タグ別アーカイブ:お子さま ( 30件の日記 、ページ 2/3 )

[カンボジア]シエムリアプ(2)

<ワットの回廊にて/タプロムにて(2枚組)

<シエムリアプの子どもたち(2枚組)

アンコールワットの回廊には、見事な壁画が残されている。ふと旅行者が途絶え、石造りの回廊が静まり返った。その時、壁際を音も立てず走り過ぎる子がいた。薄汚れた衣服がねずみ色の壁に同化しそうだ。私と視線が合うと立ち止まり、大人びた笑みを返した。
回廊の連子窓から差し込む細長い光が彼女を照らす。壁画からでてきたアプサラ(天女)を見ているようだった。(写真上表)

「格好いいね、お兄さん。ねえお兄さん、これ買ってぇ。」
ニコニコしながら話しかけてくるお嬢さん。厭味がなく、屈託ない笑顔から日本語が発せられるとくすぐったくなる。
アンコール・トムで出会った物売りの子は、おでこが広く、目が離れ、鼻がつぶれたこの国の典型的な顔立ち。しかし、写真を見ていると引き込まれてしまう。彼女こそがカンボジア美人なのでは。(写真下表)

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10年前に寺院を巡っていると、銃を抱えた少年や片足を失った男性が物陰から姿を現し、何度か金を要求されて怖い国だと感じていた。また、子どもたちが大勢群がり、執拗にお金やペンを求め、断ると非常に不快な態度を表していた。
しかし、今は遺跡群の隅々まで警官やスタッフが配置され、危険そうな人物は見かけなくなった。子どもたちの物売りはまだいるが、不遜で攻撃的な態度を取る子には出会わない。

絵葉書などの小さな土産を抱えた子どもたちが、寺院へ行く途中と帰りにつきまとって来るが、すぐに離れてしまう。場所によっては、道路と寺院の間の広場に2本のロープが地面に張られていて、その間でしか物売りをしてはいけないそうだ。ロープが張られていなくても、何らかの目印で活動できる範囲が制限されているらしい。それを知れば、しつこいからと大声を出して物売りを振り払う必要はなくなるだろう。

[スリランカ]ヌワラエリア

<ヌワラエリアの車窓(2枚組)

高地ヌワラエリア(ヌワラ・エリヤ)周辺には茶畑が延々と広がる。列車の開放された窓から緑づくしの景色(写真上)が続き、ため息が出る美しさだった。

<車内で出会ったお子さま(2枚組)

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ヌワラエリアにはキャンディからバスで3時間。ルートの後半はイロハだけでは数え切れないほど延々とヘアピンカーブを曲がり、高地へと登っていく。(区間ルートで12まで拡大するとコットメール貯水池(Kotmale Reservoir)、Tawalantenne付近に九十九折れあり)
茶畑以外何もないヌワラエリヤは、標高1900m近く。急に寒くなり、エアコンは不要。宿ではロビーに暖炉があることをうたい文句にしているぐらいだ。

翌朝、バス、列車、バス、トゥクトゥク(三輪車)と乗り継ぎ(道路のルート)5時間以上かかって聖なる山アダムスピーク(スリーパーダ)の登り口に着く。キャンディから(ルート)車をチャーターすれば3時間ぐらいで着くようなので、ずいぶんと遠回りしてしまった。
車窓や登山道からは大小いくつもの滝が望める。世界で一番滝の密度が高い国だと観光省が自負していたが、まんざらでもない。
頂が尖がり富士山のような末広がりの山容をみせるアダムスピーク(2238m)。あいにく雲で覆われ麓から頂を望むことができなかった。(2014年2月追加)Googleマップによるアダムスピーク登山道の距離は4.6km、標高差は900m。
聖なる足跡があるという山頂を目指して歩き始めると中腹から雨に打たれた。他に登山者はいなかったが、階段などで整備された道がずっと続き、荷上げする強力(ごうりき)の姿を時々見かけたので強引に山頂まで登った。山頂には住み込みの寺男がいる小さな寺院があったが、雨で寒かったのでよく見ずに帰ってきた。
登山は十分楽しめなかったが、ヌワラエリヤからアダムスピークにかけての自然の美しさがスリランカの旅で最も印象深いものとなった。

[スリランカ]ニゴンボ

<ニゴンボ漁港のお嬢ちゃん(2枚組)

コロンボ近くのニゴンボに宿を取り、朝、水揚げした魚をその場で売る小さなマーケットに向かった。威勢良く動き回る彼らの中に静かで平和なスペースを見つけ、買い物中の親を待つ子供に相手をしてもらった。

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海岸沿いを歩いていると、中年の女性が親しげに話しかけてくる。ここは2006年の津波で被害を受け、彼女の家も流されたのだという。その跡地に連れていかれると、砂浜のような砂地の上に簡単な土台だけが残されていた。流されずに残った近所の家を見ると、日本の海水浴場にある海の家よりも簡素だ。

その女性は、跡地より1軒分内陸側に建つ隣人の家に身を寄せていた。しかし、海岸寄りに建っていた彼女の家が防波堤代わりをしたからそこが残っただけで、再び同様の大津波が来れば、今度はその家が流されてしまうとしか思えなかった。
(いろいろと厳しい事情があるのだろうが)抜本的な解決をしない人たちだ。

[ジョージア]ヴァルジア->アハルツィへ

<ヴァルジア洞窟都市(2枚組)

ヴァルジアは修道院を兼ねた岩窟都市の遺跡、ミニ・カッパドキア。
広大な規模を誇るカッパドキアとは比べるべくもないが、奥深い山肌に残された遺跡は十分楽しめる。意外にも地元観光客と思われるグループが数多く訪れていた。

<多民族(トルコ/東欧/露系)国家を象徴する顔だちのお子さまたち>

小高い丘に城塞(航空写真)があるアハルツィヘはこぢんまりとした面白味のない町だが、人は悪くなさそう。アルメニアでもそうだったが、東洋人が歩いていると町の人々から無遠慮な興味の視線が浴びせられる。子供や青年たちは何かしら声をかけてくることが多い。

カフェで食事を済ませ外に出ると、見た目にいかにも町のワルといった感じの青年たちがたむろしていた。ハローと声がかかり、男たちの視線が集中する。絡まれるのかと身構えると、リーダー格の男が英語で話した。
「何か困っていることない?オレたちが助けてあげるよ」
うーん、よくできた青年だ。

[ジョージア]カズベキ

ジョージア(グルジア)軍用道路を北上して国境前の最後の町がカズベキ(あるいはカズベギ)。カフカス山脈の山々が間近に迫る町だ。

カズベキの美形の女性から声をかけられた。学校で習っているというカタコトの英語を話す。最初、恐る恐る接していた彼女がだんたんと大胆になる。私の折り畳み傘を手に取り、こんな凄い傘を見たの初めてだと乱暴に扱い、一緒にいた友人とはしゃいでいた。

写真を何枚か撮って見せると喜び、自分の写真が1枚もないのでプリントして送って欲しいという。しかし、住所を書くように私が何度言っても自分の名前だけで大丈夫としか答えない。
誰か大人にこちらの郵便のしくみを確認したいのだが、宿の主人も含めて出会った全ての人が英語を話さないのだ。

毎日、ロシア語攻めでへとへと。語学センスがある人なら、とっくに簡単な会話はできているだろう。

<後日談>

宛名に女性の氏名、カズベキ、グルジアとだけ書いてポストカードを送ったら、無事受け取ったというEメールが彼女から届いた。
(私は今まで知らなかったのだが)はがきは70円切手を貼ってそのままポストに投函すれば全世界どこでも配達してくれるそうだ。今後は、住所が明確でなくてもダメモトで送付するようにしよう。(2008年9月17日)

<さらに後日談>

携帯を買ったと言って2年ぶりにメールが届いた。メールのやりとりをしてわかったことだが、知人(親戚?)が郵便局に勤めていて、彼女宛の郵便は彼が届けてくれるそうだ。(2010年12月4日)

<2007年6月14日>

すぐそこに見えているのにそこだけ別世界。万年雪に覆われたカズベキ山は5,033m。
カズベキ村が1,750m(GoogleMapsの標高はカズベギ村より400m高いツミンダ・サメバ教会)なので標高差三千メートル以上あるのだが、雪さえなければ気軽に登れそうなほど間近に見える。
しかし、青空が広がっていても日中はカズベキ山だけ雲に覆われ、滞在中に姿を現したのは日暮れ前と日の出直後のいずれもほんの一瞬だった。

<カズベギ山/隣のゲルゲティ村(2枚組)1枚目左上2枚目右上の山頂にツミンダサメバ教会(航空写真)

[ガイアナ]ジョージタウン(3)

空港での待ち時間に外に出ると、ビルのすぐ近くに庶民向けの店が数軒並ぶ長閑な通りがあった。そこでジュースを飲んでいた私を興味深くみつめていた子と仲良くなる。写真では大人びているが、6、7歳にしかみえないかわいらしい子だった。

怖そうな街で嫌な人もいるが良い人もいて、最後にかわいい子供と接することができたので良い印象でガイアナを出国できると思っていた、が甘くはなかった。

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出国時の税関チェックを特別扱いでねちねちとやられた。相手はアフリカ系黒人男性。何を話しているのかさっぱりわからない。

何がきっかけだったのかわからないが、私だけ個室に連れていかれ、鞄の中身を細かくチェックする。そして、隠すように分散してあった現金を手に取って集めていく。その男は現金にしか関心がない。アフリカ人官吏によく見られるタイプだ。そして日本円をみつけて喜ぶ。ゼロの数が多いから大金だと思ったのだろう。1万円札の価値は80ドルしかないと答えても信用しない。そして、これは問題だ、お前はこのままでは出国できない。税関に出向いて申告しないといけない。お前はこの飛行機に乗ることができない、と脅してくる。まるくつぶれた鼻でべちゃべちゃとわかりにくい英語を話していたが、こんな小男の脅しに乗せられる旅行者などいるのだろうか。
何を言っているんだ、私は入国時にドルの価値で所持金を申告している。こんな少額の現金を所持していることで何が問題だというのだ。ちゃんと説明しろ。今までおとなしく応じていた私が反撃に転じた。
しかし、彼の英語が私に分からないように私の英語は彼に半分も通じていないようだ。彼は問題だ問題だと言いながら、ときどき声のトーンを落としてべちゃべちゃと話す。全く理解できない。こちらからワイロの話しを持ち出すよう仕向けていると想像されるが、私に全く通じていない。彼はイライラしながらも別の人間を呼ぶから待っていろ、と何度も電話をかける。
私がトイレに行ったり、彼が電話している隙に少しずつ前進したりして、我々は搭乗機のゲート前まで来ていた。既に搭乗が開始されている。丸鼻の黒人は、お前は乗れないぞと脅し続けていたが、ついに私以外の搭乗客が全て機内に入ってしまった。ロビーには携帯電話で話をする小男と私の2人だけになり、航空会社の男性職員がいぶかしげにみつめている。私乗れないみたいなんで行っちゃって下さいという訳にはいかないだろう。航空会社のスタッフがどうしたんだ、なぜ待たせているんだと電話を切った小男に詰め寄ってきた。今、税関から別の人間が来るから待っていろと言ってた男も、これ以上出発を遅らせられないと航空会社のスタッフに言われ、渋々、私に行っていいと手で合図した。

だいたい予想できた結末だった。アフリカ系官吏には野犬がまぎれているので、吠えられたことに腹を立ててはいけない。噛まれなかったことを良しとしないと。

[モロッコ]メクネス

<モスクで手足を清める参拝者>

<路地の子どもたち>

フェズからカサブランカに向かう途中にあるメクネス。ここも世界遺産に指定された古都だと知り、急遽、立ち寄ることにした。
モロッコはロンリープラネット・ヨーロッパ編におまけで付いていたページを頼りに観光しているため、情報不足による手探りの状態が続いている。メクネスのページには地図がないため、ツーリストオフィスの概念的な地図をベースにして地元の人に尋ねながら歩く。
フェズやタンジェでは、観光客ずれした人に嫌な対応をされる場面があったが、モロッコ人は柔和な顔つきで物腰やわらかく、基本的にやさしい。観光客が少ないメクネスでは、こちらから尋ねなくても親切に道を教えてくれる人が多い。

メクネスで話される言葉はフランス語になった。しかし、ある男が珍しく英語で話しかけ、複雑なメディナ内のポイントをガイドしてくれた。最後に予想通り土産物店に連れていかれるが店主の講釈だけを聞いて店を出る。すると、その男がガイド代として2ユーロ弱を要求してきた。私にとって彼のガイドがかなり役に立ち、あまりにも控えめな数字だったため一瞬心が動いた。しかし、軽く拒否して様子を見ていたら簡単に引き下がってしまった。噂で聞いていたインド人以上に押しの強いモロッコ人にはまだ出会っていない。

モロッコに入ってから、ヨーロッパでほとんどできなかった子どもたちとコミュニケーションできるようになったが、彼らの写真を撮るのはなかなか難しい。撮られたがっている子どもたちは多いが、近くにいる親や大人たちが許さない。親の承諾を受けてなんとか撮影していると、興奮して騒ぎ出す子どもたちを近くにいる大人が叱りつける。間接的に撮影者の私を注意しているようで、何度も怒られているうちに子どもを写す意欲が薄れてしまった。

メクネスの食堂でもタジンを注文した。今度はずいぶんと店の雰囲気が異なる。昼時だが客が少なく、店内には簡素な机と椅子がつまらなそうに並べられる。時間がかかるはずの土鍋料理があっという間に出てきた。鶏肉とポテトチップスだけだ。これはフェズのタジンと全然違う。野菜がないぞ。油が多すぎる。食べ始めてすぐ気持ち悪くなってきた。

[モロッコ]フェズ(2)

<なめし皮作業所>

世界一巨大な迷路フェズで知らない道を歩き大いに迷ってみようと思ったのだが、袋小路が多く結局同じ道に戻ってしまう。地図上で近くにあるはずのなめし皮作業所にたどり着けず、声をかけてきた男に連れて行ってもらう。一帯に近づいてきただけで、噂に違わず悪臭がすごい。客引きに連れて行かれたのは皮製品を扱う土産物店で、その屋上から作業所(上の写真)を観察できる。ここで見学料を支払うか店で買い物をしないといけないのだろう。しかし、この臭いをかいでしまうと皮製品を買う気がなくなるのではないか。
もとからその気のない私は店内見学につきあっただけで何も買わず、撮影料を取られることもなく店を出てくる。モロッコ人はあっさりしているなあ。インドでこのような状況であれば、何か買わなければ生きて店から出られないのではというほど脅されるのだが。

メディナ内の人通りが多い商店街を抜けると密集した建物と狭い道が続く住宅地がある。なめし皮作業所の近くを流れる川には篭に詰められたゴミが次々に捨てられていく。隣のユダヤ人地区の川では少年たちがプラスティック容器を持って水を汲みに来ている。メディナから3km先には現代的都市生活が営まれる新市街があるというのに、城壁で囲まれた狭い地域に密集して生活し続ける必然性があるのだろうか。

<路地内のお子さま>

食堂の屋上でメディナの路地を見下ろしながら、タジンと呼ばれる土鍋料理を食べた。よく煮込まれた鶏肉と野菜が口の中でとろける。これだ、こういう料理がずっと食べたかったのだと感激した。
猫が2匹、食事中の客にねだりながらテーブルの間を歩き回る。客の足に鼻をこすりつけ蹴り返されても、離れずに下から見上げているだけで、決してテーブルには上がってこない。
ところが、食事を終え手を洗おうと席を離れると、あっという間に2匹の猫が皿に残された鳥の骨と皮を奪い、テーブルの下に運んで静かにむさぼっていた。
よくしつけられた猫たちだ。

[モロッコ]タンジェ

<タンジェのメディナ内(2枚組)

1時間半のフェリーの移動でモロッコに入る。さすがに雰囲気の変化は感じるが、タンジェはヨーロッパの延長上にある。東欧の国に来たぐらいの気分。
スペイン南部なみの値段で質が若干落ちたホテルに部屋を取り、メディナに向かう。メディナに近づくに従い、日本人かとかガイドは要らないかと声をかけてくる男が増えてきて、やはりここはヨーロッパでないなと感じてくる。
メディナで路上で戯れている子供たちと仲良くなり写真を撮っていると、大人たちに囲まれ金を払うよう迫られる。彼らは、公用語のアラビア語、フランス語以外にスペイン語と英語も話す。どの言語も理解できない振りをしてその場を逃げる。
その後もカメラを持って歩いているだけで、少年や大人たちが寄ってきて意味もなく金を要求する。
モロッコ、ちょっとガラ悪いんじゃない。

[トルコ]イスタンブール

イスタンブールでPCの到着を待つ。
ホテルチェックアウトの12時までに空港から連絡が入れば今日中にイスタンブールを出発しようと思っていたが、そんなに甘くはなかった。もっと安いホテルへの移動も考えて周辺を探索したが12時までには見つけられない。
空港でもらった大まかな地図では自分のいるホテルの位置がわからず、ホテルのスタッフに尋ねても要領を得ない。周辺にインターネットカフェが多いのだが、トルコ語の入力しかできない。この辺りには外国人がいないのか。

やっとホテルの位置がわかり、トラムで旅行者の多い地域を訪れる。旅行会社でジョージア行きの安いチケットを探したが見つからない。イスタンブールは過去に観光しているので特に行きたいところもない。美味い飯屋も見つけられなかった。

何の収穫もない1日だった。

<2006年4月29日>

イスタンブールは寒い。雨も降っているせいか、持っている服全てを着込んでも寒い。

相変わらずやりたいことがなかったが、日本語入力可能なインターネットカフェをみつける。ネット検索によりイスラエル航空のイスタンブール着が今日の深夜近いことがわかる。寒さに加えて更に憂鬱な気分になりホテルの部屋で休む。何か用事を考え、つめ切りが必要なことを思い出した。イスタンブールのバザールでつめ切りを探す。私にとって2回目の海外旅行でトルコに来たが、その時はこのバザールの大きさと華やかさに感動して、おやじたちに手玉に取られ、大量の買い物をしたものだ。久しぶりのバザールに感動はない。旅慣れてしまうとこんなにもつまらなくなるものだろうか。
時間があるのでくまなく歩いてみたが、観光客を相手にした同じような品物を売る店がいくつも続く。私の必要としている安い爪切りはみつからない。店先でぼうっと商品を眺めていても店主が全く声をかけてくれない。街中を歩いていると昔は危なそうな男たちがしつこく声をかけてきたのだが、今は言い寄ってくる人物はほとんどいない。イスタンブールが変わったのか私が変わったのか。

安い爪切りは2時間ぐらいかかって、バザールの中心から離れた地元客を相手にする店でみつけた。
他に印象に残ったのはサバサンドと焼きとうもろこしに満足しただけ。今日も無駄な1日を過ごしてしまった。

<2006年4月30日>

日本円で10円以下になるこちらの少額硬貨はとても小さくなり、外周が小指の爪ほどでおもちゃのように感じる。トラムの駅から地下通路に降りる階段の踊り場で女の子が2、30枚の少額硬貨を壁際に広げ、小さな指先で1枚1枚移動させながら数えていた。一見、ままごとでもしているようにも見えたが、12、3歳の姉が真剣に数え、その姿を5、6歳の妹がじっとみつめている。
姉妹はポケットティッシュを売っていた。この辺りで物乞いもどきの人々が扱う売り物だ。身なりはそれほどみすぼらしくないが、この姉妹は都会でかなり貧しい生活を強いられているのだろう。私が階段の下に降りてからも2人を見つめていると、背中をみせていた妹がこちらを振り返り微笑む。無邪気な妹は明るい。
私は地下通路の商店街をひやかしていたが、いつしか階段のところに戻っていたので見上げてみる。かわいい妹の姿がなく姉が膝を抱えて階段に座っていた。彼女はポケットティッシュを詰めた箱を足下に置き、うつむき加減に遠くをみつめて階段を行き交うトラムの乗降客と視線を合わせない。そんなやり方でいったいどれだけのティッシュが売れるのだろう。気になりながらもまた地下商店街を歩きだした。
私は日本から大量のポケットティッシュを持ってきていてほとんど減っていない。彼女のティッシュを買ってあげたいが、アイスやジュースといった嗜好品には一切金を使わず、食事も極力安い物を選んでいる状況で、必要のない物にお金を使いたくない。しかし、長い髪を後ろで結わえた姉が懸命に小さなコインを数える姿が頭から離れない。あの無邪気な妹も喜ぶのであれば。
私は再び階段に戻り姉妹のいる踊り場を見上げると幼い妹が戻っていた。なんとその手には紙パック入りオレンジジュースが握られ、ストローでうれしそうに飲んでいるではないか。妹は私と視線が合うと、にこにこと笑う。
おい、こら、お姉ちゃんの稼いだ金をそんな贅沢なものに使うな。


やっとPCを受け取る。やはり昨晩遅く着いたイスラエル航空便に乗せられていたようだ。24時間以内で必ず届けると約束したイスラエルのセキュリティとイスラエル航空のウソつきどもは許せない。(費用請求の下りはイスラエル編に記載)
イスタンブール空港のロストバゲージオフィスも今日9時ごろこちらから連絡して初めてPCが届いていることを知らせる。ロストバゲージからの連絡をできるだけ早く確実に受けるため、まともなホテルで移動せずに連泊していたのだが意味のないこととなった。更にPCのためホテルに届けることができず空港に取りに来いという。(後に複数の関係者から聞いたところPCだから届けられないということはあり得ないという)

しかし、無事にPCを手にすることができたのだから気持ちを切り替え、列車で隣国ブルガリアの首都ソフィアに向かうことにする。いよいよここから陸路によるヨーロッパの旅が始まる。