国別アーカイブ:ウズベキスタン ( 13件の日記 、ページ 2/2 )

シャフリサブス

<アク・サライ宮殿(1枚目)/バザールでナンを運ぶ(2枚目)

サマルカンド2日目は、車で2時間程度のシャフリサブス(シャフリサーブス)往復を目指す。バスはないので乗り合いタクシーを探すが、警官、タクシー運転手、街の人々に尋ねても、そんな車はないとしか言わない。英語がほとんど通じない人々だが、しつこく何人にも尋ねているうちに状況が見えてきた。朝の遅い時間のためシャフリサーブス行きはもう出ないが、途中のキターブまでならタクシーが出ているだろう、ということだ。
更に時間をかけて、キターブ行きの乗り合いタクシーが出る場所を発見できた。私を含めて3人の客が待っていたが、30分待っても4人目が集まらない。客も運転手もじっと4人目の客が現れるまで待ち続けるのは明白だったので、私が2人分の料金4ドルを出し、出発してもらうことにした。私は旅行資金を低く押さえたいのではなく、時間に余裕があるときは地元の人と同じものに乗りたかっただけなのだ。
シャフリサーブスには、宮殿、モスク、博物館など手頃な観光施設が歩き回れる距離に集まっている。ティムールが残した最も壮大な建築物と言われるアク・サライ宮殿の入口に幼児を抱いた母親がいた。白いドレス姿の赤ん坊が愛くるしかったので、写真を撮っていいかと尋ねると、母親は幼児の衣服と髪の毛を整えて抱き上げてくれた。

観光で訪れていた母親たちと一緒に宮殿アーチ跡の階段を登る。40mの高さを上がる急な階段はただ登るだけでも大変なのだが、子供を抱いた母親は大汗をかいていた。一番上の展望所からティムールの像が立つ公園やザラフシャン山脈の山並を眺めていると、日本人の団体が階段を上がってきた。なぜか高そうな一眼レフのカメラをぶら下げた人が多い。
団体の1人の女性がかわいい赤ちゃんと言って、私と一緒に登ってきた幼児を撮らせてもらっていた。すると、本当、かわいい、かわいいと言いながら、次々と男女のカメラマンたちが断りもせず赤ん坊を撮影しだした。最初は喜んで応じていた母親も撮影者が10人ぐらい続くとうんざりとしていた。彼らに撮影させるためにこの階段を登ってきたような気にもなる。
私はこの団体から離れ、公園を歩いていた。ティムール像の前で新婚カップルが親戚友人に囲まれて記念撮影をしていた。結婚式の時はどの国でも写真に対して寛容になるものだ。私は断りもせず、どうどうと彼らの中に割って入り、さもプロカメラマンであるかのように撮影していた。
しかし、その状況を日本人団体に見つかった。彼らの1人が駆け寄り、私の真似をして撮影を始めると、10人のカメラマンが押し寄せ、親戚友人を押しのけるように新郎新婦を撮影していた。みなさーん、お昼に遅れますよー、早く集まってくださーいという添乗員の声に団体カメラマンは、どどっと走り出し、某市医師会と表示されたバスに乗っていった。
私の場合は交通手段こそ異なるが、観光のしかた、写真の撮り方、金の使い方は彼らとあまり変わらない。私のような旅行者が団体となれば、地元の人々が迷惑を感じる。気づいていたことだが、そのことを目の当たりに見せられショックを受けるのだった。

ブハラ

<カラーン・モスク>

<カラーン・ミナレット>

2日目、ブハラに入る。9世紀から、中央アジアにおけるイスラム世界の文化的中心として栄えたこの都市は、現在でも大きな街が栄え、イスラム関連の施設が点在する。街のシンボルであるカラーン・ミナレット周辺は、モスク、公園、商店街が並び、散策するだけで楽しい。

ヒヴァ

<世界遺産ヒヴァのミナレット(2枚組)

ウズベキスタンの首都タシケントへはウズベキスタン航空が成田から関空経由で週2便運行される。ゴールデンウィークに運行された機内には、往復の便とも同じ顔ぶれの日本人旅行者で埋まっていた。観光客のほとんどは、1週間の旅行でヒヴァ、ブハラ、サマルカンドの世界遺産がある3都市をカバーする。各観光地では機内でみかけた日本人に何度も出会うため、修学旅行のフリータイムに個人行動しているかのようだった。

早朝タシケントに到着後、そのまま国内線に乗り継ぎ、トルクメニスタンとの国境近くにあるヒヴァに入る。ここでは全長約2kmの城壁に囲まれた町全体が16世紀の姿のまま保存されており、そこにモスク、ミナレット(モスクに付随する塔)、メドレセ(神学校)といった見どころが凝縮されている。この城壁内に残る古い建物の多くが博物館や土産屋として利用され、全体的に観光地としてよく整備されている。しかし、それゆえ現地の生活感がなく、更に地元の人々の顔つきが我々によく似ているため、中央アジアの辺境の地に辿り着いたという印象はない。そのうち観光バスが到着して、日本人旅行者の姿が増えてきた。
日本から遠く離れたヒヴァは私にとって憧れの観光地であったが、心躍るものを見つけられないまま、日本人に追い立てられるように早々に立ち去ることになった。