イエメンのたび
部族社会の古風な人々(サナア)
<サナア旧市街の入り口 サナア門>
アラビア半島の先端に位置するイエメンは古くから交易で栄えた国だが、他のアラブ諸国と異なり石油が産出されないため周辺国と比べ貧しい。昔からの部族社会を引きずっており、現在も政府の力が及ばない地域がある。そんな発展から取り残された国には、数百年もの間続く建物や街並、そして暮らしがみられる。
イエメンの首都サナアの旧市街はお菓子の城のような建物が並ぶ。城壁で囲まれたこの地域では、何世紀も前に建てられた搭状住宅が密集する。サナア旧市街は世界遺産に指定されているため、建物は傾いたまま使われ、道は細いまま迷路のように入り組み、あちこちに昔から続くスークがある。
建物の窓や壁面には中世のデザインが施され、輪郭を強調するように白く塗られている。そんな旧市街を歩く人々も華やかに見えるが、大半の男性は白い民族衣装に紺色のジャケットという、ほとんど同じ出で立ちをしている。そして、腰の正面、お腹の上にジャンビーアというJ字状に曲がった30cmほどの刀を差して正装としているのだ。
日本であれば着物を着て日本刀を差して歩いているようなものだから、何とも古風な人々である。
オレンジの街灯(サナア)
<サナア旧市街 スークの雑踏>
サナア旧市街の城門をくぐれば、スークが至るところにあり、狭い路地が人で溢れている。そして、なぜか真昼でもオレンジの街灯が燈される。
この国には歩行者道路という概念はない。数百年続く石畳のゆるやかな坂道でも十分な幅があれば車が通り、車が走ればその道は車優先だ。
車が通ると歩行者が建物の壁につくように横にならなければならない、そんな細い路地だった。自転車に乗った10歳ぐらいの少年が石畳の真ん中で車輪を取られ、足を着いて立ち往生していた。そこへ後ろから小型トラックが来た。自転車後方の泥よけに車のバンパーをつけ、すぐどけろとクラクションを鳴らす。少年はその行為に怒りを表し、振り返って運転席の方を睨みつけた。しかし、すぐに前を向き直し自転車のペダルを踏もうとした時、トラックが前に進み自転車と少年を倒した。少年はすぐ起き上がったが、自転車の泥よけがぐにゃりと曲がる。何という車だ。私は怒りを感じたが、周りの大人たちは黙って見ている。
少年は猛然と車に向かい、運転席の窓をたたいて抗議した。その時、トラックの荷台から若い軍人たちが降りてきた。その車は軍人輸送用のトラックだったのだ。1人が少年を突き倒し、1人は道を塞いでいた自転車をトラックの後方にほおり投げた。男の子は再び彼らに立ち向かったが青年に強く押し戻される。そして、軍人たちが荷台に乗り込むと、小型トラックはクラクションを鳴らしながら狭い路地の奥へ走り去った。
泣きべそをかきながら自転車を動かそうとする少年を大人たちは助けようとしない。
ただ、オレンジの街灯が少年と自転車をほのかに燈していた。
スーラ、スーラ(サナア)
<ポーズをとるサナアのお嬢さん/サナアの子と黒装束(2枚組)>
『もっと、子供っぽくできないの?』
彼女にいくら言っても通じない。私はおすましした子の写真など撮りたくない。かわらしい表情を写したいのだ。
「スーラ、スーラ」
英語の全く通じない女の子は、アラビア語で写真の意味と思われるスーラだけを連呼する。
海外では貴重品を隠して歩けと言われるが、私は敢えてカメラをみせびらかすように手に持って歩く。そうすると、写真に撮られたがる子どもが近づいてくる。その時も一人の子が私を見つけるやすぐに駆け寄りカメラを指して、スーラと叫んだ。人通りの少ない路地で彼女にカメラを向けると、なぜか壁にもたれこんだり、髪を手でかきあげたりして子どもらしいしぐさをしない。そして、お決まりのように首を傾けて目を虚ろにする。女性雑誌の写真を意識しているとしか思えない。ねえ、手にボンボンを持ったままじゃ、アンバランスだよ。
デジカメで撮った写真を見せると、その子は飛び跳ねて喜び、もう一枚お願いというように、スーラ、スーラと言いながら私の腕を引っ張る。それは見たままの10歳過ぎの子どものしぐさだが、カメラを向けると、すぐに身構え、すましたポーズをとる。
彼女はよほど写真が好きなのか、場所を変えながら何枚も何枚も撮影させた。家の玄関、車のボンネット、トラックの荷台、周辺で見つけた様々な場所でポーズを作り、シャッターを切ると、走って結果を見に来る。
『ねえ、名前なんていうの?住所はわかる?写真送ってあげようか』
言葉がわからなくてもジェスチャーで通じるはずだが、彼女は反応することなく、スーラ、スーラを繰り返す。広い路地で撮影した時、黒装束の女性3人が通りかかった。写した瞬間に女性たちが近くにいたことに気づいた女の子は、まずかったというように口に手をあて、おどけた顔をした。
イスラムの女性は基本的に体のラインや肌の露出を禁じられているが、この国ではそれが厳格に守られている。だいたい12歳からヘジャブ(スカーフ)で髪の毛を覆うが顔は出している。しかし、16歳ぐらいから黒い布で顔も含めた全身を覆い隠され、男性はそのような女性に話しかけられず、見つめることも許されない。写真を撮るなど論外である。
それを考えると、このような天真爛漫な娘が大人びたポーズを取ることに哀れみを感じてくる。女性らしい姿を見せられるのは初潮前の子どものうちだけなのだ。
私は、彼女のしつこいスーラ、スーラにつきあい続けた。髪の毛をかきあげるポーズはいつまでできるのだろう。全身を撮影してもらえるチャンスはあとどれだけあるのだろう。
腕を引かれながら、言葉の通じない彼女に話しかける。
『ねえ、撮った写真欲しくない?』
『ねえ、どうしたら渡すことができる・・・』
『ねえ・・・』
不意に現れた子どもたち(サナア)
<狭い路地から現れた裸足の子どもたち>
車の通らない静かな路地で、ファインダーを覗きながら撮影ポイントを探していると、突然、2人の女の子が目の前に現れた。そして、年長の子が無言でカメラを指差す。写真を撮って欲しいのかと私が尋ねると、彼女が頷き、2人は緊張した面持ちで身構えた。カメラの準備ができていなかったが慌てて1枚撮影すると、そのまま2人は立ち去ろうとする。
『ちょっと待って。スーラ、ワン、スーラ、ワン』
覚えたばかりの言葉が通じた。裸足のこの子たちは、髪はボサボサで服は汚れている。先ほどの子と違い、旧市街で平均的な暮らしをする子どもたちのようだ。
『こわい顔しないで、リラックスして。ほら笑って』
すぐにでも逃げ出したそうな子どもたちを立たせ、カメラを向けながら話しかける。通じているのか引きつった笑みを浮かべる。
『まだ、かたいなあ。ちょっと待って、もう1枚・・・。』
3枚目の準備をしようとした時、2人はこらえ切れなかったように駆け出し、私の背後の狭い路地へと去っていった。
不意に現れた子どもたちは唐突に目の前から姿を消した。
子どもを叱る(サナア)
<夜のサナアの子どもたち>
夕方になると子どもたちが増えてくる。サナア旧市街の広場で3人の姉妹を見つけカメラを向ける。すると、近くにいた男の子たちがすごい勢いで駆け寄ってきた。しかたなく男の子を含めた集合写真を撮り、その後で女の子だけを撮ろうとしたが、女の子たちが押されて大騒ぎになる。更にその様子を見た周りの子どもたちが大勢集まり、カメラを持った私がもみくちゃにされる。その時、近くにいた大人が子どもたちに大きな声を出した。
『何やってんだ。みっともない。』
たぶんそんなことを言ったのだろう。興奮していた子どもたちを私から引き離すと、その男は私を向いてニヤリとした。彼は口髭を触りながら私のカメラに興味の視線を向けていたが、その衝動を押さえるように手をあげて去っていった。
サナアでは他人の子どもを叱る大人の姿をよくみかける。イエメン人あるいはアラブ人のプライドを教えているような気がする。
道は続いている(マナハ、ハジャラ)
<落石で塞がれるマナハからの道(作業員の頬がカートで膨らむ)>
<マナハから遠望する要塞村ハジャラ>
サナアから約100Km、チャーターした車で峠道を走るとマナハへ着く。地方では部族間の抗争が続いているイエメンでは、車でサナア郊外に出るために政府から許可証を取る必要があり、地域や時期によってはテロの多発により許可されない。
ハジャラは深い谷を挟んだ対岸にあった。時々、雲でかすむこともあり、果てしなく遠いところに見える隣村である。マナハからハジャラへの道は、谷を大きく巻くように伸びている。しかし、その未舗装道路には何台も数珠繋ぎになった車が停車していて動く気配がない。どうやら落石で道が塞がれ、開通の見込みがたっていないようだ。
せっかく車をチャーターしてここまで来たのに、私は頭を抱えた。良くあることだと暢気に言う運転手に、じゃあどうすれば良いのだと尋ねる。
『なあに、車が通れなければ歩けばいい。道は続いている』
そうか、落石で道が途絶えたわけではない。車が使えないだけなのだ。距離は5Km程度、上りをみても1時間あれば着きそうだ。ガイドを兼ねているはずの私の運転手は、車が通れるようになったら迎えに行くよ、と全くやる気がない。私は、1人でハジャラに向かうことにした。
ホテルや街の人たちが、ハジャラへはガイドと行くべきだ、私が一緒に付いて行こうかと申し出る。しかし、敢えて別のガイドを雇う必要はない。道のほとんどがここから見えているのだから。私は彼らに応えた。
『大丈夫、迷うことはない。道は続いている』
観光ずれした村(マナハ、ハジャラ)
<切り立った崖のふちで遊ぶ子どもたち>
<絶壁に守られるハジャラ>
ハジャラに近づくと、その姿はますます異様だ。建物が絶壁に沿って建てられ、人が下から登って入り込むのは不可能に見える。サボテンが植えられているのはヤギも近づけないようにするためだという。村の中心地区は絶壁と防護壁に囲まれた要塞城になっていて、そこには人ひとりがやっと通れる小さな門からしか入れない。
この村に着いた時からガイドを強要する子どもたちが次々と寄ってきた。断って無視してもガイドを続けたり、私のバッグを引っぱる、道を塞ぐ、石を投げるなど様々な攻撃にさらされる。ガイドと一緒にハジュラに向かうべきというマナハの人々の忠告を聞かなかったことは誤りだったのか。いや、ここまで来たら最後までガイドなしで済ませよう。そう思っていたが、この小さな門を数人の少年に塞がれ、前に進めなくなった。
『ここは俺たちが住んでいる村だ。ガイドをつけない旅行者は通させない』
年長の少年にこう言われと、これ以上我を通しきれない。しかたなく最も温厚そうな子にガイドを頼んだ。やっと攻撃的な子どもたちから解放され、幼い子らが戯れる平和な住宅地を探索した。
ガイドを頼んだ子と要塞城の外に出て村はずれの店でガイド料としてのコーラを買う。村に入ってきたとき私に無理矢理ガイドをしていた少年が店までついて来て、当然のようにコーラを要求する。この要求を退け店を後にすると、後ろでガチャンと大きな音がした。驚いて振り返ると腹いせで空き瓶を割った少年が私を睨みつけている。
私は足早に村の外へ出た。マナハへの道を下る私の背後から、何人もの子どもたちが投げる石が飛んできた。不適切な観光客の対応により、子どもたちがすさんだ村だった。
ジャンビーアダンス(マナハ、ハジャラ)
<朝陽に照らされるマナハの街なみ>
<急峻な山を背にしたマナハの暮色>
マナハは、ハジャラへの拠点として外国人観光客が多く訪れる比較的安全な街だ。しかし、街には他の部族からの攻撃に備えた要塞としての機能があり、街を少しはずれると、異国人を見慣れぬ子供たちが逃げ出して遠くから石を投げてくる。
マナハに1件だけあるホテルには私を含め外国人が6人泊まっていた。20畳程の絨毯敷き広間で夕食後、外国人向けにジャンビーアダンスを披露するというので、期待して部屋からカメラを持ち出した。
しかし、演奏に合わせてリズムを取りながら現れたのは髭をたくわえた3人の男たちだった。手をつないで横になったり輪になったりしながらしきりにステップを踏む。やはり、この国ではダンスでも男性しか出てこないのか。それにしても、男たちが懸命にステップを踏む姿を見て楽しいわけない。全くつまらない。
やがて、曲のテンポがあがり、広間の中を飛び跳ねるようにスキップして、中央に座していた私に男たちの汗がかかる。純白の服を着たじいさんが立ち止まり両手を広げ大きな袖を下に垂らす。あんたはジュディオングか。そして、更にテンションを上げ両手を広げたまま駆け回り、じいさんたちの袖が私の顔にあたる。
今度は、ダンサーたちが観客を一人ずつ立たせて手をつなぎ、自分たちと一緒に飛び跳ねさせる。最後に私にも順番が回る。欧米人たちが楽しそうな顔をして応じた後だけに、国際慣例上、断るわけにいかない。しかし、おやじ、顔が汗でぐしょぐしょだぞ。わあ、べちょべちょした手で握るな。わかった、わかった、はしるよ、はねるよ、わらうよ。はあはあはあ。息があがったところでやっと解放される。
良かった良かった、パチパチ、もういいだろ。えっ、終わりじゃない。タンタンドン、タタンタタン。タンタンドン、タタンタタン。曲のテンポがスローになった。男たちが両手を開いて胸や腰を揺らす。これはっ、テンポの遅いベリーダンスだ。おやじたちがそんな踊りしてどうするんだっ。近寄るなー、胸揺らすなー、汗が飛ぶっ。
後ろに下がった男たちの顔つきが変わった。演奏は続く。まだ何かあるのか。ダンサーたちは腰からジャンビーア(半月刀)を抜き、上にかかげる。ひらひらひら、ひらひらひら、太鼓の音に合わせて振り回す。そりゃあちょっと危ないんじゃないか。おい、もしかして・・・。彼らは刀を振り回したまま近寄ってくる。ひらひらひら、ひらひらひら。やめろ、やめろ、ここは砂かぶり席だから、危ないんだから。おいこらっ、足許ばかり見るな、刀を見ろ、ほら、あたるっ。写真撮っているどころじゃない。テンポが上がり、おやじたちは刀を振り回しながら狭いスペースを駆け回る。ひらひらダダダー、ひらひらダダダー。うわーやめろ、危ないって、やめてくれー。
見せ場に入ったジャンビーアダンスはまだまだ続くのだった。
カートを噛む(コーカバン/シバーム)
<コーカバンから見下ろすシバーム/断崖上に見える双子都市コーカバンを目指す(2枚組)>
マナハからの帰りにコーカバンに寄る。コーカバンから断崖350m下にはシバームがあり、両者は千年以上前から双子都市として街を守ってきた。サナアから車で1時間と近いため、郊外への日帰り観光として旅行者が多くやってくる。その景観と、現在でも崖の登り下りをして街の人々が行き来するという事実に驚かされるが、街自体には面白味がない。
崖下側のシバームで、運転手と私は昼食を取るためにホテル内のレストランに入った。イエメンに古くからあるホテルはどこでも最上階に広い絨毯敷きの部屋があり、そこを食堂として金属の大皿に盛られた料理を手やスプーンで食べる。一般の5、6階建ての住居でも最上階がマフラージと呼ばれる座敷があり、食事以外にカート・パーティが行なわれる。
アルコールが禁止されているイエメンの男たちの嗜好品であるカートは、アカネ科の木の葉で、我々から見ればどこにでもありそうな変哲のない葉っぱである。しかし、この長さ3cmほどの葉を何十枚も飲み込まず頬の内側に溜め込んで噛んでいると気分が高揚してきて、ほっぺが十分膨らむと口が滑らかになりパーティが盛り上がるという。このカート・パーティ、夜に行なうのであれば酒宴の代わりとして理解できるのだが、イエメンの男たちは毎日それを昼下がりに始める。
私の運転手は、郊外にはサナアにない上モノが多いからと言いながら、運転中に道端に立つカート売りを真剣に探す。そして、これはという売り子をみつけると車を停め、値段を聞き品質をチェックする。そうやって、昨日も今日も何度も車を停められた。
昼食後、彼はニコニコしながら移動途中で購入したカートの袋を取り出した。昨日は彼がカートを噛んでいる間に私は一人でハジャラに向かったが、今日は少し彼に付き合ってみようか。枝から葉を1枚ずつ取り、親指と人差し指で軽く揉んだ後口の中に入れ、奥歯で噛んで葉の液がでてきたところで頬の裏に押し込む。
思い出した。エチオピアでもこれを噛んだ。あの時は葉っぱ3枚を口に含んだところで吐き出した。今日は上質な葉だというから少し我慢して噛み続けよう。強烈な味はないが、見たままの、その辺の雑草を噛めばこんな味がするだろうなという苦味しかしない。まあ、男性の好む嗜好品は苦いものであるから、苦味に耐えて覚醒作用が出るのを待とうか。
10枚程度の葉では全く頬は膨らまない。20枚ぐらいは口に入れた。液体を出した後のぱさぱさとした乾いた葉が頬に溜まり、かなり不快になってきた。
『水を飲め。水を含むと葉から更に液体が出てくるから、少しずつ気持ちよくなるぞ。』
運転手の言葉を聞いて、私は水を口に入れた。口の中全体が気持ち悪くなっていたので、まず水を飲む。その後、葉を溜めていた頬の方に水を流し込むと、ぱあっと口中に雑草の味と臭いが広がる。涙が出てきそうだ。例えるなら、二日酔いで胃から出てきた物を口に溜めて我慢しているようなものだ。ギブアップ、ギブアップ。私は洗面所に走り、草を全部吐き出した。しかし、何度口をすすいでもその悪臭は消えない。
運転手はホテルのスタッフと談笑しながら、まだカートを口に入れ続けている。カートを噛んで覚醒しないと午後の運転はできないというのが彼の言い分だ。彼の頬はまだ十分膨らんでいない。しかたなく私は街に散歩にでかけた。
熱さに負ける(シバーム)
<砂漠のマンハッタン シバームの昼下り>
イエメンの首都サナアから東へ飛行機で1時間の砂漠の都市サユーンを目指す。高度を下げ、道を走る車が見分けられる高さになった時、砂漠の中に忽然とビルの塊りが現れる。密集した草を束ねて鎌でざっくり刈り取られた切り株のように、同じ高さのビルが隙間なく固まって建つ。人間が造りだしたとは思えない不気味な光景だった。砂漠のマンハッタンと呼ばれるシバーム(ハドラマウト州)である。
シバームは空港のあるサユーンから車で20分の距離にある。近くで見ると特に変わったことはない、5、6階建てのビルが幾分狭い間隔で整然と並んでいるだけだ。これらのビルは泥をもとにした日干しレンガで造られ8世紀頃から建てられている。現在残っている建物もほとんどが500年以上経っており、この集落全体が世界遺産に指定されている。街中には常に日陰があるため砂漠の暑さは感じず、通りも清潔に保たれて、元気に走り回る子供たちが垢抜けてみえる。まるで都会の団地の中にいるようだった。
砂漠の道をサユーンに向かって走る車にはエアコンがない。気温は42、3度。お風呂で気持ち良いか熱いかの境目になるこの温度が、風にあたった時に涼しく感じるか熱風として痛みを感じるかの境目のようだ。私は車の窓の開け閉めを何度も繰り返していた。
ハドラマウト地方の中心地サユーンの道は、ほとんどが舗装され道幅も広いため日陰が少ない。宮殿や博物館、スーク(市場)などを訪ねて炎天下のなか歩き回っていた。2時間ぐらい歩くうちに足が重く感じてくる。なんか、靴がバタバタしているようだ。足下を見て驚いた。靴が大きくなっていたのだ。正確にはゴム底だけが1cm拡大して布製のアッパーから遊離しかけている。アディダス製の1万円以上もするトレッキングシューズが何とも無残な姿だ。アスファルトの上がそんなに熱かったのか。
かわいそうなアディダスくんを水で冷やし休ませてやったが、二度と元の姿には戻らなかった。
カートだけの披露宴(サナア)
<サナア旧市街の披露宴>
イエメン最後の日にサナア旧市街を歩く。一般に首都の街中はぎすぎすしているものだがサナアは違う。地方では人々が粗野で攻撃的ですらあるが、サナアは大人も子供も概ね穏やかであり、やすらぎを感じる。イエメンは地域により現在でも部族間の闘争が多く、緊張感の中で生活しているからかもしれない。
おっとりしているサナアの人々は午後になると働いている男性の多くが黙々とカートを噛み始め、更に静かになる。街のあちこちで、店員、運転手、建築労働者などが集まり、カートを噛み始めて頬を膨らませる。長い人は昼食後から夕方まで噛み続けるため、午前中に少し仕事して、昼近くにはそわそわとして良質のカートを探し歩き、午後はずっとカート・パーティで一日を終えるということになる。イエメンの経済や文化が発展しないわけである。
大きなテントの入口に人だかりができていた。テントの中から音楽がかすかに聞こえる。私は入口に群がる男たちをかき分けてテントの中を覗き込んだ。男たちが隙間なく腰掛けるテント内で、1人で弾き語りをする男がいた。冴えない曲に会場の反応がない。
私はこの異様な雰囲気を撮影しようと、入口からカメラを向けた。すると、中にいた世話役が私をみつけて引き込む。どうぞ奥へと言われても足の踏み場もない。
『今日はめでたい結婚式ですから、中に入って写真を撮って下さい。』
私は報道関係者でもカメラマンでもないですよ、デジカメを持ったただの旅行者ですよ。そう主張する間もなく、私は参列者に隙間を空けてもらいながら会場の奥へと連れていかれた。結婚式といっても会場は男ばかりで雛壇には花嫁もいない。イスラムの国では披露宴を男女別々に行なうことが多いとは聞いていたが、花嫁もいないというのはつらいではないか。
主賓席にたどりつき、つまらなそうな顔をした新郎を写す。デジカメの写真を見せるとごく周辺だけが盛り上がる。新郎の隣に座らせてもらい会場を見渡すと、食べ物が何もでていないのに気づく。男たちの前にあるのはカート(葉)と水だけ。詰め込んだカートでみんなのほっぺは十分膨らんでいるが、まだ効き目があらわれていないのかテンションが上がらない。これがいったい何時間続くのだろう。
私は早々に退散した。
つらいなあ、酒のない男だけの披露宴は。
イエメン旅行のルート(2003年9月)
- 1日目
- ドバイ(6:30)- サナア(8:30) エミレーツ航空
サナア泊 HILLTOWN SANA’A HOTEL($35) - 2日目
- サナア-マナハ チャーター車(3時間、翌日の2日間で$100)
マナハ泊 ($7) - 3日目
- マナハ - スーラ - コーカバン - シバーム - ワディ・ダハール チャーター車
サナア泊 HILLTOWN SANA’A HOTEL($35) - 4日目
- サナア(7:30)- サユーン(8:30) イエメニア航空
サユーン - シバーム - サユーン タクシー
サユーン(15:20)- サナア(16:20) イエメニア航空
サナア泊 ($15) - 5日目
- サナア(10:00)- ドバイ(14:00) エミレーツ航空
イエメン国内線の予約や2日間ツアーのチャーター車の手配(事前に警察からの許可証が必要)をサナアに到着してから行なったが、4日間の滞在にしては効率的に回りイエメンを堪能できた。
イエメンはどこに行っても特異な景観や生活環境が見られるので、日程の許すかぎり足を伸ばすことでより多くの発見や体験が可能と思われる。