらを教えてくれる。
カメラを向けると、老人から子どもたちまで快く応じ、スパシーバ(ありがとう)と礼まで言われてしまう。
道端でさくらんぼ採りをしているお子さまたち(2枚目写真)を撮影した時は、お礼にと両手いっぱいのさくらんぼをいただいてしまった。
あまりに心地良い町なので、2泊することにした。

[アルメニア]エレバン

<緑の中のゲハルト修道院/修道院内の聖体礼儀(2枚組)

世界遺産のゲガルド修道院(あるいはゲハルト修道院)はアプローチの緑が美しく、観賞に値する自然環境の中に立地する。更に修道院内ではお香のような煙が充満する聖体礼儀が執り行われ、聖歌が絶え間なく流れる様はまるでオペラ劇を見ているようだった。

アルメニア人はなかなか良い。愛想が良く、べたべたしすぎることがなく、ワルそうな人に出会うことも(たまたまかもしれないが)ない。私が今まで旅した国の中で、人の良さは一番かもしれない。

これはアルメニア教の教えによる影響が大きいのか、もともと民族が持っていた人格からくるのか、あるいは現在の政治や経済のバランスがたまたま穏やかな人々をつくりあげているのか、学者が研究すべきテーマになるのでは。

[アルメニア]ギュムリ

<緑の大地に孤立するマルマシェン修道院航空写真

国境近くのギュムリで宿を取り、隣村にあるマルマシェン修道院を訪れる。

緑の絨毯に赤い石トゥーフで造られたという教会が映え、悪くない。
だが、それよりも印象的だったのはアルメニア人の人の良さだった。

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隣村へのバスの乗客たちは最初は静かだった。私がバスに乗り込みマルマシュン?と尋ねても微かに頷くだけだ。
ほぼ満席でターミナルを出発したバスは、途中ギュムリ市内で客を乗せると老人や女性たちが乗り込むたびに男たちが席をゆずっていく。最後部席に腰掛けていた私も、恰幅のよい婦人が乗り込んだ際に席をゆずった。
明るい彼女はいったいどこから来たんだという風に話しかけ、私がアルメニア語もロシア語も話せないことを伝えると、何やら冗談を交えてまわりを笑わせていた。すると、今まで私に興味のない素振りをしていた乗客たちが、一斉に私に視線を向け、堰を切ったように話しかけてくる。
「どこへ行くんだ」とみんなが尋ねています。今まで黙っていた隣の男性が英語で教えてくれた。
それからは、乗客たちからの質問攻めに合い、お互い議論しながらアドバイスしてきた。まとめると、終点のマルマシェンで折り返すこのバスがギュムリに戻る最終になってしまうが、村内にタクシーがあるからなんとかなるだろうということだった。

修道院までタクシーを利用すべきだという意見もあったので、バスを降りてから探してみたが、村内にタクシーらしき車は見つからない。陽が沈むのが21時ごろとはいえ、もう18時過ぎ。バスの終点からひと気のない道を歩き不安を感じていた。
30分ほど歩き、緑の絨毯に映える赤みを帯びたマルマシェン修道院に近づいてくると子供たちの歓声が聞こえてきた。修道院の周辺でいくつかのグループがアウトドアパーティを行なっていたのだ。みな帰り支度を始めているころだった。その中で貸切バスで来ていたグループと仲良くなり、鍵を開けて修道院内を見せてもらった上、ギュムリに帰るバスに乗せてもらうことになる。車内ではパーティで余ったお菓子やきゅうりなどを次から次にごちそうになった。


市内に入ってから貸切バスを降り、中心部に行くと教えられたミニバスに乗り換え終点に着いた。鉄道駅の近くだというのでホテルまで20分ほどの距離と思われるが道が全くわからない。すると、ミニバスを降りた乗客の中に英語を話す青年がいて、案内してあげると付いてきた。
ギュムリに仕事で来ていた彼はホテル名や通り名から人に尋ねて案内しようとしているのだが、私が通り名を知らないだけでなくホテル名すら誤って記憶していたのでなかなかみつけられない。大きな広場に行けばホテルの場所を思い出すと青年に伝えたが、ギュムリには大きな広場がいくつもあった。
彼が10人以上に尋ねてくれたおかげで、私が正しいホテル名を思い出し、40分以上かかってホテルに着くことができた。彼が途中で何度かコーヒー飲みたくないかと私に尋ねていたので、当然ながらこれは彼の要求であり、これだけの労力は夕食のごちそうに値するのかなあとホテル前で考えていた。
「ちょっとこれ持っていて」と彼が言いながらズボンのポケットから取り出した数枚のコインを受け取った。
「途中でコーヒーをごちそうしようとしたんだけど開いている店を見つけられなかった。代わりにそれを受け取ってくれ」
「ちょっと待ってくれよ。私が助けてもらったんだから、私がごちそうしなければならないのに。夕食を一緒に食べない?」
「いや食べたくない。もう遅いから帰るよ。いいからそのお金はしまってくれ。その代わり私の顔と名前だけはずっと覚えておいてくれ」
彼がもう一度自分の名を言うと逃げるように立ち去ってしまった。
感謝する、君のことは決して忘れないと伝えたのだが、ホテル名も覚えられない私は、彼の後ろ姿を目で追っている間に名前だけでなく顔すらもおぼろげになってしまった。
日本でアルメニア人に会ったらコーヒーをごちそうするよ、髭面だった(かどうかも記憶があやふやな)彼にそう誓った。

[ジョージア]ヴァルジア->アハルツィへ

<ヴァルジア洞窟都市(2枚組)

ヴァルジアは修道院を兼ねた岩窟都市の遺跡、ミニ・カッパドキア。
広大な規模を誇るカッパドキアとは比べるべくもないが、奥深い山肌に残された遺跡は十分楽しめる。意外にも地元観光客と思われるグループが数多く訪れていた。

<多民族(トルコ/東欧/露系)国家を象徴する顔だちのお子さまたち>

小高い丘に城塞(航空写真)があるアハルツィヘはこぢんまりとした面白味のない町だが、人は悪くなさそう。アルメニアでもそうだったが、東洋人が歩いていると町の人々から無遠慮な興味の視線が浴びせられる。子供や青年たちは何かしら声をかけてくることが多い。

カフェで食事を済ませ外に出ると、見た目にいかにも町のワルといった感じの青年たちがたむろしていた。ハローと声がかかり、男たちの視線が集中する。絡まれるのかと身構えると、リーダー格の男が英語で話した。
「何か困っていることない?オレたちが助けてあげるよ」
うーん、よくできた青年だ。

[ジョージア]クタイシ

雨の中訪れた世界遺産の大聖堂(バグラティ大聖堂の航空写真)や修道院はどちらもそれほどのものでなかった。さらにジョージア(グルジア)第2の都市でありながら、街中にまとまなホテルがひとつもないとは何たることだ、と文句を言いたいところだが、美しい女性に出会えたことで思い出深い街となった。

難民(どこからかは不明)が多く滞在するが泊まれるとガイドブックに記載されたクタイシホテルを探し当てるが、既にホテルの機能を失っていた。しかし、そこの住民らしき若い女性に英語で話かけられ、彼女は抱えていた赤ん坊を居合わせた別の住民に預けると、近くにあるというホテルに案内してくれる。薄暗いホテルを出て間近に彼女を見ると、クタイシで一番ではないかと思えるほどのべっぴんなのだ。

彼女が連れて行ってくれたホテルは表に何の表示もなくビルのごく一部の部屋を利用していた。民泊の類かもしれない。人から教えられただけでは到底たどり着くことができない。彼女はホテルに導いてくれただけでなく、女主人の通訳をして、さらに値引き交渉まで真剣に行なってくれる。なぜ、そんなことまで。アルメニアでも何度か驚かされた、過剰とも思える親切をとろけそうな美女から施される。私が表現しきれぬ感謝の意を述べると、別れ際に彼女から握手を求められた。天にも昇る想いだ。

<6月21日(バドゥミ)>

雨が降ったりやんだりで、ところどころ道が水で溢れている。
国境近くの街バトゥミは観光ポイントがないので通過すべき。立ち止まっても黒海が見えるだけ。(バトゥミ港の航空写真

<ジョージア(グルジア)めも>

トビリシ、クタイシで少し身構える地区がある以外は、危険を感じなかった。事前に脅されていなければ、普通に歩いてしまっただろうという程度。
アルメニアほどではないが、概ね人は良い。トビリシ以外には、タクシーの運ちゃんを含めて、観光客から搾取しようと考えている人もなさそうだ。
その代わり、町によってはまともなホテルや交通機関が少ないため、観光に不便を感じる場面が多そう。
バスターミナルなどの公衆トイレは汚い。アジア農村、アフリカなみ。見た目も恐ろしいが、一瞬で気絶しそうな強臭を放つトイレも少なくない。個室はオープンが基本。

[トルコ]パムッカレ

<パムッカレ石灰華段丘(2枚組)

水が流れる石灰岩の上を歩いたり、壁を滝状に落ちる水に打たれたり、遺跡が底に沈む天然のプールで泳いだりできるなど、自然文化遺産がアミューズメント化されている。土曜日、家族連れで集まったトルコ人観光客は大はしゃぎだ。

<夕陽を浴びるヒエラポリスの円形劇場>

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ドミトリーには泊まらない私の宿泊代最低記録更新。5ドルで部屋が清潔、ダブルベッドで、更にトイレシャワー付き。トルコはなんて部屋代の安い国なのだろうか。一軒目のホテルで特に値切らずにこの値段だ。

今回、パムッカレだけはカバーしたいと思い、10年前のガイドブックのパムッカレのページを切り取り持ってきた。その宿に美人の娘がいると書かれているので来てしまったが、10年以上も経てば、そんな娘がいるわけない。
主のじいさんは、私のガイドブックを覗き込み、そこにいくらと書いていると尋ねるので、5ドルですがと答えると、じゃあ5ドルでいいよと無気力に言われ、泊まることにした。クーラーも扇風機もないということ以外はほとんど問題のない快適な部屋だった。

しかし、その日は特別に暑かった。夜になり室内はどんどん気温が上がり、35度近くになっているのではないだろうか(あくまで推測)。こうなると、窓を開け放っても、水を頻繁に飲んでも、ベッドでのたうち回るほどの暑さだ。室内に水を巻いたり、風が入り込む窓に濡れたバスタオルをかけただけでは効果が感じられず、最後はベッド上に水を撒いた。さすがにひんやりとして眠りにつけたが、2時間もすると完全に干上がり暑さで目を覚ましてしまうのだった。

<6月22日(前日)トラブゾン>

トラブゾンは10年ぐらい前に訪れ観光しているので、中継地として立ち寄った。ここからアンカラ乗り換えでパムッカレまでバスで向かうつもりだったが、くじけた。アルメニア、ジョージアの悪路で腹を攪拌され、完全に壊れてしまった。国境からトラブゾンまで乗ったバスがはずれだったのか、時間がかかり、何やらトラブルが発生したとかで、最後はくそ暑いミニバスに押し込められてしまい、トルコのバスの印象がよくなかったのだ。

航空券を求めて旅行会社で尋ねると、パムッカレ(デニズリ)までの直行便はなく、接続便の中で料金が半額近くになるものは深夜2時トラブゾンを発ちトランジットのイスタンブールは朝7時に発つというもの。それでも、バスで行けば、乗車時間だけでも合わせて20時間だから、はるかに楽なはずだ。

[トルコ]エフェソス

エフェソス(エフェス)は巨大な劇場跡が目を引くが、それほど感動的なものはない。

ローマ系やギリシャ系の遺跡はどれも同じように見えてしまうので私の好みでないというだけなのだが。

それにしても暑い。トルコはこんなにも暑い国だったのか。日差しが異常に強く、大地が鉄板のように熱せられている。

<6月25日(イズミール)>

暑さでバテぎみで、胃腸の弱い私にとって禁じ手のコーラがぶ飲みをしてしまっている。大都会(人口400万近いとも言われる)のイズミール(街の雰囲気は航空写真で)のデジタル温度計によると、19時でも35度。日が長く、夜になっても温度が下がらない。
ここまでくると、東京の蒸し暑さの不快感を超えるものがある。

最後の夜は腹が下ることも覚悟のうえ、トルコ料理とビールで満足して今回の旅を締めたいと思った。しかし、トルコ料理のレストランを何軒訪ねても、ビールを置いている店を発見できない。隣の店から缶ビールを買ってきて、店内で飲みながら料理を食べて良いかと質問して、トルコ料理のレストランでビールを飲むことは当局より禁止されているということを知らされる。他の街では何の問題もなかったのにイズミールだけの規制なのだろうか。
仕方ない。ビアホールでジョッキの一気飲みをして、その感触を保ったままレストランに走り、調理済みの料理をほおばり、食べ物が喉周辺に滞っている間にビアホールに駆け込む。
全くもって不満足この上ない。

<6月26日>

夜行バス9時間(ルート)でイスタンブールまで向かうことも考えたが、バス25ドルに対して飛行機のディスカウントチケットが50ドルからあることがわかり、安易な手段を取る。(確認した限り)どの長距離バスにもトイレが付いていないのが、暑さで胃腸ぼろぼろの虚弱な私にはつらかったのだ。

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