タグ別アーカイブ:小トラブル ( 13件の日記 、ページ 1/2 )
[クウェート]クウェート
<クウェートタワー(航空写真)>
12月のクウェートはひどく寒かった。
クウェートは40度を超す暑さが厳しい国という認識しかなかったので、深夜便で到着した時は面食らってしまった。 空港の外に出ると、まっすぐ立っていられないほど風も強く、早朝の体感温度は零度以下だったかもしれない。(後日確認したこの日の最低気温は7度。12月は最低気温が0度になる日もあった)
南アフリカのたびに持ってきた荷物には軽量ダウンや雨具などもあったが、立ち寄ったドバイの友人の家に置いてきてしまった。これは大失敗。
陽が差して風が弱くなるまで、空港のホールでブルブル震えながら堪えていた。
街中はひっそりとして広大な砂の空き地が多く、予想はしていたが実に寒々としている。
観光スポットとして最もメジャーなクウェートタワーは、昔は登ることができたようだが今は敷地内に入ることも許されない。周辺に観光客の姿はなく、海沿いの公園に人影はない。街中の立派なモスクを外から眺め、あとはかろうじて人の気配があるスーク周辺を歩くぐらいしか楽しむことがない。(帰国後ネットで確認するとグランドモスク内部が一番の見どころのよう。「地球の歩き方」で内部見学は要予約となっていたので訪れなかった)
<参考図書>E01 地球の歩き方 ドバイとアラビア半島の国々 2010~ => 最新版 2018~2019
クウェートは宿代が高いのでドバイやドーハなどから深夜便を使った日帰り訪問で十分かも。
<クウェートスーク>
出発直前、UAEから中東湾岸諸国訪問のルートをLCC中心に検討したところ最も安かったのが、ドバイ-クウェート間をflydubaiで往復(615AED)、ドバイからバーレーン経由カタールの往復をGulf Airで(915AED)という無駄が多いルートだった。(全区間の青線を全て往復)
十分に調べもせず、クウェートへの移動にflydubaiを選択したのが失敗。flydubaiはドバイでもクウェートでもターミナルがメインと隣接した別のターミナルというところまでは理解していたが、交通の便がすこぶる悪いのだ。
クウェートのflydubai専用空港では誰に尋ねても、バスは市内行きもメインターミナル行きもないと言われる。路線バスが出ているメインターミナルは地図上で近そうなので歩き始めると軍の施設が行く手を阻み7kmほどの大回りが必要と分かり断念。結局5KWDでタクシー利用。翌朝、市内のホテルから空港までのタクシーは少し値切って4KWD。
この高額なタクシー代だけでも痛かったのに、ドバイでは乗り継ぎミスまで起こしてしまう。
ドーハに向かうためドバイでGulf Airに乗り換えるのだが、この乗り継ぎ時間がもともと1時間50分しかなかった。1時間勘違いして予約してしまいe-ticket印刷後気づいたが、同じ空港だから何とかなるだろうと考えていた。ところが、ドバイ空港でflydubaiのターミナル2からGulf Airのターミナル1に行くためには一度入国してタクシーで10分以上の移動が必要だということがクウェートへの移動日にわかり不安だった。
flydubaiがクウェートを10分遅れで出発した時は間に合いそうだと思っていた。しかし、ドバイ空港に着陸してから搭乗ゲートに移動するまで何度も停機を繰り返して30分も時間がかかり、更に入国審査に30分、ターミナル2からターミナル1への移動(タクシー代40AED)に20分かかり(タクシーのルート、バス地下鉄のルート)、Gulf Airのチェックインカウンターに着いたのが出発の20分前。出発時間の30分前、つまり私が到着した10分前にカウンターが閉じられていて惜しくもアウトとなってしまった。
飛行機に乗り遅れてしまうと惨めなものだ。次のフライトのキャンセル待ちを入れて2時間ロビーで待ったが空きが出ず、また更に2時間待っても空きがない。空きのある深夜便に変更するしかなかったが、ネット予約の変更はコールセンターでしかできないと言われ、何時間も顔をつき合わせていたカウンター職員から携帯を借り電話して、変更に伴うチャージで支払済の半額にあたる490AEDが加算され、当初予定していた便の10時間後にやっと搭乗できたが、疲れていたので避けたかった深夜便での移動となる。
金銭面での痛手に加えて肉体的、精神的にダメージを受けた、LCC乗り継ぎミスとなった。(乗り継ぎに余裕のない予約をしたことがミスの原因でflydubaiが問題だったわけでないが、ドバイとクウェートの空港でターミナルがメインと異なり移動に金と時間がかかることに注意)
[マラウイ]リロングウェ(器物損壊)
<土産屋、奥の建物は中心部マーケット(航空写真)>
マラウイなかなか良い。人が穏やかで信頼でき、景色が良い。
今回の旅は小トラブルの連続。
初っぱなから腕時計が壊れ、ボツワナのバス車内でミネラルウオーターを盗まれ、ブラワヨでは停電中のユースホステルで腰をぶつけて出血、ハラレのバスターミナルで財布を盗られかけ、モザンビーク入国時、停電でビザの発行ができないと追い返されそうになり、モザンビークのミニバス内でズボンが10センチ破れてしまう。
しかし、マラウイに入ってから昨日今日と安宿がすぐ見つかり移動も調子いい。今晩はビールで景気づけしようと、スーパーの惣菜と共に瓶ビール2本購入してきた。
こちらのビール瓶はみな手で蓋を回して開けられるものと思っていたら、買ってきたビールは栓抜きなしで開けられない。ホテルにはレストランがないので栓抜きはなさそう。それではと、2本の瓶を真横にしてキャップの凸部を噛み合わせ真横に引っ張る。ビールが少しこぼれてくるので部屋を出て共同バスルームのシンクの上で力まかせに両端に引いたところガチャンと大きな音がして瓶の破片が飛んだ。
ビール瓶を割ってしまったと思ったがそれだけでなかった。シンクの角にビール瓶をぶつけてしまったため、シンクも割れてしまった。
スタッフに知らせたところすぐにオーナーが呼ばれた。かけらを貼り合わせれば問題なく使えそうだという私の主張は受け入れられず、明日早速交換するのでシンク代が分かり次第請求すると言われてしまう。
盛り上がっていた気持ちが一気に落ち込む。今後さらに慎重に、無難な行動を取るようにしよう。
≫続きを表示翌日、請求された金額は15,000MWK(クワッチャ)、約四千円。シンク代を払ってくれれば取り付け費用はホテルが持つとのこと。クレジットカード付随の海外旅行保険で請求すべきかどうか迷うほどの金額で、いろいろ話を聞いた感じでは全くふっかけてないよう。
マラウイ人、信用して良い(人が多そう)。
宿はThe Golden Peacock Resthouse(位置:S13 59.433 E33 45.820)でトイレシャワー共同のツインルームが4,000MWK(約10USD)。地図があればバスターミナルから2km(ルート)と歩ける距離。
ここはガイドブックでなく、ヨンtravelツッチーさん2013年5月の情報。周辺にはいくらでも安宿があるのでいくつか比較して決めようと思っていたが、部屋も共同トイレも清潔でスタッフに愛嬌があり10USDは申し分なかったので即決。
ネットは600MWKで30日間100MB使えるSKYBANDというhotspotアクセスカードがあり、建物の端にあった自分の部屋でもそれなりの速度で接続でき、1泊2日の滞在では全く使い切ることができなかった。
部屋でネット接続してskype通話もできたので、ホテルで器物破損して損害責任を負った場合、保険金支払に必要なモノを保険会社に電話で確認した。
すると、支払いが確認できる領収証以外にホテル名や住所のわかるホテルカード、そして破したモノの写真が必要とのこと。電話では言われなかったが、シンクのサイズも問われると思い計測。
しかし、過去に盗難で保険金を請求した経験から申請は結構手間がかかるもので、また、巷の噂にあるよう保険金を請求する度に審査が厳しくなっていくような気がするため、今回の4千円の保険金請求は見送ることにした。
[モザンビーク/マラウイ国境]Zobue
両国の出入国施設は6km離れていたが、出入国審査はスムーズに済み、国境周辺の景色はすばらしかった。しかし、前後の移動は問題だった。
<テテからザレワまでの国境越え>- マラウイとの国境ポイントであるZóbuè行きミニバスが出るターミナルをテテのホテルで確認したところ、ホテル前のバイクタクシーで行くことを勧められ素直に従う。50MZNで満席直前のミニバス前に連れて行かれる。
- 極限まで人を詰め込むミニバスの最後の乗客だったため、運転席と助手席の間で前方を向いて座る客と背中合わせに、後席一列目の客と足を交錯させながら向かい合わせになるスペース。運転席助手席と後方一列目との間で後ろを向いて座る最悪の席の真ん中で、その車は屋根の中央部分がくぼんでいるため天井に頭がつかえてしまい首を90度曲げなければならない。荷物や幼児で少しの隙間も残さず埋めこんだ後なので、片足のつま先だけを床に付け、もう一方の足は宙に浮かせてなければならなかった。私の足下には荷物と幼児、膝の上には自分の荷物だけでなく向かいの幼児も載せられ、頭は90度下向き。
アフリカのミニバスでは現地の乗客がこのような体制を取らされているのを目にすることがあり、その愚かな姿に冷笑していたのだが、まさか自分がそのような目に遭うとは。アクロバティックでまともに息ができない状態が1時間ほど続いていたが、降車客がある度に少しずつその体制が解かれていく。 - 乗客の過剰詰め込み状態が緩和され、後方ニ列目ドア側の席に座っていた時だった。奥の席の客が降りる度に私は荷物を抱えたままいったん車の外に降りる必要があった。後方一列目のドア側シートは後方客の乗降時に折り畳むはずなのだが、このぼろ車は折り畳むことができない。さらにそのシートの背もたれが外れているのだが蝶番だけが残っていた。私が後方二列目からこの一列目シートをまたいで車外に出ようとした時、ズボンをこの蝶番に引っかけて10cm以上を破ってしまった。なんたることだ。パンツが見えてしまう状態になってしまった。体が傷つかなくて良かったが、気に入っていたズボンなのでショックが大きく、もうミニバスでの移動はできるだけ止めようと思う。
- とんだミニバスでの移動(ルート)になってしまったが、3時間30分後の15時ごろ国境ポイント到着。バス料金は100MZN。
- モザンビーク出国審査を簡単に済ませ、マラウイ側に歩き出すと、出入国施設が見当たらない。乗り合いタクシーの運転手からマラウイ入国審査場は6km先だから車で行くよう勧誘を受ける。道の両側に民家や商店などの建物が並び、すぐ先に出入国施設がありそうなのでしばらく歩いてみるが、ない。バイクタクシーらしき車を止めて尋ねると、マラウイの施設はやはり遠そうなので、300MWKで乗せて行ってもらうことに。両側に小山が連なる気持ちの良い道を走っていると数分程度で到着。時間に余裕があれば歩いてみたい道だと感じた。(帰国後、Googleマップでルート確認すると両国の出入国施設はほぼ6km離れている)
- マラウイの入国審査窓口でここのビザ代がいくらか全く調べてなかったことに気づく。モザンビークでビザ代86USDも取られた後なのでドキドキしていると、何も要求されずパスポートが返ってくる。日本国籍の旅行者はマラウイのビザ不要だったんだ。マラウイ、良い国かも。(残念なことに2015年10月からビザ必要。最安の7日間トランジットで50USD)
- 施設の外にミニバス乗り場があったがプランタイヤ行きしかなく、客の集まりが悪い。乗り合いタクシーと思われるカローラが5分から10分おきに行き来しているのでプランタイヤか手前のザレワまで行かないのか尋ねると、行かないことはないが高額になるとミニバスの10倍ほどの金額をふっかけられる。まあ、そのうちミニバスが出るだろうと思い、カローラの運転手にそれ以上確認しなかったのが失敗。結局、ミニバスは乗車から1時間30分後の17時30分ごろ発車。プランタイヤに行く必要はなくリロングウェに近づきたかっただけなので、プランタイヤとリロングウェの分岐点にあるザレワで降ろしてもらう。1時間30分後の19時ごろ到着。料金は1,200MWK。(国境からプランタイヤまで1,500MWKだったので、距離を考えると納得いかぬ)
- この国境ポイントから3kmほどの距離にMwanzaという町があり、ミニバスらしき車を何台か見かけた。乗り合いタクシーは国境ポイントとこのMwanzaを行き来していたと考えられるので、客集まりの悪い国境ポイントでミニバスに乗るのではなく、乗り合いタクシーでMwanzaまで移動してからミニバスを探した方が早く移動できたと思われる。(GoogleマップによるとMwanza hotelもある)
[ジンバブエ/モザンビーク国境]Nyamapanda
昨晩ハラレに着き、今日は土曜日。モザンビークのビザをハラレで取るためにはハラレにあと2泊以上しなければならない。国境ポイントで取るビザは高額になることが多いようだが、様々な金額がネット上に流れ正確な情報が得られない。
私にはハラレで2泊する余裕がないので、とにかく行くしかないということで国境に向かう。(今回、入念に計画したルートの逆回りをしてしまっているためハラレ到着が金曜の夜になってしまうことを考えていなかった。当初の予定ではスワジランドでダブルエントリービザを取得しておき、マラウイからモザンビークへ2度目の入国をする予定だった)
- ハラレの巨大バスターミナルの奥の方から国境ポイントであるNyamapanda行きのバスが出る。ミニバス降車場からターミナルに入り、なかなかたどり着かないので何人にも尋ねたが、みな親切に正しい方向を教えてくれた。
- ほぼ満席状態のバスに乗車したのでほどなく出発。中型のバスだったのでミニバスよりは楽だった。11時ごろ発車して途中検問がいくつもあったので15時30分ごろ国境着(ルート)。国境の15kmほど手前から小さな山がいくつも見えてきて車窓を楽しむことができる。
- ジンバブエ出国審査は問題なく通過。
- 少し歩いてモザンビーク出入国施設。入国審査の窓口はたまたま空いていてビザがないことを告げると、係官は「なぜビザを取らずに来たんだ、ビザ代86USD、さらに今停電中なので自家発電用の燃料代プラス20USD」と憤っている。
予想をはるかに超える金額に驚き「シングルエントリーは25USDではないのか?マラウイに抜けるため通過するだけなので10USDのトランジットビザはないのか?なぜ燃料代まで払わなければならないのだ」と係官に詰め寄ると、「もうビザのシートがないから発給できない、ハラレに戻ってビザを取ってから来い」と強い態度で追い返される。 - その後、大型バスの乗客など入国審査を受ける人々が列を作ったため、建物の外で様子を見ていたが、ビザ発給を必要とする人は誰もいない模様。窓口が空いてきたところで、「86USDでなんとかビザを発給してくれないか」と低姿勢で係官に頼むと「パソコンを使用するため停電中は発給できない、外で待ってろ」と言われる。建物周辺には両替屋や物売りたちがたむろしているため、通常どのぐらい停電が続くのか尋ねると、夕方かなとか、夜まで回復しないこともあるとか言われる。
- 絶望的な気持ちで建物の前の階段に腰掛けていたが、1時間以上経った17時過ぎ、両替屋から「電気が通った」と教えられる。暗かった建物内に電気が点り明るくなっている。その後、審査待ちの人たちが途絶えるまで待たされ、パソコンなどの電源が入れられて準備ができた後で、写真撮影、顔写真付きビザシートの発給が行なわれ30分ほど時間がかかる。係官によると、モザンビーク内の空港、陸路の国境ポイント全てがこの写真撮影によるビザ発給システムに移行したため、現在はどこもアライバルビザ代は86USDになっているとのこと。(しかし、あとでレシートを確認するとドル表示はなく、2,085MZNの表示のみ。手数料を除いたレートで計算して約70USD。ドル建てのビザ代は時期や場所により異なると思われる)
- 暗くなる前に入国審査を終えることができて良かったが、これからテテに移動しなければならない。ミニバス乗り場はすぐ先にあり、乗車後1時間の18時30分、やっと席が埋まり出発。道中、真っ暗闇のなか懐中電灯を点け、私だけ鞄の中身を全て開けさせられる検問があり、テテには2時間30分後の21時着(ルート)、料金は150MZN。
- 停電はよくあることでパソコン必須のアライバルビザ発給が停電中はできない(追加料金を払って自家発電で発行してもらうとしても準備にかなり時間がかかりそう)となると、国際バスにはビザなしでは乗せてもらえないか国境で降ろされてしまうのでは。モザンビークビザはできるだけ隣国の大使館などで事前に取得すべき。
[ジンバブエ]ハラレ(スリ未遂)
ハラレは12年前の2001年にも訪れているが、大きな街で少し危険かもという記憶しかない。
宿近くを通ったミニバスに乗り、Mbare Musika bus terminalに行きたいので適当な所で降ろすよう頼む。
すると賑わいのあるミニバス終点で運転手が「ここからは俺の妹がMbare Musikaへ行くミニバス乗り場まで案内するよ」と言って私を降ろす。同乗していた小柄な女性がニコニコしながら私の前を歩き始めた。
人をかき分けながら進む通りでもたもたする私を女性が気遣い何度も振り返ってくれる。すぐ近くなのだろうと思っていたがそうでもなく、10分近くも歩いて(GPSログで確認したところMarket Square Bus Terminal<航空写真>周辺を700m)やっとたどり着く。
私が女性に感謝の意を伝えようとしたが、いいから早く乗りなさいとミニバスに押し込まれ、彼女は足早に立ち去った。
車内で隣の席には十代らしき女性が大きな荷物を携え乳児をあやしていた。そんなヤンママが私を気遣い、運転手に指示したり降りる場所を教えてくれたりする。
喧噪の巨大バスターミナルでは、モザンビークとの国境Nyamapandaまで行きたいと伝えると、尋ねた人たちがみな精一杯その場所を伝えてくれる。ハラレは親切な人が多い安全な街なのではと感じ始めていた。
みんなが指し示す方向に歩いてくるとMbare Musika bus terminal敷地の反対側に着いてしまい、国境行きバスはさらに向こうだと言われ、道路を渡った隣のバスターミナル(位置:S17 51.527 E31 02.460)に進む。
こちらのターミナルはいくぶんか穏やかだった。声をかけてきた男たちに行き先を伝えると「そのバスはこっちに停まっている」とひとりの男が歩き出す。彼について歩き出すと「そうだNyamapanda行きだ」「もうすぐ発車だ」とか言いながらわらわらと男たちが私の周りに集まってくる。
ターミナルの雑踏を延々と歩かされたが、乗るべきバスに本当にたどり着いたのだろうか。そして発車間近のバスなのか。案内された中型バスの前方に回り行き先表示を見て、席の埋まり具合を確認しないと安心できない。完全にバスの方に気を取られていた。
その時、モゾモゾとした不快な感触があり、反射的に尻に手を当てる。すると、ズボンの尻ポケットのチャックが全開しているではないか。やばい。手を下の方に移動すると財布はまだポケットの中に入っていた。
すぐさま後ろを振り向くと、なぜかくっつくように付いてきた男たちが立ち止まっている。私が黙ってにらみつけるると、男たちの固まりは気まずそうにニタニタと白い歯を見せていた。
彼らが集団で近づき尻ポケットの財布を盗ろうとしたことは間違いない。危なかった。私はソフィアで財布をすられたことがあり、モゾモゾっとした感触があの時と同じだったので瞬時に反応することができた。
未熟なやつらで良かった。スリ被害経験者から財布を盗むのなら、チャックを開け、財布を取り出すという2ステップではいけない。1ステップで完了させなくては。
このような国では財布を持ち歩かず、お金は現地通貨をビニール小袋にしまいズボンの前ポケットに入れておくのだが、ジンバブエで通貨がUSドルか南アフリカランドになったこともあり財布をそのまま持ち歩いていた。
面倒だが財布は鞄にしまい、少額紙幣を前ポケットに入れておくことにしよう。
意味もなく急に男たちに囲まれたら要注意。オーバーにリアクションして彼らからすぐに離れた方が良い。
[ルーマニア]ブラショフ
<ブラショフ(Braşov)中心部から黒の教会を望む(撮影ポイント)>
シギショワラやシナイアは小さな町で観光客ばかりが目立っていた。しかし、ブラショフ(ブラショヴ)は大都会のようで観光客が多いが地元の人や車に埋もれている。黒の教会という巨大な教会が中心部にあり、石畳の道や古い街並み、洒落たカフェ通り、要塞跡、街を見下ろす小高い山が間近にあるなど、素材十分なのだがどこもイマイチぱっとしない。写真うつりが良さそうなこれはというビュースポットが一つもないのだ。
郊外の村にあるプレジュメール要塞教会(写真下)は悪くなかった。微妙な美しさがあり、円状の防壁の内側はいくつも仕切られた部屋があって中国客家の住居に似ていて面白い。
<プレジュメール要塞教会(2枚組)>
[バスの車内刻印(信用乗車)シリーズ2/3]
車内のチケット刻印には十分注意を払っていたにもかかわらず、ブラショフの市内バスでまたしても検札官に不正乗車を指摘され罰金を科せられる...
が免れる。
疲れが溜まっているようで、喉が痛み瞼が重く頭がぼうっとしていた。地図を読み解く気力がなくなっていて、バスの乗る方向を間違えた。どうもおかしいと思い運転手に尋ね逆だと教えられたのだが、降りようとすると、もうすぐ終点で戻るからそのまま乗っていろと手振りで教えられ、運転手から姿が見える一番前に座っていた。
バスが逆方向に走り出し、しばらくして検札官が乗り込んで来た。私がチケットを差し出すと刻印が違うという。他の区間のバスでは一方通行の道路が多くルートが異なることもあり、終点を越えて乗っている人が何人もいることを観察していたが、この区間のバスの場合だめなのだろうか。私は4人の男女の係官に囲まれ、英語を話す女性がanother ticket, another ticketと連呼する。一番前に座っていた私は他の乗客たちから鋭い視線を一斉に受けていた。「まあなんてかわいそうな旅行者」と思われているのか、「東洋人は悪い人が多いねえ」と思われているのか、目が窪み鼻の高いルーマニア人の顔からは感情が読み取れない。
私は体調が悪いと全く英語が出てこなくなるので運転手が助けてくれるだろうと思い、面倒な説明をしないでいた。しかし、運転手は完全に無視して運転を続け、係官は罰金45RON(1,500円弱)を要求した上で、私が英語を話さないので警察へ連行すると息巻いていた。仕方なく私は、運転手にそのまま残っていろと言われ終点を越えて乗り続けていることを説明した。
係官が運転手に確認してやっと彼が状況を説明したようで、係官は私の乗車券の裏面に刻印し直した後この乗車券で大丈夫と私に返した。結局何がどの程度問題だったのかわからぬまま私の罰金は免れた。10分にも満たない時間だったが、不正乗車客を吊し上げるという特殊な仕事で鍛え上げられた顔で睨まれ続け、不快極まりない。
今回のヨーロッパ旅行中に検札官の姿は何度も目にしており、頻繁に検札していることが伺える。不正者に不快な思いを与え乗車料金の30倍(日本のJRだと3倍)という高額の罰金を科すのは地元乗客に対してであって、外国人旅行者には、(状況にもよるだろうが)誤りを指摘して正しいルールを教えてあげるというのが筋ではないのか。
乗車券のルールはEU内で統一されている訳ではなく、国や町あるいは路線によって微妙に異なっていて、旅行者がそのルールを正しく知る術はない。そんな状況で外国人旅行者が少しだけルールを逸脱しただけで犯罪者扱いしたうえ高額な罰金を科すのはどう考えても間違っている。
≫≫信用乗車シリーズ3へ ≫≫信用乗車シリーズ1へ戻る
ブラショフのホテルはツーリストインフォメーションのホテルリストでほぼ最安値の部屋Postavarulがトイレ付シャワー共同シングルで60RON(2,000円弱)と宿泊費2千円の私の予算内に収まり、室内は清潔、街中にあるのに非常に静かでほぼパーフェクト。
このようなホテルがあるのならブラショフに3泊してシギショワラもシナイアも通いで良かったと思った。(後でブカレストは半日観光で十分だったので4泊でも良かったと気づく)
[ナイジェリア]カノ
<ナッツ売りのショウジョ/路地のお子さん>
<カノ旧市街でコーランを勉強中の子供たち>
ナイジェリアはギブアップ。街中が白煙にけむる排ガスに目鼻と喉が耐えられない。
そして電気が止まる。博物館に入っても暗くて屋内展示物が私の目にはほとんど見えない。博物館スタッフは、少なくとも日中はほぼ1年中電気が供給されないと言っていた。(それなら自家発電しろよ)
そして、夜になっても電気が止まっているからホテル(今日のホテルは自家発電あり)の近くの店に買い物に行くのにも危ないってもんじゃない。道には歩行用のスペースがなくバイクや車をよけ、深い下水溝を何度もまたがなければならない。歩くだけでも大変でスキだらけなのだが、私からは何も見えない暗闇から何度も嘲笑を伴った声がかけられる。いつ襲われても不思議でない。
こんな状態で暴動も起こさず暮らしているナイジェリア人の忍耐力たるや相当なものだ。
=>(後日談)私が出国した1週間後にカノ - イバダン間にある街ジョス(Jos)で数百人の死者が出る暴動発生。苦難な生活を強いられている人々は、何かきっかけがあると不満が噴出して暴動となる傾向がある。
昨日、オソボから16時間かけて移動して、カノのターミナル到着が夜中の0時半になってしまった。かなりふっかけてくるバイクタクシーの料金を値切っているうちに選択の余地がなくなり、面構えの悪い男の車に乗ることになった。(運転手を選ぶ際に面構えの善し悪しは非常に重要)
街の中心部に入ってくると車も人もほとんど通っていなかったが、暗闇で懐中電灯を上下に小刻みに揺らしバイクを止める検問が大きな交差点毎にあった。
3つの検問を無事通過して、ホテルがすぐ近くの4つ目の検問で、警官が明らかに賄賂を要求するしぐさをしながら英語か現地語を発した。何を言っているかわからんと伝えると、彼ら5人ぐらいのリーダー格の警官が出てくる。その警官は手荷物検査と称して暗闇の中、バイクのシートの上でバッグを開けさせる。この嫌がらせに耐えれば通過できるかと思ったが、検査後その男はわかりにくい英語で話しかけてくる。理解できた内容は次のようなことだった。
「私たちはこんな夜中に検問をしてあなたたちの安全を守っている。あなたに家族がいるだろうが私にも家族がいる。あなたと私は一つだ」
賄賂を要求しているとしか考えられないが、筋が通っていないのでso what?なのだ。
私が「じゃあ夜遅いのでホテルに行くよ」と言うと酒臭い息をはく男はまた同じ話を始める。彼の話が終わる度に「あんたの言っていることは意味がわからん」と言うことを5回ぐらい繰り返しやっと通過できる。脅迫されてはいないが、深夜に30分近く足止めさせるという性質の悪い警官である。
この手のアフリカ役人は賄賂で稼いで豪勢な生活をしているかというとそういう訳でもなくて、役人だというだけで近親者からたかられるため、その分を賄賂で賄い続けるのが大変なのだという。
この酔っ払い警官の場合、もっとかわいらしく金を要求していれば、「君、そんなにお金欲しいの?あんまりあげるとまた酒飲んじゃうから百円でいいかな。5人で仲良く分けてね」と早めにあしらっておいた方が結果的良かったようだ。しかし、明確に要求されていないのにこちらから金を差し出すなど旅人のはしくれとしてできる訳がない。
警官とやりあっている間、バイクタクの運ちゃんはじっと動かずに待っていて、私が解放されるとホテルに連れて行き、閉じられた門の外から何度も怒鳴りつけスタッフを起こしてくれた。
なかなかいい運ちゃんで助かったと思い、40円のチップを上乗せした200円を差し出すと、彼はみてくれ通りの男に豹変した。
「そんな額受け取れるか。今、1時半だぞ。こんな深夜に検問でどれだけ待たされたと思っているんだ。千円だせ」
深夜のホテル内に響き渡る声で要求してきた。
私は16時間の移動で疲労困憊していたが最後の力を振り絞り、キレてみせる。
「何言ってるんだ、乗る時に決めた額は160円だぞ、そんなこと言うならそれ以上は払わん。だいたい検問で足止めさせたのは警官だ。みんなあんたの国の警官だからな。外国人の私は被害者なんだぞ。あんたが足止めされた分の金を取りたいのならな、あの酔っ払い警官に要求しろ」
そう言って160円を差し出すと、彼は苦虫を噛み潰したような顔をしながらすごすごと腕を伸ばし、金を受け取るとそのまま立ち去った。
激昂した彼の形相からてこずるかと思っていたが、悪人面のナイジェリア人も話せばわかるではないか。(英語が通じるのが大きい。まあ、このドライバーは悪い人ではなかったのだろう)
役人の賄賂体質は国民ひとりひとりが努力して変えていかねばならんのだよ、と説教をたれたかったが、そこまで英語が続かなかった。
オソボからアブジャ、カドゥナ経由でカノまで行く(たぶんこんな感じのルート:+で1つ拡大)乗り合いワゴンのターミナルを町歩き時にたまたま発見。2,800Naira。朝8時にHotel Terminus International前を発車。相当うまくいって14時間か。私の場合、30分遅れで出発、乗客が減ったため途中で乗り換えさせられ16時間かかって、カノに深夜0時半着。とてもお勧めできないが、アブジャかカドゥナまでは使えないこともない。
<バイクタクシーの群れから白煙が上がる>
- オソボからカノまでの間、12時間以上同じミニバスに乗っていて食事休憩が1回だけ。トイレは途中で客の荷物を積んでいる間にその停車している付近で済ませるしかない。ほとんど『どこでもトイレ』になり得る。
- ナイジェリアで2番目に大きいという大都会カノのホテル近くでレストランを探している時、入ろうとした店のオープンテラス入り口で立ちションしている男がいた。この店はやめようと立ち去ろうとすると、その男が声をかけてきてその店の主人だということがわかる。都会だろうと食堂の敷地内だろうと『どこでもトイレ』なのだ。
- ガーナからずっとだが、相変わらず男は坊主頭ばかり。ベナンとの国境からの乗り合いタクシーにパンチパーマ程度の髪がある黒人が同乗していたが、その男はニジェール人で、検問で警官に目をつけられ彼だけパスポートを調べられることが何度かあった。かわいそうなことに調べられる度に賄賂を要求され、挙句の果てにはお前のせいで何度も車を止められたとタクシードライバーから追加料金をしつこく要求されていた。隣国の訪問者を食いものにするとは何たる極悪人ども。
- これもガーナからずっと、たばこ吸う人が皆無。
- こちらの人たちは、「おいっ!」と呼びかける代わりに「プスッ!」と唇をはじいて息を飛ばすことにより、他人の注意を引き付ける。車の騒音でうるさい場合には、喉を震わせ大声を出すよりもプスッの方が伝わり易いようだ。ガーナからずっと気になっていたが、ベナンで耳にする頻度が上がり、ナイジェリアに来てここがプスッの本場(帰国後ネットで調べるとイタリアなどヨーロッパでもプスッが聞かれるとのことで英語でpsstのよう)なのではと感じている。このプスッは外国人の気を引くのにも使われるため、道を歩いているとあちこちからプスップスッという音が鼓膜を攻撃する。声と違ってこの音は点で相手にぶつけられるのだ。何台ものバイクタクシーが連なり低速で走っている時、道端から空気銃が発射されたようにプスッという弾が飛んできて私の近くで破裂した。呼びかけられたのは私じゃないと気づいたのだが、私の前を走っていたバイクタクの客が振り向き、プスッを発した友人に手を挙げていた。使い慣れている人たちにとって、このプスッは大声を出すよりもはるかに有効なのである。
- ナイジェリア人は決して悪い人やおかしな人ばかりではない。他の西アフリカ諸国同様、親切でやさしい人が大勢いる。西アフリカの中では先進国のせいかどうかわからないが、感覚が日本人に近いと感じる人が他の国と比べて多い。しかし、写真を撮ろうとすると、喜ぶ人、気にしない人、嫌がる人、カメラを向けていないのに怒り出す人など反応が様々で、それが全く読めないというのが非常につらい。
- 写真に関しては子供たちですら、逃げるもの、怒るもの、喜ぶものと反応がまちまちで疲れてしまう。親に連れられた5歳ぐらいの幼児はカメラを向けると泣き出してしまったが、どうやらこの子はカメラが怖いのではなく黄色人種の私が怖くて泣いているようだった。黒人以外見かけぬ下町の路地をうろついていた私は、日本の農村に現れたボビーのような存在だったのだろうか。
- ナイジェリアでは、ボビー・オロゴンのように低音で喉の奥を膨らませながらゆっくりと話す人を何人も見かけた。男だけでなく女性のボビーもいた。ナイジェリアには、外見だけでなく話し方までボビー似の人たちで溢れている。
- ナイジェリアの都心は排ガスが常にもうもうと上がり昼は街が白濁している(上の写真)。バイクタクシーや乗り合いミニバスで街中を移動する際、防塵マスクを付けていないと肺や喉がやられる。現地人は交通整理の警官も含めて、マスクの類をしている人をみかけなかった。バイクタクで信号待ちしている時、背の低い子供が私に物乞いしてきた。前方に停車していたバイクから排出される白煙が、その子の顔にまともに噴きかかっていたが、彼は排ガスを全く気にすることなく話し続けていた。ナイジェリア人は生まれた時からこの排ガスを吸わされ、丈夫な人たちだけが成長しているのだから、外国人が現地人に倣ってマスクをしないでいたら身が持たない。何らかの対策が必要。
- イバダンとカノで電気のない夜の街を歩き回った。車のライト以外は屋台のろうそくぐらいしか灯りがないのだが、大勢の人々が出歩いている。懐中電灯を持っている人は非常に少ない。私が懐中電灯を照らしながら歩いていると暗闇の中からいろいろな声がかかる。闇に潜む無数の人々から見つめられているようで恐怖を感じる。
- ガイドブックで少なくともオソボでは両替不可とあり、銀行もない町かと思ったら、大きな銀行店舗がいくつもあり、Dollars Availableの表示がみられた。更に停電中でも稼動しているATMをほとんどの店で設置していていくつかは看板にVISAの表示があったのでVISA出金可能と思われる。他の都市でも銀行店舗はよく目に付き、ATM台数がかなり多い。カノでは店舗外ATMでもVISA出金できたので、少なくともVISAキャッシングを利用する人は両替の心配不要。私は最新2006年版ロンプラの超古い情報(ここ2、3年の間にこれだけのATMが設置されたとはとても思えない)を信用してしまい、いくつも無駄な対策を取ってしまった。
<参考図書>Lonely Planet West Africa (6th Edition)=>最新版 West Africa (9th Edition) - ロンプラ表示の料金と比べて交通機関は6割前後上がっていたが、ホテルはせいぜい1割高くなっている程度。
- 英語が公用語で、外国人と会話する機会が多い人はまともに話せるようだが、一般の人々の英語はかなりひどい訛りがあるようだ。高校生ぐらいの少年が私に話しかけてくる英語が理解できず、単語を紙に書いてもらったら、想像を超えた発音をしていることがわかり、彼らの英語はヒアリングしないことにした。
- 2件の宿が満室で深夜のため仕方なく泊まることになったカノのスイートルーム(3,500円)でもシャワーヘッドが飾りモノでホースと繋がってなかったため、バケツの水で体を洗う。
≫≫(後日談)これが西アフリカ安宿のスタンダードだと思っていたが、シャワーが必ず壊れているのはナイジェリアとベナンだけだった。どうしてナイジェリアと隣の小国ベナンは何でもかんでも特別にひどいのだろう。(ベナンは小ナイジェリアのよう) - 街中の深い排水溝に厚く堆積したゴミを見ていると、この国がまともな状態になることは今の世代にはないような気がしてくる。西アフリカではどの国でも、『どこでもゴミ箱』のように平気でゴミを捨てているが、ナイジェリアは人口密度が高いためにゴミの堆積がどこよりも多い。ゴミを食べさせるためか、街中にやぎが放されているが、とても彼らが食べきれる量ではない。
- 虚弱な私はナイジェリアでは3日以上生きられない。
≫≫この後の日記に記しているが、中耳炎などの症状で3日後に発熱して3週間苦しむことになる。 - マイナースポットをゆく(西アフリカ編/東アフリカ編)のまとめ
[ベナン/ナイジェリア国境]Seme
コトヌー-ラゴス間のセメ国境(Seme Border)は悪名高きポイント。
どれだけ大変なのか見てみようぐらいの気持ちで通ったが、まあいろいろと酷かった。
この手の国では大なり小なり役人の賄賂要求があるものだが、ナイジェリアのチンピラ役人の行為はもはや強盗だ。
最初はベナン側国境近くの路上検問で警官に難癖をつけられた。
乗り合いタクシーを止められIDカードを出せと言われてパスポートを出したが、これはパスポートでありIDカードではない、IDカードを持っていないならオフィスまで連行すると息巻いた。彼らの脅しは賄賂要求のためではなかった。住所が書いていないものはIDカードではないとして乗り合いタクシーから引きずり降ろされ、彼らの車までで連れて行かれる。乗り合いタクシーのドライバーも一緒に付いてきて私の援護をしてくれていたが、ついにあきらめ私を置いて車を走らせると言い出した。
「ちょっと待った」と車に向かう運転手を制止して、私はなんとなく持参した国際運転免許証を鞄の奥から取り出した。1年前、ニュージーランドとオーストラリアに行く際作成したもので、ちょうど昨日で有効期限が切れている。しかし、これには顔写真が貼付され名前と住所がアルファベットで書かれている。
免許証を受け取った警官たちは、それでいいのかどうか判断するのにも時間がかかった。鶏のように首をこきこき捻りながら、1人がこれでいいのではないかともう1人に渡すと、彼もまた首をこきこき捻り、しばしフリーズした後「OK、行ってもいい」とパスポートを返す。30分ぐらい停車していたので乗り合いタクシーの同乗者たちは騒いでいるようで、ドライバーがIDカード持っているならすぐに出せよと不満しきりだ。
悪いね、にいちゃん、期限切れの国際運転免許証が役立つとは思ってもみなかったんだな。
ベナンの出国審査で列の後ろから処理状況を観察すると、パスポートを提出する際、自ら百円程度の賄賂を差し出す人が多く、たまにお金を出さない人がいると、パスポートを返さないぞという脅しにより収奪されていた。ところが、私に対しては何も要求せず出国スタンプを押して返してくる。様々な国の人たちが賄賂らしきお金を要求されていたのにどういうことだろう。日本人旅行者たちのワイロノー活動の賜物と思っておこう。
税関チェックなどなくナイジェリアに向かって歩いていたところ、建物の前に机を出して座っていた役人に止められる。予防接種証明書を出せと言う。出国時にチェックするのにどういう意味があるのかわからないが提示すると、コレラの予防接種がない(日本の検疫所の話では、コレラ予防接種の国際証明書というものは存在しない)とかイエローカードにスタンプが押されていない(後から確認すると押し印はある)から200円相当出せという。入国時にはこれで問題がないとして通ってきたのになぜ出国時に問題とされるのか理解不能だ。
私の「なぜ払う必要がある」に対して相手の「なぜ払わない」の押し問答になった。男の隣にいた女性係官が、200円払えばコレラの予防接種証明も書き加えた別の証明書を作成しますよと持ちかける。そんな偽証明書作りを持ちかけるなんて、あんたらまがりなりにも役人ではないのか。この男であれば30分粘っていれば何も支払わずに通れそうな気がした。しかし、これから難関ナイジェリア入りというところでそんな無駄なエネルギーを使いたくない。あまり信用できぬロンリープラネットによるとこの国境を600円以内の賄賂で通れればラッキーと思えとのことである。
そこで私はこんなもんでなんとかと、細かいお金をパラパラと渡した。男はおいおいこれだけかよと呆れていたが通ることができた。その額20円、ベナンのトイレ代相当だった。
5mほど歩くと同じような机に似た服を着て男が2人座っていた。先ほどの予防接種チェックも同様だが、何らかの表示があるわけではないので視線を合わせず通り過ぎようとすると、彼らは憤っている。しかたなく、「何か」と近寄るとイエローカードの提示を求めてきた。渡してしまうとまた返してもらえなくなるので、指に挟んだまま彼らに見せると、だめだコレラがないからこのカードは無効だと言うやいなや恐ろしいほどの速さと力強さで私のカードを奪い取り、机の引き出しにしまい込んだ。それは明らかにプロの盗人の技であった。
「5000フラン(千円)払え」
「そのやり取りはたった今、隣で済ませてきたところなんだけど」
「それはベナンでの事だろう。ここはナイジェリアだ。お前のカードは無効なので没収する。金を払わないならそのまま行け」
なんということか、知らないうちにナイジェリアに入っていた。こちらの悪徳役人は強面で力があり、大事なイエローカードを強奪した上で金を払わないと返さないと脅迫している。ベナンでの検疫チェックはナイジェリアの前振りでしかなかった。これはただ粘っているだけでは通れそうにもない。英語が流暢に話せれば「あんたの行なっている脅迫は明らかに犯罪行為である、よって日本大使館を通して強く抗議する」ということをギャアギャア騒いでいれば通れそうな気がしないでもない。(失敗すれば何時間も足止めさせられるかも)
一応私なりに迫力のない英語で抗議してみたが、強盗役人には何ら効果がみられず金で済ませることにした。もうトイレ代用の小銭はなくなっていたので、持っているなかで一番細かい百円相当のコインを差し出した。これだけじゃ足りないもっと出せと脅迫してきたが、もうこれしかフランがないと主張してやっと盗人役人からイエローカードを返してもらった。(イエローカードの有効期間は10年だったが2016年7月11日から生涯有効に変更。カードがより重要となると共に10年超過したカードに対する難癖への対応必要<WHOのPDF><厚生労働省検疫所:黄熱について>)
しかたなく金を渡すにしてもやつらにはトイレ代程度で十分。(ナイジェリアは物価が高そうなので20円ではなく40円程度か)
教訓として言えることは、ここの国境を越える前にやつら用のトイレ銭(小銭)を用意しておく必要がある。強盗が釣りを返すわけないのだから。
小銭が切れてしまった私はこれからいったいいくら要求されるのだろうとびくびくしていた。しかし、入国審査や税関らしきところでは賄賂要求がなく、その後は意外にもあっさりとナイジェリアに入国できた(であれば検疫チェックでもう少し粘るべきだった)。結局120円強奪されただけで済んだのはラッキーだったと考えるべきなのだろうか。(汚職撲滅を掲げるブハリ大統領が2015年5月に就任して以来、賄賂要求はかなり穏やかになったとの噂あり)
その後、乗り合いタクシーターミナルまでの500mを歩いているうちに3回のパスポートチェックがあり、タクシーに乗ってからも無数の検問で徐行させられる。ラゴス郊外のターミナルまで90kmの間に30以上は検問があっただろう、発狂しそうになった。
全ての検問でチェックされるわけではなく、うまい具合に3回に1回程度停止させられ、トランクだけのチェックとパスポート類を含めたチェックの2種類がある。対向4車線の高速道路を快適に飛ばしているとすぐ渋滞があり、車1台ずつを係官が確認して許可されないと通過できない。どう考えても同じ内容のチェックを特に国境付近では1km間隔ぐらいで実施しているのだから相当無意味な行為である。
また、検問が少なくなってきたころにはとんでもない渋滞が頻繁に起こる。ラゴスの渋滞は尋常でないということを知っていたので、中心部に入らず数km郊外のMile-2 Motor Park(国境からのルート)というターミナルで乗り換え地方に向かおうとしていたが、それでもアクラの渋滞など全く比較にならぬものがあった。超低速走行による排ガスの充満、異常な接近と強引な割り込み、歩道や中央緩衝帯など車道以外の走行、ストレスクラクション、どれもこれも発狂しそうなほど酷い。これら渋滞は全てバス乗降場で発生していて、何台ものミニバスが横に二重三重に停車して車線を塞いでいることにより起こっている。何のことはない、秩序さえ守れば防げるのだ。
かくして、石油産出国ナイジェリアは世界的な流れに逆らい反エコロジーを貫く国であった。
[首都]アブジャ(1991年ラゴスより遷都)、 [通貨]ナイラ(2008年11月, 1ナイラ=約0.84円)
[公用語]英語、 [宗教]イスラム教50%、キリスト教40%、伝統宗教10%
[入国ビザ] 必要、アクラで取得(20ドル)、日本での取得は招請レターなどがない限りかなり困難との噂
[歴史/概要]
17世紀から19世紀、ポルトガル人、イギリス人などがアメリカ大陸へ送る奴隷のために海岸に多くの港を建設し、奴隷海岸と呼ばれていた。19世紀末に南部を支配していたベニン王国は周囲のハウサ、ヨルバの王国もろともイギリスに滅ぼされて植民地化される。1960年に連邦共和制国家として独立するが、汚職や政変が絶えず、政治が腐敗したまま現在に至っている。
世界有数の産油国であり、人口1億4千万人の大国で、教育水準も高いとされるが、政治の腐敗のため経済が低迷しインフラ整備は進んでいない。北部は乾燥地帯でキャラバン貿易を通じてイスラム教を受容しており、南部は熱帯雨林地帯でアニミズムを信仰し後にヨーロッパの影響を受けキリスト教が広がった。
ボビー・オロゴンの出身地であるイバダンは南西部に位置し、ラゴス、カノに次いで3番目の大都市。
[アゼルバイジャン]バクー
地下鉄のポリスチェックで高額紙幣を抜き取るという噂は本当のようだ。
≫続きを表示少し後れた国の空港では、高いだけでなくトラブルの多いタクシーを利用したくない。ここバクーでもかなりふっかけてくるという噂。初めての国で最初の移動は不安と緊張を伴うものだがバスを探すことにした。
空港ビルの外でしつこく寄ってくる運転手たちを無視して周辺を見回していると、ビルの端の方に乗り合いミニバスと思われるワゴンが走り出すのを発見。駆け寄ると停車してドアを開けてくれた。満席だったが通路スペースに中腰になったまま乗り込む。よしっと、次はどこで降りるかだ。バクーには空港から市内まで直接向かう交通機関がないとガイドブックに書かれている。どこかで乗り換えなければならない。20分ほど走り、人込みの多い場所で停車した時、大きなMの字の看板を発見。これは地下鉄のサインではないか。ミニバスを下車すると確かに地下鉄があるようで駅に向かい階段を下りる。これで市内に入れるとほっと安心していた。
階段を下まで降りると制服を着た警官から声をかけられた。聞こえない振りをして通り過ぎようとしたが、「ポリスコントロール」と大きな声を出し歩み寄ってきたので応じた。
歩き方ガイドブックへの投稿によると、「バクーでは地下鉄の駅で外国人を対象にしたポリスチェックが行なわれ、そこで高額紙幣を抜き取られる事件が多発している。日本のパスポートを見せると確実に個室に連れていかれるので、提示を求められても決してパスポートを出さないように現地大使館から指示されている」とあった。しかし、私の場合、パスポートの提示を求められる前に私服のおやじが現われ、個室へと連行されてしまう。
個室で背の低いおやじと2人きりになり、荷物チェックが行なわれる。確かに彼は現金にしか興味がない。私は財布を含めて4ヶ所に現金を分散していたが、プロである彼はあっという間に全てを探りあてた。そして、彼は紙幣を1枚1枚チェックする。「なぜ、そんなことをする必要があるのだ」と尋ねても「ポリスチェック、ポリスチェック」としか言わない。彼らは優れたマジシャンのごとく旅行者の目の前でも紙幣を抜き取るとのことなので、彼が枚数チェックする間、私はずっと紙幣のはじを強く押さえていた。
すると、いらいらした彼は紙幣のすかしをチェックする必要があると言い出してきた。もうこの時点で旅行者は強硬に拒否するか場所を替えて行なうよう要求する権利があるだろうが、彼のお手並みを拝見しようかと思い、私が手渡す紙幣を1枚ずつ行なうよう求めた。
後進国におけるこの手のケースで経験することだが、何か悪いことをしようとする警官には威厳がない。彼は私から渡されたドル紙幣を蛍光灯に透かし、最もらしく覗き込んでいる。
「うーん、ちゃんと透かしが入っているようだな」
「そうなんだ。じゃあこっちはどうなの」
「ああ、こっちも問題ないようだ。ちょっと、そっちの紙幣もチェックさせてくれ」
「ええ、君、日本円の透かしもわかるんだ、すごいねー。いいけど、1枚ずつだよ」
警官を幼い子供のようにあしらっていると、彼はあきらめ、被害を受けずに解放された。
たまたま運が悪かっただけかもしれないが、入国まもない時点でこのような不愉快な対応をされ、アゼルバイジャンというひどく後れた国を旅する気がすっかり失せてしまった。
<カスピ海遊覧船から見えるバクーの街>
トビリシまでの夜行列車のチケットを取るのに3時間かかった。昼休み時が重なりタイミングが悪かったのかもしれないが、そもそもこちらの人は列を作ろうとしない。窓口の幅いっぱいに5、6人が横に並び、待ち客が増えるとそれが2重3重になり、後方からでも窓口に手を差し込み大きな声で叫んでいる人が先に処理される。窓口のおばさんたちも処理しやすい者やうるさい者から受付けていくようだ。
割込み処理にじっと耐え、やっと自分が窓口正面になり、用意したメモを差し出しながらザーフトラ(明日)、トビリシと声を出すとこの窓口ではない何番に行けとたらい回しにされる。結局、4つ目の最も混雑した窓口で1時間待ち、やっと切符を発行してもらうことができた。
切符を購入するだけで1日分の気力を使い果たしてしまった。
キルギスの宿はひどかったが、同じく旧ソのこちらのホテルも劣悪だ。
バクーはカスピ海の石油産業に沸き、物価が高騰している。私が泊まれそうだった中級ホテルは改築され1泊200ドル以上になったりしている。中心部に適当な宿が見つからず、結局、老朽化の割に宿泊費が高く、サービスが最悪なソ連式ホテルを取ることになった。
トイレットペーパーがないので、部屋のドアを開けて廊下をのぞくと、掃除婦がいたので要求する。すると、彼女は一緒に来いという風に歩きだし、階段を下りる。下の階の踊り場まで降りると、最も奥にある部屋に向かって彼女が大声を出す。すると、その部屋からたばこをくわえた女が顔を出し、手でこっちに来いと指図する。私は自分の部屋のドアを半開きにしたままであることを気にして、遠いその部屋まで小走りで行く。そこは掃除婦たちの控え室で、女は私に部屋の入口で待つよう指示すると棚からトイレットペーパーを取り出し、たばこをくわえたまま私に渡す。
偉そうな態度の女たちにロシア語で「こっちは客だぞ。てめえが部屋まで持って来い!」
と、怒鳴りつけてやりたかった...
バクーでは、乙女の塔(航空写真)などがある世界遺産の旧市街に期待していたが、迷路状になっただけの古い街並みに雰囲気も味わいもなかった。
拝火教寺院を見に郊外電車に乗っている時はワクワクしたが、あとは海と大都会があるだけで外国人観光客が楽しむ街ではなさそうだ。
繁華街でカタコトの英語で愛想良く声をかけてきたケバブ屋でシャワルマ(ピタにはさむドネルケバブ)を頼む。できあがってから要求してきた金額が高いので、何でだと言うと、わかった特別に安くするよと半額にする。まだ高いと言っても、あんたのリクエストが特別だから高いんだと言ってつっぱねる。
ミニコンビニで水の値段を確認して高いのでやめようとすると半額になる。ビシュケクのように、どこの店に行ってもよそ者はふっかけられているような気がして、食事や買い物が面倒になってしまう。
さっさとこの街もこの国も出てしまった方が良さそうだ。
[パナマ]パナマシティ
パナマはUSドルがそのまま使える。ATMからもクレジットカードなどでUSドルが出金可能。底をついていたドルキャッシュを補充した。
ベネズエラにおける苦しい金の縛り(クレジットカードが使えない、キャッシュアウトできない、両替レートのばらつきが大きい、自国通貨の再両替が実質できない)から開放される。
パナマは宿が安い。22ドルで十分すぎるほどの機能を備えた中級ホテルを確保。
私が食べられるレベルの食事も比較的安い。10ドルあれば日本と同等の食事を3食分とれる。今までの不足を取り戻すべく、今日は機内食を含め6回食事した。
しかし、今日もまだ体が動かない。
夜中にクーラーの風が体にあたっていることに気づき目を覚ますと、喉の腫れが顔中に広がったように目の周りを中心に顔が腫れているのに気づき、驚いた。
<2006年11月19日>朝になって顔の腫れはひいたが、今日はネットと食事以外は出歩かないことにする。
新市街のメイン通りに面したこのホテルの入り口には常に銃を肩からさげた私服警備員がいる。パナマは少なくともカラカスよりはるかに安全な街のようだが、警備員を配置していないと、日中でも銃を所持した強盗に襲われるということだ。しかし、あくびをしながら退屈で苦しそうにしているこのおじさんが簡単に襲われそうな体格をしているのだが大丈夫なのだろうか。
ネットで検索してわかった。風邪ではなくデング熱のようだ。昨晩、肩から背中にかけての発疹を発見してしまい、症状は酷似している。ドミニカ共和国が今年はやり年だと外務省からガイドが出ているのも知った。潜伏期間から考えてドミニカ以降ガイアナまでが怪しい。通常のデング熱であれば発症から5~7日間で治るというから、7日目にあたる明日中に回復するはずだ。
まだ、喉の腫れがひかず、夜中に何度か目を覚ます。倦怠感も変わらない。
病院のレベルが中米一というパナマにいる間にデング熱であるかどうか診てもらおうと思い、日本の外務省お墨付きの私立病院に向かう。
海外で初めての病院だが、さすがに日本と雰囲気が違う。看護士がほとんどいないことに最も驚いた。ドクター室には一人ずつ女性がいるが、事務職であり診察には一切関わらない。処置は全て医師が行っていた。
日本では考えられないほどの時間をかけて問診、触診を行い、血液検査も受け、最後にデング熱という診断が下されるものだと思っていたが、ただの風邪だという。
『デング熱は自分も今年かかったばかりだし、先週コスタリカから入ってきた女性患者を診たばかりだが、あんたのは違う、あれは高熱が出て苦しい病気だ』
と医師が言う。
『私だって3、4日前までは熱があってかなり苦しんだし、この背中の発疹がデング熱の証拠じゃないの』
納得いかぬ私は食い下がったが彼は次のように説明した。
血液検査の結果がNe%がハイレベルぎりぎりで、LY%が基準値よりかなり低い。これがデング熱患者の場合、それぞれが全く逆の結果になる。仮に治癒して数値が改善したとしてもそんなに急激に変わるものでない。
私は医師の診断を渋々受け入れた。デング熱でないとすると治るのにまだ時間がかかるのだろうか。
月曜の午前中で混んでいるものと思ったが、私は病院に着いてすぐ最初の診断を受けることができた。清潔で広々したロビーなどから、費用が余程高いのだろうと思ったが、診察料は時間をどれだけかけても1日40ドル(診断書込み)、血液検査8ドル、5日分の薬5ドル、お尻に刺された注射はサービスとのことで、保険で請求するのもためらうほどの金額だった。
雨が多い。パナマに来て毎日どこかの時間帯に雨が降っている。今日は朝から1日中雨。
雷も多い。雷が轟く度に車の警報装置があちこちで鳴り出す。世界のどこでも同じ音を出す車の警報装置はいったい誰が発明したのだろう。誤作動が多いこの装置のために世界中の人々がどれだけ不快な思いをしていることか。
風邪の終盤にみられる咳と痰が多くなってきたが、また目が腫れている。
ベネズエラのカラカスでパナマまでのエアチケットを購入する際、入国時に出国チケットの提示が必要だとして買わされたダミーのチケットを払い戻ししようとしたら、代わりの出国チケットを提示しないと払い戻しできないという。念が入っている。今度は国際バスの出国チケットをダミーで買うことにした。パナマの入国審査官は出国チケットの提示を求めなかったのに航空会社は実にやっかいな事ばかりを要求する。
緩慢な事務作業により航空会社で待ち時間を含めて3時間要し、航空会社やバス会社のオフィスが移転していて見つけるのに時間がかかったため、本日は出国チケット払い戻しのために半日以上費やしてしまった。
パナマを起点にした中米陸路の旅を予定する際は日本でダミーの出国チケットを準備するなどの対策が必要だ。
体調は概ね回復したと判断してパナマの観光開始。
パナマ運河(航空写真)の閘門(水位を変えるための開閉式水門)に向かう。感動するほどのモノではないが、いつでも船舶の通行が解説付きで見られるようで、一つ一つのしくみに感心させられる。
世界遺産の旧市街歴史的地区(カスコ・ビエホ)や16世紀の街跡(パナマ・ビエホ)は、んーこんなもんかーというレベル。
パナマシティは派手に彩色されたボンネットバスに乗っているのが最も楽しい。車線を頻繁に変え、前の乗用車を煽っているバスが乗客を道端に見つけると急停車する。まるで乗り合いタクシーのような走行をする大型バスは、1時間以上乗っていても0.25ドルで楽しめるのだが、走行ルートが単純でないため、目的地で降り損なうと知っている場所に戻るまで何度もバスを乗り換えないといけないのが難点だ。
(やっと一眼レフカメラで写真を撮り始めたが翌日の件で写真ファイル紛失)